■ からたち城

枸橘の生垣の前を通りかかった高虎はふと足を止め、難しい顔で白い花を眺めた。

「まったく、枸橘というのはどこの家にも生えていやがる」

は、という顔をした従者は仕方なく「棘が鋭いので防犯に良いからでは」と当たり障りのない言葉を返した。

「そうだ。ありふれた風情で油断させ、いざ触れられるとしたたかに刺し返す」
「それでいて平凡な風貌が家の外観を邪魔しないのも枸橘が好まれる理由なのでしょうね」
「ああ。かも知れん」

高虎はそれ以上の説明をしなかった。
単に「殿は枸橘の花がお嫌い」とでも思っていればいい。
あながち間違いでもない。

再び歩き始めた高虎は、記憶を掘り返して或る家を思い出した。
長者屋敷といった門構えでなかなか立派だが、出入りする人は少なくとても寂しい。
手入れにしても、無様にならない程度に最小限といった感じだった。
何が何でも守り通すほどの価値のある家とは思えなかったが、その昔高虎はそんな家と天秤にかけられた上で捨てられたのだ。

(立身出世した俺の噂を聞いて臍を噛めばいい)

頭のなかで憎まれ口を叩きながら、それでも尚胸の奥が鋭く痛むのは、やはり枸橘の棘に刺されたからなのだろう。



「先日借りた本を返しにきました」

取次をするほどの使用人もいないので、高虎は裏木戸から勝手に入ると庭から座敷に上がった。
文机に向かっていた雪鳶は筆を持ったまま驚いた顔をしている。

「まあ、野良犬だってもう少し遠慮がちに入ってきますよ」
「家宰でもおれば犬だって挨拶くらいしたでしょう。危ないのではないですか、女の独り住まいは不用心だ」
「人に周囲をうろつかれるのは嫌いです」

穏やかな口調ながらはっきりと好悪を述べる雪鳶に、高虎は内心嬉しくなった。

新たに仕官先を得た高虎は近頃頓に勉学の重要さを痛感しているが、生憎師を迎えるほどの実入りはない。
家中には博学で知られる士もいるが吏僚気質の彼らと高虎は反りが合わず、無知をばかにされるのを嫌って雪鳶の家へ密かに通っている。
雪鳶の亡夫は医師であると同時に学者であったので、主を喪った書斎には彼の膨大な蔵書がそのままに残されていた。
人から噂を聞いて突然訪ねた高虎を雪鳶は快く招き入れ、書物を好きに扱っていいと言ってくれたのだった。

「生垣の枸橘に実が生っていました」
「夫が生きていれば枳実を薬に加工したでしょうね」
「もう何年になります」
「今年の秋で丸三年」

そこで一瞬遠い眼差しをした雪鳶の横顔を高虎はじっと見つめた。
若くして未亡人となったこの女性を夫は泉下からどんな思いで見ているのだろうか、とふと考えた。

「本は役に立ちましたか」

雪鳶がさり気なく話題を変えた。

「はい。それにしてもご夫君が兵法書までお持ちだったとは思いませんでした」
「もとは武家ですもの」
「それは初耳です」
「そうなのですよ。三男坊で、医者の養子に。実父と舅は随分親しく行き来していたらしいので、たぶんその縁でしょう。武家の出ですから、死への覚悟は日頃からあったでしょうね。予想外に早かったけれど」

雪鳶のやや強い囁きのような声が耳に心地良い。
でも俺なら……高虎は雪鳶の薄い肩を見ながら生唾を飲んだ。

ばかな男だ、と高虎は思う。
折角の美人を嫁に貰っても、こうも早く逝っては何の意味もない。
これから美しく老いてゆくこの人を、夫は見ることができないのだ。

「あの人が生きていれば、きっと高虎殿が訪ねてくるのを日々楽しみに過ごしたでしょうにね」

高虎は視線だけを持ち上げ、相槌のような仕草をしてみせた。
自分のことばかり話しているという気になったのか、雪鳶は気まずさを隠すように小さく笑って再び話題を変えた。

「高虎殿は? ご結婚」
「好きな人がいます」

あまりにも率直に述べたことを、高虎自身が驚いていた。

「まあ、そうなのですか……一緒にならないのですか」
「そうなりたいとは思っていますが、なかなか障害が多そうです。その人がすべてを捨ててついてきてくれるというのなら、俺も一生をかけてお守りするつもりなのですが」
「あら、だめよそれは」

雪鳶は口元に手をあててくすくすと笑った。
何がいけないのかわからない高虎はにじり寄る。
警戒していないのか誘っているのか、雪鳶は気の強そうな笑みを高虎に向けたまま逃げる気配もない。

「何故だめなのです」
「だって相手の方にはすべて捨てることを望んでおきながら、その一方であなたは何も犠牲にする気がないんだもの。そんな不公平な条件で頷く女は余程の浮かれ者か、もしくは自分は価値なき者と思っている女でしょうね」
「ばかな。男が女のために何かを犠牲にすることなどありえない」
「そうよ、普通はそれでいいの。でも何が何でも欲しいものを手に入れようというのなら、それなりの対価を支払わねばね」

