■ 満開前夜

文机に向かう元就から見えるところで雪鳶が落ち葉を掃いている。
きびきびとした動きは肉体の若さを匂わせる。
が、落ち葉を一所にまとめているつもりがしょっちゅう取りこぼしていた。
ちっとも作業が進んでいないのに本人は仕事をしている充実感を横顔に上らせているさまが大層可愛らしく、元就はつい筆をとめて目を細めた。

父親に目に入れても痛くないとでもいうように愛されたので、家事は苦手のようだ。
雪鳶の父は遠方に郷里を持ち、紆余曲折を経て毛利家に仕えるに至った。
重臣ではなかったが、幾度か戦功を上げて感状を与えられたことがあるので元就も名前くらいは覚えがある。

一家は親子三人だけで当地へやってきて、そのうちに母が、先頃父が亡くなってしまったために雪鳶は行き場を失ってしまった。
家単位で物事が運ぶ世だから、むろん身を寄せた先での扱いは運次第だが親類縁者を見渡せば父方母方どちらかには誰かしら頼る相手がいるものだ。
そう考えると雪鳶は相当不運であり、その身の上を小耳に挟んだ元就もさすがに哀れんですぐに自身の腰元につけてやった。
以降、身の回りの世話をさせている。

(おやおや、あんなにこぼして)

雪鳶はどうにかひと山にまとめた落ち葉を籠に入れようとしているが、ぎこちない手つきのせいで掬ったうちの半分は地面に落ちてしまっている。
せっかちな人間ならば思わず手を貸してしまいそうになる光景に、元就は頬杖をついて何か眩しいものでも眺めるような眼差しを浮かべた。

ようやく落ち葉を移し終えた雪鳶は、籠を抱えると裏手の方へ捨てにいった。
それで元就は視線を手元の書物に戻したが、しばらくすると突然視界の端から白い椿が転がり込んできた。
手の甲にあたったそれを拾い上げ庭を見ると、濡れ縁の向こうで雪鳶が笑っている。

「綺麗だね。どうしたんだい」
「裏に葉を捨てにいったら、落ちていたのです。綺麗に一輪そのままで落ちていたので、元就さまに差し上げようと思って拾って参りました」

あまり見事な大輪に咲いたものだから、己の重みで落ちたのか。
傷ひとつない白椿から一瞬雪鳶の裸体を想像し、元就はさり気なく目を伏せた。

しかしいくら元就に花を見せようと思ったからといって、履物を脱ぐのを面倒がって室内へ放り込んでくるというのは如何なものか。
当然元就は主人として叱るべきなのだろうが、つかの間の羞恥から脱して顔を上げた時にはもう雪鳶は箒を片付けるため背を向けていた。

「娘みたいな歳だからなあ」

ある程度お転婆なのも愛嬌で済まされるか。

「娘? 孫娘の間違いでしょう」
「隆景。いつからいたんだい」

いつの間にか隆景がそばに座している。
どういうわけか、謀将としてその名を中国に轟かせる元就も家中においては今ひとつ威厳が足りぬようだ。

「つい今しがたですよ。お声をかけたのですがお返事がなかったので」
「そうか。気付かなかった」
「しかし雪鳶が娘とは、鯖の読み過ぎというものではありませんか」
「そうかな」
「あの年頃を娘と思うのは、むしろ私の方ですよ」
「そんなことはないだろう」
「巳年ですって」
「雪鳶が?」
「彼女の父君が」

隆景が、巳年の生まれである。
雪鳶の父が隆景よりひと回り上、或いは下ということはないだろう。
が、元就は数拍の沈黙を置いてから尋ねた。

「癸?」
「父上も諦めませんね」

隆景が笑みをこぼした。

「それじゃ余程若くして亡くなったんだね」
「ええ。きっと早くに結婚したのでしょうね。雪鳶が生まれた時には二十歳前だったはずですから」

思い返せば雪鳶の身の振りについてさり気なく進言してきたのは隆景だった。
親しくしていたわけではないだろうが、一人娘を残して死んだ男が自分と同年と知って多少心が動かされるものがあったに違いない。

「ところで隆景、何故来たんだい」
「親尼子勢力の調略についてお話したくて……まあ、それは追々。父上、雪鳶に手を出したらだめですよ」

隆景はまだこの話題を引張るつもりだ。
元就は不審げに目を眇めた。
庭の雪鳶は、隆景が来る前にどこかへ消えたようだ。

「隆景」

思わず息子の名を読んだのは、隆景が雪鳶に目をつけていることを疑ったからだ。
とはいえもしそうならば元就の腰元にするなどという面倒なひと手間は不可解ではある。
案の定隆景は笑ってかぶりを振った。

