■ 偕老同穴

折角見事に咲いていた川沿いの桃が昨夜の大雨で皆散ってしまった。
黒い地面を艶やかに彩る濃紅の花弁を踏みながら、徐庶は友人の家へ向かっている。

昨日も訪ねた。
三日前にも。
ほんとうは一昨日も訪ねたかったがさすがに噂が憚られて断念した。

同い年の友人には、徐庶の目当てが自分ではなく妹の雪鳶であることが疾うにばれている。

勝手知ったる様子で裏から屋敷に上がると、奥から巻物片手に現れた友人が耳の後ろを掻きながら口を開いた。

「大叔母上の見舞い」
「何だって」
「雪鳶」

恥ずかしさに消え入りそうになりながらも、徐庶はかぶりを振った。

「違うよ、借りた本を返しに来たんだ」
「あいつから本なんか借りてたのか」
「ばかだな、君に借りたやつだよ」

すべて承知しているといった顔でからからと笑った友人は徐庶を客間へ招き入れた。
庭に面した部屋には柔らかな春の日差しが満ち満ちている。

「求婚すればよいのに」
「そんなんじゃないよ」
「真剣ではないということか」
「いや、本気……」

あまりからかわれるので徐庶もつい気分が悪くなり何か言い返そうと口を開きかけたが、また同じように揶揄されるだけだと思い直し結局何も言わなかった。
折良く雪鳶が戻ってきたせいでもある。
その姿を見た兄は気を遣ってか急ぎ描書き上げねばならない書状があるといって妹に徐庶の相手を言いつけ、自身は書斎に引っ込んでしまった。

ふたりきりになると徐庶は急にどうしたらよいのかわからなくなってしまって、ただどぎまぎしながら己の手を何度も握り返すだけの木偶になった。
向かいに座った雪鳶のきょとんとした顔を見るのが苦しい。

(でも可愛い……)

我ながら気色の悪い思考だと悲しくなった。

「あの……桃、散ってしまったの、ご覧になった?」

情けないことに助け船を出された徐庶は、がっくりと項垂れて「ああ」と小さくこたえた。

「綻びるところまでが綺麗なのに、勿体ないでしょう。見たかったな」
「でも……」
「はい?」
「地面に散った花びらが赤い敷物みたいで綺麗だったよ」
「えっ?」

俯いてもごもごと喋ったせいで明瞭に伝わらなかったらしい。
顔を傾けて耳を徐庶に近づけた雪鳶は何気なくその仕草をつくったのだろうが、徐庶の心はいとも簡単に削り取られた。

「あっ、落ちた桃が綺麗だったのね?」

勝ち気というほどうるさくはないが、利発そうな雪鳶の力強い眼差しの前に立つと、徐庶はいつも激しく惹かれる一方で己の覇気の無さを思い知らされて挫けそうになる。
四つも下の娘に対して敗北感を抱いてしまう自分の不甲斐なさを認識するたび、逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。

「優しい発想をするのね、元直さまは」

また気を遣わせてしまったかと視線を上げた徐庶だったが、嬉しそうに細められた目を見てあながち世辞でもなさそうだということに気づいた。

「そうかな……軟弱なだけだと思うよ」
「でも兄様なんか見苦しいからさっさと掃いてしまえばいいのにって言うのよ。情趣のかけらもないでしょう」
「そういうからっとした気質の方が男らしくていいよ」
「そんなことないわ」

雪鳶は肩を竦めた。
どこか少年のように溌剌とした性格に徐庶はいつも気圧されている。

「そ、それじゃ君は俺のことを嫌いじゃないんだね」

簪を直していた雪鳶が腕を上げたまま目を丸くして徐庶を見上げた。

「嫌い?」
「うん、俺のこと……」
「私、嫌いな人とは話さないわ。おべっか使うのも嫌い」

それからも徐庶は頻繁に雪鳶を訪ねた。
初めて手を握ったのはひと月後のことだ。
粉をまぶした菓子を食べた徐庶が噎せ、咄嗟に卓上の手拭きを取ろうとし誤って雪鳶の手を掴んだためだった。
はじめ雪鳶は徐庶が助けを求めるほどに苦しんでいるのかと思って慌てたが、落ち着いた徐庶から真相を聞かされると目に涙を浮かべて大笑いした。
乾いた竹が割れるように弾ける笑い声を聞いて、この声を聞きながら人生を送れたらきっとそれ以上に幸福なことはないと徐庶は思った。