笑われていると感じた高虎はいきり立って手のなかの本を床へ落とした。

「帰ります。禅問答をしにきたわけじゃない」
「私とて、高虎殿を相手に禅問答などする気にはなりません」

なんと高慢な女だ。
高虎は「御免」と切り上げると足音も荒々しく庭へ下りた。
そして裏木戸をくぐってすぐ身体の向きを変えたので、枸橘の棘が無防備な手の甲をかすめた。
鋭い痛みに小さな声を上げて己の手を抱いた高虎は、振り返って屋根の端を睨みつけた。
その下にいる雪鳶のことを、睨んでいるつもりだった。

雪鳶は、高虎が誰の話をしていたのかわかっていたに違いない。
そんなことも察しないような女ではない。
高虎が胸に秘めてきた想いを打ち明けたと理解した上で、あのような態度をとったのだ。
無知をばかにされるのが嫌でわざわざこんなところまで勉強に来たというのに、ここでも笑いものにされるのか。
不貞腐れて歩きながら椿の葉を毟った高虎を、このあたりに住んでいるらしい子供が目を丸くして眺めている。

(天秤にかけられたのか、俺は)

財産とはいえあの程度の家と暮らし……そんなものと秤にかけられたのかと思うと無性に悔しく、また雪鳶の態度に確かに傷ついている自分のことが情けなかった。

(畜生、あんな女……あんな女!)

思わず泣きそうになったことに狼狽えて、慌てて夕焼け空を仰いだ。

さすがにそれからしばらくは雪鳶の家から足が遠のいたが、三日もするともう顔を見たくなった。
寝返りの多い夜を幾つか過ごしたあと数日ぶりに木戸をくぐると、雪鳶は庭で洗濯物を干し終えたところだった。

高虎の姿を見て頭を下げた雪鳶は、一瞬洗濯物に目を遣ってさっと顔を赤らめた。
襦袢が風に揺れているのに気づいて恥ずかしくなったのだ。
それが高虎の目にはすこぶる可愛く映り、過日の憤りも忘れて丁寧に会釈を返した。

「今日も何か本をお探し?」

決まりの悪いところを見られたせいか、今日の雪鳶はどこかしおらしい。
それを見て背筋を走り抜けたぞくぞくとした感覚を、高虎は征服欲だと分析した。

「今日はご挨拶に参りました。実はこの度主人を変えることとなりまして」
「また、ですか」
「ええ、またです」

ほんとうのことだ。
現状以上の出世は望めないと踏んだ高虎は、すぐに昔の知人のつてで新たな仕官先へ話を取りつけた。
今度はどれほど続くかわからないが、ここに留まって小さく老いていくのはご免だった。

(俺には不確かな『次』に賭けられる若さがある)

あまりに直情的すぎるから口にはしないが、雪鳶に突きつけてやりたい言葉だ。
雪鳶がさほど大した価値があるとも思えない物に固執して踏み出せない一歩を、高虎はいとも容易く踏み出すことができる。
胸の内の勝利宣言を敏感に感じ取ったのか、雪鳶は苦味の滲んだ笑みを浮かべた。

座敷に通されると、向かい合わせに座った。

「折角ご挨拶にいらしてくださったのだから餞別を、と思うのですが生憎侘しい暮らしをしているので用意がありません。かわりといってはなんですが、書斎から好きなだけ本を持っていってくれませんか。その方が主人もきっと喜びます」
「お心遣い痛み入るが、他のものを所望致しまする」
「まあ、何なりと」
「雪鳶殿を頂きたく」

雪鳶は無表情で己の膝をじっと見つめている。
瞳を隠す睫毛にすら、高虎は触れたいと願った。

「……それは、門出のお祝いにはあまりに不足のものでしょう」

予想していたこたえであったので高虎は動じなかった。
そう簡単になびくような寡婦であればこうも惹かれまい。

高虎は手をついて大きくにじり寄った。

「あんたに惚れた。俺がここを離れるのはあんたが醜聞を嫌うからだ。別の土地でなら、誰も俺たちを知らない。あんたと一から始められるなら俺はここでの生活と栄達の道を喜んで捨てる」

雪鳶の唇が一瞬引き締まった。

(これは、いける)

高虎は口角が上がりそうになるのを懸命にこらえた。
むろん高虎がこの土地を離れるのは雪鳶のためではなく、出世の緒を掴むためだ。
ひとつの手段でふたつの目的を叶えるのが男の世渡りであり、高虎を天秤の片皿に置いた雪鳶への意趣返しだった。

(俺は女のために出世を諦めるような男じゃない。女に品定めされるほど小粒でもない)