「申し上げておきますが、私は雪鳶に好意など抱いていませんからね」
「そうか。私もだよ」
「はいはい。いや、そうでなくて、雪鳶を養女にしようと考えているのですよ。別に私でなくとも、元春兄上でもそれこそ父上が養親になっても良いのですが、先に触れた調略に用いるのも一手……と思いまして」
「子を政略のために他家へ……か」
「おや、今更それをおっしゃいますか」

元就はふふと笑った。

「ごめんごめん、私がそれを言ってはお前たちの立場がなかったね」

隆景も立腹しているわけではない。
非情ゆえに子を他家へ送り込んできたわけではなく、親子の絆を信じるからこその手法であることを隆景は理解してくれており、元就としてはそれが多少の救いとなっていて正直有難かった。
子が実親への信頼を失って養家の色に染まり、挙句反旗を翻す可能性もないではないのだ。

「雪鳶だと、何か違うのですか。ふしだらな想いは別にして、尚」
「親に向かってそんな言い方ってあるかね。いや、お前たちは私の実子だからさ。生まれながらにして重荷を背負わせているともいえるけれど、それはやはり宿命として諦めてもらうしかないし、その一方で私の子であることの恩恵を受けているという事実は否定できないだろう。でも雪鳶は毛利の恩恵の輪には入っていない。重荷だけ負わせるというのは、正負の均衡がとれていないように思うんだよ」
「それもまた宿命だと考えるのは?」
「宿命とは生まれついた星みたいなものだよ。私が背負わせたものまで宿命と思えと強要するのは、いささか分を超えている気がするね」
「という長い言い訳でした」
「こら、ほんとうに怒るよ」

じゃ、この手は使えないか……と隆景はやや草臥れたように首のうしろを撫でた。
雪鳶を養女として政略結婚に用いるという策にはそこそこ期待していたらしい。
日夜毛利家の行く末を案じて頭を捻っている隆景の手を一本封じてしまったようでいささか申し訳なくはあるが、元就としてはやはり承服しかねる案だ。

「すまないね」
「いえ、父上の気の進まない手段を強行したところで事が良い方向へ転がるとも思えませんから。まだ完全に諦めたわけではないですけれど」

そこへ雪鳶が盆を手に入ってきた。
隆景の姿を見て驚いている。

「申し訳ありません、隆景さまがいらっしゃるとは知らずお茶を一杯しかお持ちしませんでした。すぐ淹れて参ります」
「いいえ、私はもう帰りますのでお気遣いなく」
「宜しいのですか」
「ええ、それは父上に差し上げて」

いざ雪鳶が姿を現すともう元就のことを揶揄しない、良く出来た息子が今だけは恨めしい。
が、それは見透かされているという恥ずかしさから生まれる逆恨みだ。

隆景が去ると元就は雪鳶から茶を受け取り、渇いた喉を潤した。
何となくまだ雪鳶に行ってほしくなくてじっと視線を送ってみると、元就の心を感じ取ったのかそれとも無意識か、雪鳶はそばへきちんと座って膝に手を重ねた。

「隆景にね、」

元就は手持ち無沙汰に墨を擦りながら、斜め後ろに座る雪鳶の顔を見ずに言った。

「君を引き取りたいと言われちゃった」
「それは?」
「うん、養女にしたいんだって」
「隆景さまが」

雪鳶は今ひとつ実感が湧かないようだ。
父親と同年輩であるという以外に何の繋がりもないのだから致し方あるまい。

隆景のひと言で元就に仕えることが決まったのだからその点においては恩があるといえるが、換言すれば腹に一物あって手駒として留め置かれたともいえる。
とはいえ実際は雪鳶を引き取った時点で隆景にあったのはほぼ善意で、養女云々というのは保険のようなものだ。
それらをすべて承知の上でこんな言い方をした元就は、やはり卑怯だった。

「隆景さまがそうおっしゃるのなら……雪鳶は喜んで従います」

当然そうなる。

(悪者にしてごめん)

元就は胸の内で息子に謝罪した。

「健気だね。でも私はその話を断ろうと思っているんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。君のことをあまり知らないうちに余所へやるのはちょっとね」

すると雪鳶は「あ……」と傷ついた声を洩らしたので、元就はやや焦って振り向いた。
思っていたより雪鳶の感性は鋭いようである。
調略に用いるには信用が足りないと思われている、と雪鳶は解釈したのだ。

「誤解しないでくれ。私が君のことをもう少し知りたいという意味だよ」
「知る……?」
「そう」

心細げな表情を浮かべている雪鳶をどうにか慰めたくなって、元就は後ろに片手をつき、腰をひねるようにして雪鳶へ顔を近づけた。
大事な話を聞き漏らさないよう、とでもいうように雪鳶も神妙な面持ちで身体を前へ傾けた。

「君がとてもよく働いてくれるから、できれば幸せになってほしいと思ってね」

少し下から覗き込む角度で元就は雪鳶の目を見た。
遠目には黒い瞳だが、よく陽の入るところで見ると濃い蒼のような、鼠色のような色をしている。
雪鳶の両親の故郷である陸奥には青みがかった瞳を持つ者が時折現れると以前聞いたことがあった。

「ほんとうですか。嬉しい」
「ほんとだよ。君は私がもっと知りたいと思うものをたくさん持っているんだ。たとえばその目の色のことももっと知りたいし、匂い……落ち葉の匂いかな? 優しくて柔らかい匂いだ……」
「元就さま」
「それに私は中国より東へは殆ど行ったことがないから色々と話を聞いてみたいし……紅を差している?」
「いいえ」
「じゃあこれ自然の色なんだ……それでね、歴史を紐解くと東国にも大勢の英雄がいたんだよ、都から見れば辺境だけど、だからこそ独自の文化を花咲かせたんだ……君は、」

互いに寄せ合った唇がそこで接触し、言葉が途切れた。
しばらくはただ重ねあわせ、やがて元就が吸いつくように仕掛けても雪鳶は逃げなかった。
雪鳶の白い額に元就の少々癖のある前髪が触れている。

「雪鳶……何というか、その、すごく……良かった」

顔を離すと、雪鳶は下唇を優しく噛んで俯いた。
娘らしい恥じらいが、庭から差し込む真昼の光を跳ね返してしまいそうなほど眩しい。

「元就さま」
「……何だい」
「私も知りたいことがあるのです。恋ってこんな風に始まるものなのでしょうか」

講釈を求められても、元就にとって恋とは遠き日の出来事だ。
むろん政略結婚だったが最初の妻とは馬が合い、自身がまだ若かったのもあって恋のような感情をしばしば覚えたような記憶がある。
よく晴れた日の海上の燦めきのようなものではなかっただろうか。
それも夫婦生活が続くなかで深く穏やかな慈愛に変わっていった。

その後他にも妻や女を持ったが、嫡子と庶子とを明確に隔てるという意味もあって元就自身が意識的に感情を抑えた。
従って、恋の教えを請う相手として元就は力不足である。

ただ、あまりに素朴な問いかけに胸を打たれた。

「先々のことを考えると恋ではないといいな……と思うんだが、そう思うということは、やはりこれは恋なのだろうね」
「先々のこと……では私はどこまで元就さまをお許しすればいいのでしょうか。将来のことを考えればもしこれ以上求められても拒んだ方がいいのかしら」
「あ、あの……それを私に訊かないでくれる」

元就は今度こそ身体ごと振り返り居住まいを正すと、慎重な面持ちで尋ねた。

「とりあえず、抱いてもいいだろうか」
「抱く?」
「抱擁する」
「腕を回して引き寄せる?」
「それだね」
「あ……では、拒みませぬ」

許しが下りたので元就は腕を伸ばし、正面から雪鳶を抱き寄せた。
雪鳶の小さな顎が元就の肩にのり、腕がそっと抱き返した。
偉丈夫ではない元就の腕のなかでも尚雪鳶の身体は心許ない風情だった。

「隆景に知れたら怒るだろうなあ……」
「その時は私がお叱りを受けます」
「それも可哀想だな……いっそふたりで逃げちゃおうか」
「先々のことをお考えになる方のお言葉とは思えません」

雪鳶が肩を震わせて笑った。
つられて元就も笑いかけたが、すぐに口元を引き締めた。
隆景は決して冷酷非情の男ではないが、何といっても元就の血を引いている。
必要に迫られれば心を鬼にすることもあろう。

「よし、一計を案じるほかないな。いいかい、雪鳶。これから言うことをよくお聞き」

元就は雪鳶の身体を離し、真剣な面持ちで顔を覗きこんだ。
少々強張った顔の雪鳶が小さく顎を引く。

それから四半時ばかりかけてひとつの策を雪鳶に説き聞かせた元就は、話し終えると「よく理解したね」と念を押した。
はい、とはっきり頷いた雪鳶は、ふとかなしげな顔をつくって元就の胸に手のひらを重ねた。