しばらくして二度目に手を握った時、徐庶は喉に何かを詰まらせてもいなかったし、噎せてもいなかった。

三度目に手を握ったのは、婚礼を終え初めて寝室でふたりきりになった時のことだった。



「ねえ、前髪を作ったのだけど、どう思う?」

家へ帰った徐庶を出迎えた雪鳶は、人差し指で自分の前髪を触りながら意見を求めた。
言われてみれば今朝までなかった前髪が彼女の額に下がっている。
近頃とても腕の良い髪結が近所に店を構えたそうだから、早速そこへ行ってきたのだろう。

帰ってきたばかりなのだからまずは茶の一杯でも出してほしかったが、徐庶は土間へ下りて手を洗いながら背後の雪鳶にこたえた。

「似合ってると思うよ」

容姿や装飾品について意見を求めてきた女に「意見」を返してはならないという心得くらいは徐庶のなかにもある。
どうせ肯定しか求めていないのだから……と徐庶が妻にばれないようにかぶりを振った時、突然背中をばしりと叩かれた。

「いたっ」
「もう、嘘ついて」
「なに」
「この前髪のことよ。最悪じゃない。こんな風にするつもりなかった。ひどい出来栄えだと思わない? そう思うでしょ?」

徐庶は雪鳶を見つめたまま布で手を拭いた。
その間も頭脳は猛烈な勢いで回転している。
それから布を畳み、そばの卓へ置いて笑みを浮かべた。

「確かにいまいちもかもしれないな」

悲しいことに徐庶の限界はそれだった。
途端に雪鳶が仏頂面を浮かべた。

「どっちよ」
「ええと」
「さっきは似合ってるって言ったじゃない。どっちが本音なの?」
「ええと……ええと、どっちも」
「そんなわけないでしょ。もう知らない」

ぷいとそっぽを向いて立ち去った雪鳶の後ろで、徐庶は狐につままれたような顔で立ち尽くしている。
どれだけ考えても何とこたえれば正解であったのかわからない。
もっとも正解があればの話だが。

結婚して数年が経つが、雪鳶とは上手くいっているとは言いがたい。
その間に徐庶は成り行きで人を傷つけたために追われる身となり、雪鳶の兄や友人たちの手によって逃亡の手筈を整えてもらった。
当初雪鳶は置いていくつもりだったが、雪鳶自身が「噂が立てば再婚もできないから残ったところで意味はないし、あなたが悪人じゃないのは誰よりも私が知っているからついていく」と縋ってきたのだ。

あの頃の可憐な君はいったいどこへ。
徐庶は卓上の布をはたき落とし、ぐったりしたように腰掛けた。

何故雪鳶が変わってしまったのか、そのこたえならば徐庶とてすぐにわかる。
町を飛び出したあと、徐庶はしばらく或る学者のもとで学び、のちにそのつてを用いて荊州へ移り司馬徽の門下に入った。
その間まともに仕事をしていない。
他の門下生と一緒に畑を耕しているので野菜はただで手に入るが、その他の生活用品はおおむね雪鳶の稼いだ金で購入する日々がずっと続いていた。
徐庶も時折手紙の代筆などで臨時収入を得てはいるが雀の涙でしかない。
この状況で妻に可愛げまでをも求めるのはあまりに望みが高すぎるということは徐庶も十分わかっている。

結局のところ、何を言っても正解ではないのだ。
返答を変えたところで雪鳶は言葉尻をとらえて怒るのだろう。
怒りの矛先が今の彼女には必要に違いなかった。

徐庶が寝室を覗きにいくと、雪鳶は既に横になっていた。

「夕飯はどうするんだい」
「私はもう食べた。あなたのは台所に置いてあるからどうぞ召し上がって」

壁の方を向いたまま振り返りもしない雪鳶に「そうか」とだけ返し、徐庶は台所で立ったまま夕食を掻き込んだ。
外で働かせて食事まで作ってもらって、その上何を望むのか。
徐庶は食器を片付けながら自分に言い聞かせた。

(彼女はよくやってくれている。良い妻を貰った)

惨めなどではない。
たとえ妻が最近急に身なりに気を遣うようになったとしても、夕食を夫以外の誰かと食べたのだとしても、見たことのない服を着ていたとしても、こうして一人分の食事の用意をしてくれているうちはまだ恵まれているのだ。

(そのうちにまた昔のようにやれる)

居間の長椅子に横になりながら、徐庶はもう一度自分に暗示をかけた。
子供の頃から幽霊も龍も信じたことがないのに、大人になって幽霊よりも龍よりも不確かなものを信じようとしているのが我ながら滑稽だった。

翌日、徐庶は古くなった筆を新調しに市場を歩いていた。
用事はすぐに終わってしまうだろうが、その後は先生のところへ顔を出し、それからどこかの酒家で時間を潰し、夜遅くなってから帰るつもりだ。
家を長く空ければその分だけ雪鳶に自由を許すことになるが、顔を合わせて剣呑な空気になるのが嫌だった。

逃げてるよな、と自嘲していた徐庶は、前方への注意が疎かになっていたのかもしれない。
向こうから歩いてきた男と肩が衝突し、慌てて振り返って頭を下げた。

走っていたわけじゃなし、大した衝撃ではなかったはずだ。
ところがぶつかった相手は丸太のように太い腕と山のように盛り上がった肩を誇示しながら散々徐庶の非をなじったあと、わざと下から見上げるように徐庶を睨めつけて吐き捨てた。

「兄ちゃん金出しな」

徐庶は顔に笑みを貼り付けたまま耳を疑った。

(嘘だろ、十五歳じゃないんだぞ)

徐庶は顔つきのせいかひょろっとした体つきのせいか、幼い時分からやたらと往来で絡まれることが多かった。
やくざな仲間と行動を共にし撃剣を会得したのも、元はといえばそんな事態に備えるためだ。
今でも自分の容姿に威厳のないことは自覚していたが、まさかこの歳になってかつあげに遭うとは予想だにしていなかった。

いつの間にか男の後ろには同じくたちの悪そうな風貌の男たちが二人近寄ってきている。
徐庶の後ろにもひとり。
道行く人々は大勢あっても、皆一様に下を向いている。
騒動になっても面倒なので金を渡してしまうのが良策かと徐庶は一旦懐に手を遣り、しかしすぐに考え直した。

これは雪鳶が稼いだ金だ。

徐庶は懐から手を離した。

「君たちにあげる金なんてないよ」

実際に口から発することができたのは「君たちにあげる金な」までだ。
気づけば徐庶はそばの花屋の店先に突っ込み、唇の端から血を流していた。
起き上がりながらかぶりを振ったが、拳をまともに食らったせいでまだ目の前がちかちかと点滅している。

得物はないが、堅気とは言いがたい世界に身を置いていた時期もあるから体術も心得てはいる。
それでも一度は捨てた血腥い技術を、よりによってこんな低俗な出来事のために再び用いる気は起こらなかった。
もし再度武器を取る日が来るとしたら、それは志を預けるに足る人物に出会った時だとずっと心に決めていたのだ。

殴り返したい気持を堪え、徐庶は正面から男を睨み返した。

それが引き金となったようだ。
あとのことは、徐庶もよく覚えていない。

家々の屋根が金色に染まる頃、泥まみれになった徐庶は足を引きずって家路に就いていた。
人差し指を口のなかに突っ込んで上下の歯列をなぞったが幸い歯は一本も折れていない。
口から出した指を見ると、少なからぬ血がこびりついている。
その視界もまた、腫れ上がった右の瞼のせいでいつもより狭い。

玄関を開けると珍しく雪鳶は既に帰っており、傷だらけの夫の姿を見て絶句した。

「ただいま」
「お、お帰りなさい……」

寝室へ向かう徐庶の後ろを雪鳶が狼狽しながらついてくる。
寝台に寝転ぶ前、一瞬「泥がつく」と雪鳶に怒られるかと思ったが耐え切れずに倒れ込んだ。
俯せに横たわったままぴくりとも動かない徐庶に動揺し、雪鳶が寝台の端に座って背中をさすった。