高虎が待っていると、雪鳶は俯いて小刻みに震え始め、やがて腰を折って突っ伏したまま凍りついてしまった。
その横までにじり寄り、高虎は雪鳶の肩を抱いて細いうなじに顔を寄せた。
白木蓮のような匂いが眩暈を呼ぶ。

「雪鳶」

強引に後ろへ引き倒すと、勢いで雪鳶は仰け反り白い喉元があらわになった。
こめかみに、冷や汗が滲んでいる。

半時後、高虎は着衣を正しながらいまだしどけなく横たわる雪鳶の肉体を見下ろしていた。
俯せの腰のあたりを隠す着物は高虎が今しがた雑に被せたものだ。

犯したというほど一方的な行為ではなかったはずだ。
高虎は髪を調えながら考えた。
募ったものが大きすぎて貪るような食し方にはなったが、雪鳶は抵抗らしい抵抗を見せなかった。

「雪鳶」

ふと手をとめて声をかけてみたが、雪鳶はぴくりとも動かない。

「怒っているのか」
「別に」

感情を勝手に推定されるのがえらく嫌いと見えて、こういう時はしっかり返してくる。
高虎は苦笑を洩らした。

「明朝、街道沿いの祠まで来い。そこで合流しよう。なに、どうせひとりの道行きだ。もうひとり増えたとて見咎める者もいない」
「……」
「おい、返事くらいしろ」

高虎が覆い被さるようにして覗き込むと、ようやく雪鳶は億劫そうな仕草で顔を上げた。
それから白い手が不意に高虎の頬を撫でたので、雪鳶からそのような情のこもった素振りを受けるとは思っていなかった高虎は目を瞠った。

「新しい奉公先で、うまくいくといいですね」

雪鳶に励まされ、高虎は嬉しくなって「ああ……ああ!」と大きく頷いた。
この女がそばにいてくれるならどんな労苦も厭わないと、先刻「主人を変えるのは雪鳶のため」と大法螺を吹いたばかりであることをすっかり忘れて本気で思った高虎を、明くる日の高虎は大馬鹿者と罵っただろう。
祠の前で待てど暮らせど、雪鳶は姿を現さなかった。

あれからまた主を変え、近頃ようやく巷間でも騏驥のひとりに数えられるようになった。



枸橘の前を通り過ぎしばらく歩くと、武家屋敷を抜けて商人街に入った。
城下の商業を活性化させよとの命を受け早速視察に訪れた高虎は、米問屋の店先に立って、忙しなく出入りする商人たちをつぶさに観察してみた。
ふと店の奥へ目を向けると、奥の壁際の棚に天秤が置かれている。

「天秤だな。悪どい商人は天秤に細工をしてちょろまかすと言うが」

首を伸ばして高虎の視線の先を追った従者が頷いた。

「米屋ですから天秤より枡でしょう。掛売り掛買いが基本ですから、天秤の出番は晦日ですね。もっとも商人が店の見えるところに天秤を置いておくのは、商いの主体は己であるという自己顕示でもあると聞きます」
「主体か」

番頭から丁稚まで高虎が見ているせいでどうも萎縮しているようだ。
これは後日素性を隠して訪れないことには実態はわからんな、と一旦のこたえを出して高虎はその場を離れた。

歩きながら、

(雪鳶、もしや)

と意識が過去へ羽撃いてゆく。

(俺を天秤にかけたのではなかったのか)

誇り高い女だった。
夫を亡くしたからといって微禄の若造の厄介になるなどそもそも自尊心が許さない。
雪鳶は高虎を天秤にかける気など端からなく、ただ自分が「まだ天秤を持っている」という誇りを取り戻したかっただけなのではないか。
選ばれるのではなく、選ぶのだという強烈な自負。
高虎が請えば請うほど雪鳶の自尊心は満たされ、満足し、ために高虎を頼り身を預けるという選択肢はどんどん薄れていく……あの関係はそういう構図であったのだ。

ではあの日約束の場所に来なかったのは怖気づいたからでも高虎より今の生活を選んだからでもなく……そこまで考えて、高虎は眼前に広がる空の突き抜けるような青が痛くなって眉間を指でおさえた。
女のために簡単に捨てられるほどの地位や財力しか持っていない小僧の「あなたのためなら何でも捨てられる」という覚悟の果てしない軽さを、雪鳶はよく知っていたのだ。
はじめから応える気などなく、ただ望まれることだけを求めたか。
或いは高虎の嘘を見抜いていたのかもしれない。

(あの時は捨てられたことに意地を張ってあの家まで呼びに行くなどできなかったが、その最後の意地すら捨て、ほんとうに身ひとつで駆け戻っていれば違う現在があったのかもしれん)

だが鋭い棘で刺される痛みを知ってしまった青年は、枸橘の森へ舞い戻る強さがなかったのだ。
無数の棘でできた堅牢な砦のなかでひっそりと暮らすあの人の、その白き手をとって連れ出す勇気が今ならあるか否か、高虎はこたえを出すのがこわくなった。




BACK
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -