■ 共犯者

※春華が登場する以前に書いたもので、主人公は司馬懿の正妻であり師・昭の母です




秘密の隠し場所は千差万別だ。
富豪の男は金塊を床下へ、妻は間男の忘れ物を化粧台の抽斗のなかへ、少年は先生が酷評を書きつけた作文を寝台の裏側へ。
隠した秘密はそのまま永遠に葬り去られることもあれば、ふとした拍子に露顕することもある。

子供たちが寝静まった頃、司馬懿と妻の雪鳶は食卓の同じ一辺に並んで座っていた。
肩が触れるほど近いふたつの背中は一見夫婦の緊密さを表しているようだが、彼らの顔を正面から見ればそれが必ずしも正解ではないとすぐにわかるだろう。
司馬懿は両肘をつき組んだ手で口元を隠すような恰好で、よく磨かれた卓上に視線を落としている。
その隣で雪鳶は手を膝に置き、伏し目を夫の腕のあたりへ向けてじっと観察しているようだった。

唇をほとんど手に付したまま、司馬懿がくぐもった声で口火を切った。

「隠し通さねばなるまい」

すん、と雪鳶が泣いてもいないのに小さく鼻を啜り、数拍の間を置いてから「ええ、勿論です」と同意した。
逡巡の響きは皆無で、雪鳶の心の方向が既にそちらへ向いていることを表していた。

「こんなこと、とても表沙汰にはできませんもの」
「……うむ。起きてしまった出来事は致し方のないことだが、きっと私とお前の胸のうちに納めておくのだ、よいな」
「はい、よくよく心得ております」

雪鳶は眉間に皺を寄せて深く頷いたが、その思い詰めたような表情を見ると司馬懿はまだ心配になるようで、今度はなだめるような声色で「いいか」と妻の膝に腕を伸ばし上から手を握った。

「私たちが口を閉ざすことが子供たちのためにもなるのだ、それはわかっておるな」
「仰るまでもございません」
「よし」

それから司馬懿は鉄の塊でも持ち上げるような重さを感じさせる仕草で視線を上げ、机を挟んで向かいの壁に括りつけられた戸棚を睨みつけた。
観音開きの扉はしっかりと閉じられ、値が張っただけに隙間は殆どない。
ぴたりと閉じた扉の後ろにあるものに思いを運び、司馬懿は深い溜息を吐いた。

「とにかく、一度戸棚から出さねば」

雪鳶が強張った表情で一度司馬懿を見上げ、それから戸棚を見た。

「出すのですか」
「それは……いつまでもあそこに隠しておくわけにはいかぬだろう。じきに臭いを放つようになる」
「今だって変な臭いがするようですわ」
「それはお前が少し神経質になっているだけで気のせいだ、私は感じない」
「そうでしょうか」

だが司馬懿の言う通りだ。
このまま隠しておいたところでこの梅雨時では間もなく胸の悪くなるような腐臭が扉の隙間から洩れはじめ、そうすれば真実もともに外へ零れ出てくるだろう。

「知られるのだけは避けねば」
「あなたがやってください。私にはとても……」
「元はといえばあんなところへ隠したのはお前ではないか、雪鳶」
「そうするしかなかったのです。そうするしか」
「それはわかっている。私とてお前を責める気など……しかし嫌なものだな、死体の後始末などというのは」

雪鳶は無表情で聞いている。

子供の頃から秘密を守るのはあまり得意な方ではなかった。
他人の秘密を積極的に暴露するたちではないが、嘘の吐けない人柄で、指摘されるとすぐに顔に出る。
たとい知恵が回っても工作の技術が追いつかなくては悪事には不向き、なればこそ誠実に生きるほか己の道はないと考え、その通りにしてきた。
だから、自分について嘘を吐かねばならないことは殆どないつもりだ。

だが皮肉なもので、大人になればなるほど、自分自身がどれだけ誠実であっても他人の嘘や方便に付き合わされることが増えてきた。
雪鳶をいちばん嘘に付き合わせてきたのは当然ながら夫の司馬懿だ。
司馬懿が仮病を使って来客との面会を断る時、来ない返事を催促されて「司馬懿は多忙で」とその場限りの言い逃れを伝える時、いつもその嘘を口にするのは雪鳶だった。
それで司馬懿の歩む道を整えることができるなら、迷いはなかった。

