■ あやつり人形館

「男子家を出ずれば七人の敵あり」とはよくいうが、よくよく聞けば「家のなかに敵はいない」とは必ずしも言っていない。
だとすると家のなかにいるのは八人目の敵なのか、それとも一見敵に思えるだけの味方か。
雪鳶と対峙するたび、楽進はわからなくなる。

「そろそろ休もうと思うのですが」

楽進が廊下から声をかけると、何をするでもなく机に頬杖をついていた雪鳶は力の籠もった、それでいて冷ややかな視線を投げつけてきた。
それからひと言も発さず億劫そうに立ち上がり、楽進のそばをすり抜けて寝室に歩いてゆく。
その後ろをついていきながら、楽進は夢見た新婚生活と正反対の現実を再確認してまた暗くなった。

雪鳶は既に実家を失くしている。
奪ったのは曹操であり、実際に手を下したのは楽進だった。
勿論楽進が己の判断で事を為したわけでなく、更には独りで為したわけでもなく、要は争乱の中でひとつの家が滅んだというありふれた話なのだが、当然のように雪鳶は楽進を恨んでいる。
世間ではありふれた出来事であったとしても個人にとっては悲劇であることに変わりはないからだ。
館の奥の衣装部屋で怯えていた雪鳶の前に飛び込んできたのは紛れもなく楽進であったし、たとえ楽進は構造の中で動いていただけだとしてもその生き方を選んだのは楽進自身なのだから恨まれるだけの理由はある、といえば筋は通る。

もっとも楽進にも言い分はある。
寄る辺をなくした雪鳶は雑兵たちの慰み者になってもおかしくなかったが、楽進は彼女を丁重に本陣まで連れ帰った。
その後曹操に働きを労われ、褒美は何が良いかと戯れに尋ねられた際に雪鳶を下賜されたのだ。
もし楽進が請わなければやはり雪鳶は曹操か誰かの手にかかっていただろうし、結局は放逐されるか飼い殺しにされるのが関の山であったに違いない。
となると楽進は雪鳶にとって命の恩人でもあるはずなのだが、残念ながら雪鳶の認識においては楽進はどこまでいっても親の仇のままであった。

寝室に入ると、雪鳶はいつものように口をつぐんだまま寝台に体を横たえた。
楽進に帯を解かれ、襟を寛げられている間もじっと身を硬くしている。
初夜からずっとこの調子だ。
意地でもこの男の手つきに応えてやるものかという凄まじさがある。
それでも楽進が懲りずに雪鳶を抱くのは、やはり一目で恋に落ちるほど理想にかなった容貌の女性がいつかは自分に心を開いてくれるのではないかという淡い期待と、もっと切実なこと……つまりは愛されていようといまいと楽進の肉体的な欲求は定期的に解消しなくてはならないという事情によるのであった。

「あの……痛かったら言ってくださいね」

楽進が声をかけると、雪鳶は渋々といった様子で僅かに頷いた。
実をいうとここに至るまでも大変な道程だったのだ。

初めて同衾した晩、雪鳶はさすがにはっきり嫌とは言わなかったものの寝台の上で楽進から逃げ回った。
宥めすかしてもどうにもならなかったので遂に楽進は雪鳶を羽交い締めにして事を成し遂げ、どうやらそのことも恨まれているらしい。

華奢な身体を抑え込むことは鍛え上げた武人にとってまさしく赤子の手をひねるがごとく容易であったが、幸福な瞬間を夢見ていただけに楽進の落胆は大きかった。
経緯を考えれば雪鳶が心から肌を開くはずもないのだが、男に無謀な期待を抱かせる蠱惑的な美貌が彼女にはある。

しばらく経つと雪鳶はようやく楽進を大人しく受け入れるようにはなった。
しかし今度は意地でも心の中には入れぬという頑固さが前面に出てきている。
気の短い男ならば「己の立場を弁えよ」と拳のひとつやふたつ飛びかねないだろう。
雪鳶は楽進に拾われた幸運とその後の処遇に対しもっと感謝をしてもよいものだが、むろんそれも彼女にとっては「余計なお世話」のひと言に違いない。
門の外では既に争いの時は過ぎたが、この館のなかではいまだに冷ややかな対立が続いている。