「でも元就さま。雪鳶は元就さまのことを信じていますけれど、ほんのこれだけの出来事のあとにすぐおそばを離れるというのはどうしても不安です」
「離れるのは来るべき日のためだよ」
「勿論わかっています。だからこそ、もう少し確かなものをください」
「ええと……証文とかかな」
「紙に書きつけた文字などいりません」

そう言うなり雪鳶は元就の首に腕を巻きつけ、彼の胸に飛び込んで唇を重ねた。
雪鳶が体重をかけるので、不意を衝かれた元就はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
情けないことに元就の手は無意識のうちに雪鳶の腰を掻き寄せてしまっているが、さすがに頭の方は驚いている。

(これほど積極的とは)

雪鳶の手は先程接吻を知ったばかりの娘とは思えない動きで元就をまさぐっている。
初めての恋が早くも危うくなっていることが、かえって雪鳶のなかの女に火をつけたのだろう。

(ゆめ放すまじ)

身を翻し雪鳶を組み敷きながら元就は心に決めた。
庭へ遊びにきた雀が座敷の内の無惨な光景に驚いたか、羽音を残して飛び去った。



「無為に入った、ですって?」

用があって久方ぶりに父のもとを訪ねた隆景は眉を持ち上げた。
さしもの策謀家も度肝を抜かれたらしい。
驚かれた元就の方はけろっとした顔で饅頭を頬張っている。

「雪鳶が出家したというのですか……ちょっと父上、あまり甘いものばかり召し上がると体に障りますよ」
「そう、仏門に入った。これが食わずにいられるかい」
「まあ酒に逃げないのは父上のお流石のところというか小物じみたところですが……」
「小物って、お前ね」
「人目を欺き油断させるための策でしょう、小物ぶるのも。しかしなにゆえ突然出家など……」

元就は茶を啜ってから溜息を吐いた。

「私と隆景の間に挟まれて心苦しい思いをしていたのだろうね。私には懐いていたし、かといって路頭に迷いかけたところを救い出してくれた隆景のことも裏切れない。憂悶の挙句に世を捨てたのさ」

それを聞く隆景の顔は少し青褪めている。
いくら調略に用いようとしたからといって、今が盛りの娘に浮世を捨てさせるほど追い詰めたとなると夢見が悪いにもほどがあった。

「父上はともかく、雪鳶がそこまで本気とは思っていませんでした」
「私に対してどうこうというよりも、こんな事情で他家へ遣られて一生肩身を狭くして暮らすことに失望したのだと思うよ」
「そんなに嫌なら言ってくれればよいのに」
「言えるもんかね、小早川隆景に」
「父上は何故そのように平気な顔をしておられる」

すると元就は一瞬動きをとめたあと、急に物悲しい表情を浮かべて俯いた。
隆景の一見穏やかな瞳が鋭く光る。
これは怪しい、とその双眸が語っていた。
元就の方はわざとらしく咳払いなどしている。

「父上、雪鳶はいずこの尼寺に入ったのですか」

隆景は出家そのものを嘘と睨んだのだろうが、意外にも元就はよどみなく寺の名をこたえた。
調べればすぐにわかることだから仏門に入ったというのは真実なのだ。

(でも、なぁんか怪しい)

隆景は鼻白んだ目つきを父に注いでいる。

「それにしても若い娘が世を儚んで髪を削ぐなど、何とも哀れな話ですね」
「うん……」
「彼女を父上の腰元につけたのは私ですから、やはり責任を感じます。今度訪ねて詫びを入れて参ります。折りを見て還俗させましょう」
「そうだね……」

しょんぼりと背を丸めている元就がどんどん小さくなっていく。
隆景は溜息を吐き、かぶりを振った。

「父上」

元就が怯えた眼差しを寄越す。
最盛期の彼ならば決して見せなかった色の瞳を見て、隆景はやりきれなさを感じた。
老いた父の姿それ自体もさることながら、そんな人を追い詰めてしまった己自身に対してである。

「何かまだおっしゃりたいことがあるのではないですか、ほんとうは」

元就は一瞬目を伏せてから庭へ視線を逃した。
心を閉ざされたような気がして、隆景は床に手をついて迫った。

「そんなに隆景は信用なりませんか」
「何を言うんだい。隆元亡き今、お前ほど信じられる男はこの世にいないよ。元春も良い子だけど、あれの考えていることは私にもよくわからないし……まあいいや、仕方ない。正直に言うしかないか」

小声で鳴きながら腰にじゃれついてきた猫を、元就が膝の上に抱き上げた。
顰め面の息子から身を守る盾としては如何にも心許ない。

「雪鳶がね、出家したというのはほんとうだよ。私自身、いずれ彼女を還俗させるつもりだった。でも一番重要なのはそれをいつやるのかってことなんだ」
「いつやるんです」
「もうやった」