「そのまま埋めてもよいものでしょうか」
「どういうことだ」
「……細かく刻んだ方が早く土に還るのでは」
「お前」

覚悟を決めた雪鳶に、かえって司馬懿の方がぎょっとしている。
司馬懿は唇を歪めながら、おぞましいものから身を守るように手を袖のなかに仕舞って腕を組んだ。

「理屈はわかるが私は嫌だぞ、いくら何でも。お前はできるのか」
「私だって嫌です。でも子供を守るためなら、やります」

思い詰めた表情で戸棚を睨みつける妻を横目で観察していた司馬懿は、やがて溜息を吐いた。

「そこまでする必要があるか。たかが亀だぞ」
「……」
「これが人の死体なら私も考えるが」
「やめて。縁起でもない」

一喝され、司馬懿は首を竦めた。

宮中での仕事から帰った時、子供たちは既に床に入っていた。
日課にならい、子供たちの寝顔を見て回っていた司馬懿の背中に雪鳶が声をかけ、そして居間まで連れていかれて亀の死を聞かされたのだ。

大人の手のひらの一・五倍はあるかというその亀は、半年ほど前に張コウから押しつけられたといって司馬懿が持ち帰ったものだ。
舟遊びをしていた張コウが水面に浮かんでじゃれついてきた亀を面白がってつい獲ってしまったが、絢爛豪華に飾り立てた屋敷のどこに置いても不調和なので引き取ってくれと頼んできたとのことだった。

特に強い興味を示したのは幼い司馬昭で、彼は父親の手から亀を引ったくると二度と手放さない素振りを見せた。
飼いたい飼いたいと繰り返し喚かれるのも鬱陶しく、また生き物を飼う大切さを学ぶ機会という都合のいい方便もできたので、結局司馬懿は「ちゃんと世話をするように」と真面目くさった顔で与えたのだった。
そんなものを気軽に与えてすぐに死んでしまったら子供たちが傷つくわ、と苦りきった顔で忠告する雪鳶の顔を思い出すと、その懸念が現実のものとなってしまった今では司馬懿も頭が痛い。

「まったく、どうせならもっと活きの良いやつをくれればよいものを」
「今更そんなことを言っても仕方ないじゃありませんか」
「だって亀だぞ。普通長生きするんじゃないのか」
「人間でも亀でも、若くして死んでしまう者はあるものです」
「しかし何故死んだんだ」

扉を開けた司馬懿は、既に身動ぎひとつしなくなった亀を眉間に皺寄せて眺めた。
雪鳶が哀れんで掛けたのか、清潔な布に包まれている。

「それが……私が見つけた時には庭の池端で動かなくなっていて」
「池で溺れたかな」
「亀ですよ、あなた」
「わかっておるわ」

司馬懿は袖を引っ張って指先を包み、直接触れないようにして亀の甲羅をつついた。

「やはり死んでおるようだな」
「可哀想に」
「昭が知れば大層悲しもうな。早いところ片付けてしまわねば」
「庭に埋めますか」
「そうだな」
「花の種を植えてあげてもよいでしょうか」
「そんなことをすれば子供たちが怪しむぞ」
「でも何も目印がなくって場所がわからなくなったらあんまりだわ」

むう、と司馬懿は考え込んだ。
無表情で死体を切り刻むことを提案してきた時はぎょっとしたが、やはり妻は心優しいのだ。
たかが半年ばかり飼っていただけの亀の死に胸を痛め、できるかぎりの弔いをしてやりたがっている。

犬や猫ならともかく、何を考えているかさっぱりわからない亀に対して司馬懿自身には愛着は根づかなかった。
ただひっそりと死んだことについては哀れだと思い、またそれを知って悲しむ子供たちの姿を見るのも嫌だった。

「まあ花くらいならばよいわ。よし、庭に持っていくぞ」

司馬懿は大きく息を吐いて覚悟を決めると、布越しに両手で亀を持ち上げた。
連れて帰ってきた時より心なしか重く感じる。
そう言うと、雪鳶は不思議がった。

「魂が抜けると軽くなるって言いますけど」
「あの子らが世話してる間に大きくなったのだろうか」
「半年で? どうかしら……でも、もしかしたら注がれた愛情の重さというのはあるのかもしれませんわ」

だとすれば、この半年という時間は亀にとって存外幸福であったのかもしれない。
司馬懿は、珍しくそう考えたいような、感傷的な心境になっていた。

「それがほんとうなら、お前は今頃象より重くなっているな」

ははは、と笑う司馬懿に、雪鳶が呆れた様子で天井を見上げた。

闇に包まれた庭を歩く司馬懿の後ろを、手燭を持った雪鳶が静かについてくる。
物音で子供たちを起こさぬよう窓から随分離れた場所を墓所と定め、司馬懿は亀を雪鳶に託し鋤を取った。
しばらく掘ってから振り返ると、雪鳶が首をかぶりを振って「もっと」と示すので更に掘り下げた。
今夜は晴れているとはいえ梅雨時には違いなく、むっとした湿気が土から立ち上り、司馬懿の額には次第に汗が滲んだ。