「柔らかくて、とても触り心地が良いですね」

沈黙に耐えかねた楽進が雪鳶の内腿を撫でながら褒めると、あろうことか雪鳶は部屋中に響き渡るような溜息を吐いた。
あまりに無礼な振る舞いだが、それに相応しいあまりに無粋な言葉を口にした楽進は恐縮して黙り込むだけである。

(褒めたのに……)

取り付く島もない冷淡さに楽進もまた小さな溜息を漏らし、不毛な行為を再開するのだった。



「……って、俺に相談されてもなあ」

真剣に頭を下げる楽進を前にして、李典は迷惑げに頬を掻いた。

「そこを何とか」
「あんたって結構強引だよな……」

楽進としては李典に断られればもはや誰を頼ればよいのかわからない。
李典についても本来は個人的な相談を持ちかけるほど親しくはないが、彼以外にあてがなかった。

(夏侯惇どの……いやいや、ありえない)

様々な顔を思い浮かべてすべて打ち消した楽進は、藁にもすがる思いで李典を訪ねたのだ。

「確かに李典どのにおかれましては大変ご迷惑でしょうが」
「ほんとにな。うちだって別に万事うまくいってたわけじゃないし、人に講釈垂れるのも何かな」
「そこです! うまくいっていなかったけれど、ご努力の結果今は仲睦まじくいらっしゃるのでしょう。そこをお聞きしたいのです」
「そりゃまあ多少努力はしたけど……うちは相性が悪かったわけじゃないからあんたんとことは根本的に違うと思うんだよなあ。お宅んとこは経緯が経緯だしさ」

痛いところを突かれた楽進はウッと言葉を詰まらせた。
同郷のよしみで結婚に至った李典とは前提が違いすぎるのだ。

「しかし奥方とは大変仲が宜しいようにお見受けしますが、かつてはいったい何が問題だったのです? あ、恐縮です」
「慇懃に見えてずけずけ突っ込んでくるよなあんた……うちはしばらく子供ができなかったのを嫁さんが気に病んじゃったの。それですれ違うこともあったけど、一貫してお互いのことは好いてたからなあ」
「好き……ですか。明らかに嫌われている場合はどうしたら……」
「好いてもらうしかないよなあ……」
「その方法を訊いてるんですが……」
「だよねえ……」

李典は腕を組んで黙ってしまった。
心底悩んで相談しにきた楽進の手前はっきりとは言えないが、雪鳶自身がまったく望まぬ形で彼女を手に入れた以上、更に「愛せ」と要求するのは高望みが過ぎる。
むろん楽進は「そこを何とか」と助言を乞うてきているのだが、仮にその願いが叶ったとしてもその頃には白髪の老人ではないだろうか、と李典は想像した。
おそらくそれは「和解」ではなく「停戦」に近いだろう。

とはいうものの、すっかり意気消沈している楽進の顔を見ると、李典も何か手を貸してやれないかと本気で考えはじめた。

「そうだ、うちの嫁さんとお茶でもさせるってのはどうだ。俺が仲裁に出てくのも変な感じだし、女同士の方が本音も話しやすいだろ」
「おお! 是非とも奥方にご協力をお願いしたく。家内もこちらへ来てからは友人のひとりもなく、きっと話し相手を欲しがっていると思っていました」
「あとはまあ……子供作っちゃえば?」
「……やはり効きますか」

楽進がぐっと身を乗り出した。

「うん、まあ、やっぱりね」
「李典どののところもひとり生まれたらぽこぽこと続きましたもんね、やはり子は鎹というやつですか」
「うん……おま……まあいいや。とにかくそういうことだから」

すると楽進は椅子に深く座り直し、難しい顔で考え込んだ。
李典にしても根本的な解決策としてすすめたわけではない。
ただ夫婦といえども他人同士が心の底まで理解しあうなどということは一年、二年をかけたところで難しい。
だから遠い将来にそういう日を作るためにも、現在共有できる幸せを作って関係を保たせるという狙いだ。
子供でなくても、共通の趣味でも何でもよい。

「こういう状態だと子をもうけるのも不安で……その、実は……」

ちょっと、と手招きされ、李典は不審げに顔を寄せた。
楽進が口元に手で囲いを作って内緒話をするように李典の耳に近づく。

「ちょ、何だよ気持ち悪いな」
「実はですね……」
「……ほうほう……それマジ? あんたバカなの?」
「だって」
「大馬鹿者」
「ひえっ」

楽進が打ち明けた秘密とは、「これまでに一度も雪鳶に精を注いでいない」というものだった。
それでもできる時にはできるということは楽進とて承知の上だが、少しでも確率を下げたかったのだ。
夫婦としてまったく不完全な自分たちは親になど到底なれないと思った。