さすがの隆景もあまりの早業に二の句が継げないようだ。

一旦出家をさせれば隆景もそれ以上固執することはないだろうと思った、と元就は語る。
ほとぼりが冷めるまで山裾の小さな屋敷に匿っておくつもりであった。
いずれは隆景も雪鳶の存在を知るであろうが、一度世を捨てた女を無理矢理嫁がせるというのも外聞が悪い話だ。
こんなにも早くばれたというのは元就にとっても予想外だったという。

父親に謀られた隆景は、かといってそのことについてありのままに怒りを表すのは憚られたようで、論点をすり替えた叱責を開始した。

「そんなしょうもない企みのために若い娘の髪を削ぐだなんて。恥ずかしくはないのですか、え? 髪は女の命というではありませんか、まったく可哀想に」
「そ、剃ったわけじゃないよ、毛先をちょっと切っただけだよ……」
「一寸ですか、二寸ですか」
「肩くらいまで……」
「酷なことを!」

隆景が出し抜けに床を右手で打ったので、元就は怯えて肩をびくつかせた。
雪鳶の髪がどれだけの丈であろうと本来隆景にとっては悉皆興味のないことだ。
それでも怒鳴らずにいられなかったのは、このように姑息な策をとらせるほどに父を追い詰めてしまったという負い目を押し隠すためだった。

「それほどに彼女のことを欲するならば、言葉を尽くしてそう言ってくださればよかったのです。私も鬼ではないのですから、これまで散々ご苦労なさった父上が是非にとおっしゃるのであれば折れるほかないじゃありませんか。古来、女人のために齟齬を来し袂を分かった例は掃いて捨てるほどあります。毛利がその轍を踏むわけにはいきません。まったく納得のゆかぬことではありますが、明日にでも雪鳶をこちらへ連れていらっしゃい。ちゃんと夫人として遇して差し上げるのです」

顔には出ないものの隆景も少なからず錯乱しており、もはやどちらが親でどちらが子ともわからない口調になっている。
ほんとうならば子であっても放逐されかねない無礼だが、元就の方もその判断すらできぬほど憔悴した様子でこうべを垂れていた。
済まぬ、済まぬと詫びる父をそれ以上直視できず、隆景は「しからば」と告げるなりそそくさと立ち上がって部屋を出ていった。

残された元就はいまだ項垂れたまま床を見つめている。
しばらくはそのまま動けずにいるようだったが、やがて玄関の方角から隆景の気配が完全に消えるや否や膝から猫を下ろし、隣室へ続く襖障子へ膝で躙り寄った。
襖に手を掛けて薄く開けると、隙間の向こうに愛らしい瞳がひょいと覗く。

「上手くいったのですか、元就さま」
「ああ、万事上手くいったよ。さあ、出ておいで」

元就は襖を大きく開け放った。
窓もない小部屋で息を潜めていたせいか、少し疲れた様子の雪鳶が這い出てくる。

「隆景に約束させたよ。君を厚く遇すると」
「ああ、それではまたおそばで暮らせるのですね」
「その通りさ」

ふたりは手を握り合って「やった、やった」と揺らしたが、雪鳶が不意に顔を曇らせた。

「でも、何だか気が引けますわ。隆景さまを騙したことにはかわりないもの」

老い先短いことを自覚する元就は端から時間を掛けて隆景を説得する気などなかったのだ。
雪鳶を出家させ、直ちに還俗させたことまでは真実だが、その後どこかへ隠しておくつもりだったというのは方便だ。
この元就が愚策をとるほど焦ったと見せて、その上哀れっぽい顔をすれば隆景は不本意でも必ず雪鳶のことを認めるに違いない。
そう踏んで、そして見事に的中した。

「いいんだよ、あの子は最近どうも私のことを翁だと思って軽んじている節があるからね。ちょっとお灸を据えてやったのさ」
「それもお父上をご心配なさっているからこそでしょう」
「そうだね。この件については後日隆景の寛大さに報いるという形で何かしらの礼はしよう」

自分が親子の仲に割って入ることにはならないと知り、雪鳶は満足気に頷いた。
それから急に重みのある眼差しをつくり、元就の胸にしなだれかかった。
元就の顎を思わせぶりに指でなぞり、「公」と呼びかけている。

「今後とも、可愛がってくださりませ」

見事なものだ。
たった数十日の間の経験が若い娘に成長を促し、彼女は今まさに咲き誇ろうとしている。
元就は新たに夫人となった女人の口を吸い、やがてふたつの影は重なりながらゆっくりと倒れていった。




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