「これくらいでよかろう」

鋤を地面へ立てた司馬懿は、雪鳶を促した。
このくらい掘れば臭いが漏れることもなかろうし、何より腰をやりそうになったのだ。

すると司馬懿がいくら哀れんでも直接触れることのできなかった亀の亡骸を雪鳶は躊躇せずに抱き、暗い穴の底に優しく置いた。
それから先程まで彼を包んでいた布を今度は布団のように掛けてやり、名残を惜しむように二度、手のひらで撫でた。

「安らかにね」

地面に置いた手燭の明かりが雪鳶の横顔を赤く浮かび上がらせている。
長い睫毛を上下に動かして何かを堪えたような表情を見せた妻に、司馬懿は慈母の姿を見た気がして思わず胸を衝かれた。

「女は強いな」

つい口から飛び出した平凡な言葉に、自分で呆れ返った。
眼差しを持ち上げた雪鳶は、穏やかに笑った。

「あなたのため、子供たちのためですもの。さっきは縁起でもないなんて言ったけど、もしこれがほんとうに亀でなく人だったとしても、きっと私同じことをするわ」
「ならば私はお前にそんなことをさせぬよう励むとしよう」
「まあ、嬉しい」

雪鳶は心底嬉しそうに目を細めた。

「妙なものだな。共犯者というか」

秘密の共有によって連帯感が強まるというのはよくあることだ。
だが伏魔殿たる政治界に身を置く司馬懿は、そうした関係が基盤にある絆が如何に脆く壊れやすいか身を以て知っている。
絆というものは、そういうやり方で育まれるべきではないものなのだ。

「雪鳶、約束してくれ」

司馬懿は鋤で土を戻しながら言った。

「私はお前との秘密を必ず守る。お前もそうだと信じている。だから、お互いに対しては正直でいよう。家族を守るために」

黒い土がまた亀の上に掛けられ、もうその姿は殆ど見えなくなっている。

「言ったでしょう。私、子供を守るためだったら何でもするわ」

鋤の背で土を均すと、墓所はすっかりわからなくなった。
雪鳶が握り拳大の石をその上に置いて立ち上がった。
後日花の種を蒔くという。
秘密の墓を前に、共犯者たちは見つめ合った。

「父上」

張り詰めた弓弦が戻るような素早さで夫婦が振り返ると、寝床にあるはずの司馬師がすぐ後ろに立っていた。

凍りついたままの司馬懿より先に、雪鳶が動いた。
司馬師の肩を抱き、「いつからそこに」と問い糾している。

「先程からです、物音がしたので気になって……亀を埋めておられたのですか、母上」
「それは」

言葉を詰まらせる雪鳶の横に司馬懿が寄り添った。
司馬懿は息子の頭に手を置くと、「そうだ」と認めた。

「亀は死んでしまったのだ。お前たちが悲しむと思い母上と内緒で葬ったのだが、知ってしまったのでは仕方ない。すべての命はいずれ尽きるということを学ぶ良い機会だ」
「……はい」
「お前たちが悪いのではない、そういう運命だったのだ。子供にはまだ納得のいかないことだろうが、どうしようもなかったのだから気に病むことはない。ただいつかは私も母上もいなくなってしまう、そしてお前自身もいつか、それは遠い未来のことだが、いずれはこの世から去るのだということをしっかり心に刻んで毎日を大切にしなさい。わかったな」
「はい」

司馬師は健気にも唇を結び、しっかりと頷いた。
ひと安心した様子の司馬懿は息子の頭をやや乱暴に撫でた。

「よし。さあ、早く寝床に戻りなさい。もう遅いのだぞ」
「さ、母上と一緒に戻りましょう。あなた」
「ああ、ここは私が片付けていく」

息子の手を引いて家のなかへ戻った雪鳶は、子供部屋の前まで来ると立ち止まって振り返った。
そして腰を曲げて目線を合わせると、司馬師の頬を両手で包んだ。

「もう心配ないわ」
「父上は信じたのですか」
「ええ、大丈夫よ」

雪鳶は嫣然として頷いた。

昼下がり、用事終えてうたた寝をしていた雪鳶を現実に引き戻したのは司馬師の悲痛な声だった。
慌てて飛び起きると、寝台の前に亀を抱えた司馬師が立ち尽くしている。

「母上、どうしよう、亀が動きません」

ずっと雨続きだったのが今日は珍しく晴れたので、甲羅干しをさせようと庭の陽だまりに置いておいたらいつの間にか動かなくなっていたという。
つついても叩いても反応しないので、雪鳶が塩水を掛けてみたが駄目だった。