李典は呆れ返った様子で脚を組んだ。

「そういう考えだってことを嫁さんは知らないわけだろ? じゃあ拒絶されてるような気になるぜ」
「何たること」
「お前だよ」

とにかく李典の妻から素知らぬ顔で雪鳶へ誘いの言葉をかけてもらうという約束をとりつけて、楽進はほとんど追い出される形で李典の屋敷を後にした。
そして歩きながら考え事をしたかったので迎えに待たせていた馬車を先に帰らせ、重い足取りで家路に就いた。

結婚して以降、どうにかして雪鳶に心を開いてもらいたくて出来る限り優しく接してきたつもりだ。
贈り物は数えきれないほどしたし、一切の家事から解放した。
嫌いな男の子供を生むのは嫌だろうと、妊娠も望まなかった。
では、いったい彼女は何者なのか。
娘でも母でもなく、妻であるかどうかもあやしい。
楽進は雪鳶を語る言葉が自分のなかに無いことに、その時初めて気づいたのだった。

彼女は同じ屋根の下で暮らす美しい人形である。
その証拠に、楽進が帰った時雪鳶は明かりをひとつだけ灯した薄暗い部屋でただ椅子に座っていた。

「あの……帰る途中にこれを見かけて買いました、あなたに」

楽進が差し出した白い花束を物憂げに一瞥した雪鳶は、すぐに視線を足元に落とした。
その横顔の、くっきりと縁をとって塗られた口紅には一部の隙もない。

「……活けましょうか、どこかに花瓶があったはず」

努めて明るい笑みを浮かべ、楽進は踵を返しかけた。
すると横から陶器のような手が伸びてきて、楽進の腕のなかから花が一輪するりと奪われた。
見ると、雪鳶が大きな花弁のなかに鼻先を埋めて匂いを嗅いでいる。
顔の下半分が花で覆われた雪鳶は、伏せていた目をゆっくりと開いて楽進を見つめた。

「白い花は嫌い」

婚姻のあの日から、いや阿鼻叫喚の情景のなかの稲妻のような出会いから数えて初めて、雪鳶が言葉を発した瞬間だった。
想像していたよりも少し低く、湿度のある綺麗な声だ。

「……申し訳ありません。あなたの好みを知らなかったので、」
「父が好きな色だったので」

雪鳶はもう楽進を見ていない。
部屋の隅を睨みつけている。

「そういう理由……ですか。いえ、よく意味はわからないのですが」
「知らないの? 家族を守れなかった父親は憎まれるの」

男が最も言われたくない言葉を的確に選ぶ雪鳶はたぶん賢いのだろう、と楽進は思った。
何を成そうとも、何を得ようとも最後に家族を守れなかった時点で父親としては失格だという断罪は、自分のことを言われているわけではないはずの楽進を確かにこわがらせた。

きっとすべてに失望している女に言うべき言葉として最も雑な正解は、決して自分はあなたをそんな目には遭わせないという誓いなのだろうが、そして実際に一瞬楽進の脳裏を横切りはしたが、結局そんな大風呂敷は広げられない彼が口にしたのはまったく違う言葉だった。

「どれほど深く私のことを恨んでも、憎んでくれても構わないので……それでも私と一緒にいて頂けないでしょうか」

雪鳶は花の茎で遊びながら、黙って聞いている。

「憎まれているうちはまだ救いがあると思えます」

花を持つ華奢な手を上から握り締められると、雪鳶は眉間にほんの僅かな皺をつくった。

「……一生憎み続けますよ」

諦めたような声を聞き、楽進は破顔した。
おかしな遣り取りだが、一生を約束したのだ。

「はい! 一生受けとめ続けます!」
「……変なひと」
「だってわかるのです、あなたがほんとは情の深い方だということが。お父上のこともとても愛していたんでしょう」

雪鳶はしばらくじっとしていたが、やがて楽進の手を振りほどくと部屋を出ていった。

その晩、楽進は雪鳶を三度抱いた。

それから三年の間に雪鳶は二人の子を生んだ。
愛想がなく口数が少ないのは相変わらずだが、ひとつ変わったことといえば、楽進が昔の話を持ち出すと人形が少し怒った顔で頬を染めるようになったことである。



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