「いったい何があったの」
「何でもない。転んだだけ」
「どこでよ。針山のなか?」

全身から感じる痛みを堪えながら、徐庶は慎重に仰向けになった。
打ち明けねばなるまい。

「雪鳶。ごめん、お金盗られちゃった」

それでおおよそのことは察したらしい。
雪鳶は悲しそうな顔をして首を傾げた。

「……だよね。君が頑張って稼いだ金なのに、俺はなんて間抜けで愚図な役立たずなんだろう」
「有り金すべてを素直に渡したのにこんなに殴られたの? ひどすぎる」
「いや、断ったせいで怒らせたみたいだ」
「断ったですって? 何故そんな馬鹿なことを」
「君は怒らないの?」
「怒ってるわよ。夫をこんな目に遭わされて怒らない妻はいないわ」

綺麗に化粧を施した顔が悲しそうに歪んでいる。
徐庶は呻き声を上げながらどうにか上体を起こし、雪鳶の瞳を見つめた。

「だって君が稼いだ金じゃないか。素直に渡すなんて俺にはできないよ」

すると雪鳶は眉を八の字にしたまま笑みを浮かべた。

「そうね、間抜けだわ。はした金のためにそんな怪我して」
「はした金じゃないよ」
「いいえ、はした金なの。だってあの店の筆のなかで一番安いやつを買うだけの金額しか渡してないもの」
「……」

雪鳶は「可哀想に」と目に涙を浮かべ、徐庶の破けた襟から覗く胸を繰り返し撫でている。
化粧は他の誰かのためにしたかもしれないが、その涙は確実に徐庶のために流されたものだ。
徐庶の手が雪鳶の手を握りしめた。

「こんな夫ですまない。美人で頭の良い君ならもっと立派な男と結婚できたろうに。俺、ほんとうに格好悪いだろう」
「……いいえ」
「嘘だよ。いい歳してかつあげに遭った挙句こてんぱんにされるような男だよ」
「いいえ、ちっとも格好悪くなんかないわ」
「……本気で言ってる?」
「ええ、他人がどう言おうと私は私の判断を信じてるの。あなたは素敵よ」

(そうか、これが正解か)

徐庶は思い切って顔を前に突き出してみた。
一瞬のためらいはあったが、雪鳶はそれに応えて軽くくちづけをした。
唇を離したあと雪鳶は俯いて下唇を噛んだ。
その頬を久しぶりに撫でながら徐庶は言った。

「……ありがとう、君も素敵だよ」

雪鳶は俯いたまま微笑を浮かべ、すぐに真顔に戻った。

「素敵じゃないのよ、私は」
「ここまで良くしてくれたんだ。俺は咎めないよ」
「そういう気遣いはいらないのよね」
「そっか、そういえばそうだった。でも状況が状況だけに、望むまま君をどやしつけることができないのはわかるだろう」
「……家の奥までは入ってないのよ。門……いえ、玄関くらいまでかな、行ったのは」

それが暗喩であることは徐庶にもわかった。

「どうかな……もう一度そこへ行って、家のなかまで上がるような気持はまだ君のなかに残ってる?」

雪鳶が首を横に振ったので、徐庶は笑ってもう一度接吻した。

「全部忘れよう。そしたら今度は君が俺のためにお洒落をしようと思ってくれるように俺は頑張るよ」
「……ええ」
「参ったな。今ほど君の顔を見たいと思う時はないのに、君の姿が欠けて見えるよ」
「だってあなた瞼をすごく腫らしてるもの」

雪鳶が堪え切れないといった様子で噴き出した。

鼓膜を破られなかったのは幸いだった。
この弾みのある笑い声こそ、徐庶が雪鳶に求婚した理由だったからだ。

「その前髪、可愛いよ」

徐庶に抱き寄せられ、雪鳶は彼の肩に頬をのせて静かに目を伏せた。

「でも額を出してる方がもっと好きだな」
「……伸びるまで待ってちょうだい」
「いつかきっと楽をさせてあげるよ。そしたらその髪に似合う簪を買うんだ」
「濃紺の簪にして頂戴。きっと白髪によく映えるから」
「そんなに待たせないよ。ほんとに減らず口を叩くな、君は」

徐庶の腕のなかで雪鳶の身体が小刻みに揺れている。
笑っているのだ。

「口紅も買ってあげるね。その色はあんまり似合ってないみたいだ」
「あなたの唇と同じ色のやつにして」
「それは血の色だよ……ひどいな、もう」




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