「仕方ないわ。父上に正直に話しましょう」

すると司馬師は机の上で動かなくなった友人を見つめながら、思い詰めた様子でかぶりを振った。

「どうしたの」
「父上には言えません」
「どうして」
「だって」

涙ながらに語るには、このところ学業の成績が順調で司馬懿にもそろそろ褒めてもらえそうだったのに亀の世話に失敗したとあってはきっと失望させてしまう、これまでの努力が無駄になってしまうということだった。

「ちゃんと世話をするからといって飼ってもらったのに」

これがもし司馬昭であったなら、雪鳶はお尻を軽く叩いて父親の前で謝らせていた。
昭より師を愛しているということではない。
ただ兄の方が弟よりも失敗に対して敏感なのだ。

これについては司馬懿も、或いは妻である雪鳶にも責任がある。
いずれは家督を継ぐことになるであろう司馬師に父は殊更厳しい態度で接した。
勿論長男という立場や司馬師自身の能力に期待を寄せてのことではあるが、結果としてのびのびと育ったとは言い難く、失敗に対処する能力に不足が見られる司馬師のことを雪鳶は日頃から不憫に思っていた。
反面、弟の司馬昭の方は向こう見ずな性格でよく失敗するが、失敗をした時の柔軟な対処法において兄と明らかな差があった。

司馬懿は頑として認めないだろうが、同じだけの成功をしても彼がより大袈裟に褒めるのは弟の方である。
それは兄の方が優秀であると思い、能力を考慮すればそれだけの成果は当然だと考えるからで、つまりは期待の裏返しということなのだろうが、幼い司馬師にそれを理解しろというのは無理な話だ。

同時に夫が次男の潜在的な能力にまだ気づいていないのも母親としては不満だった。
いずれは司馬懿もそれに気づくだろうが、それまで次男が腐らないように守ってやるのも母の務めだと雪鳶は決意している。
とはいえ司馬懿が家庭内の入り組んだ事情にとらわれず外で大いに働くことのできるようにするのも妻の務めでありそれもまた司馬懿を守るということ、従って雪鳶の仕事を総括すれば、家庭内で起きた問題がすべて丸く収まっているように見せることなのだった。

今最も重要なのは司馬師の自尊心を守ることだと雪鳶は決めた。
たとえ父親にとっては小さな褒め言葉であっても、その成功体験が司馬師の行く末に対して極めて重大な意味を持つと判断したからだ。

寝床に戻った司馬師の額を雪鳶は優しく撫でてやった。

「大丈夫よ、父上は寿命で死んだと信じ込んで疑いもしてないわ」

反対の壁際で寝ている司馬昭に遠慮して、雪鳶は声を抑えて言った。

「だけどだめじゃない、埋めてるとこに出てきたりなんかしちゃ」
「庭に出て行く父上と母上を窓から見て不安になってしまって……」
「すべて上手くいったわ。あとはあなたが頑張って勉強すればいいだけ。でもお墓にはちゃんと手を合わせてやりなさいね。昭に見られちゃだめよ」
「はい。ごめんなさい、母上」
「……あなたが謝らなくてはいけない相手がいるとしたら、あの亀だけ。母上はあなたたちのためなら何だってできるんだから」

それがたとえ夫を騙すことでも、という思いを雪鳶は心のなかで打ち消した。
司馬懿のためでもあるのだ。

「さあ、おやすみなさい」

司馬師の額に接吻したあと、雪鳶は静かに部屋を出て行った。

その足音が遠ざかり静寂がしばらく続いたあと、司馬師はゆっくり起き上がるとぱたぱたと部屋を横切って弟の寝台に潜り込んだ。
寝返りを打って兄を見た司馬昭の目は、今目覚めたような寝ぼけ眼ではない。

「兄上、上手くいったのですか」
「ああ、大丈夫だ。全部片付いたから、もうお前が心配することはない」
「母上は信じてくださったのですね」
「そうだ。私が亀を殺してしまったとお思いになっている」
「よかった……ごめんなさい、兄上」
「よいのだ。私は兄上なんだから」

布団のなかでぎゅっと抱き締めてやると、司馬昭は安心した様子で瞼を閉じた。

昼前に外へ遊びに出たはずの司馬昭が泣きながら帰ってきた時、母は外出中で、司馬師はひとりで本を読んでいた。
しゃくりあげて上手く喋れない司馬昭を見て、司馬師は事情を聞くより先にすべてを察した。
散歩させるのだと言って連れて出たはずの亀の姿がどこにも見当たらなかったからだ。

司馬昭が泣きながら語った事の顛末は、こうである。
たまには屋敷の外にも出してやりたいと思い亀を抱えて表へ出たが、川沿いに至った時ふと「泳がせてみたい」と考えた。
甲羅に紐を結えつけてあったので大丈夫だろうと水のなかに入れてやり、しばらくは左右に引っ張られていく紐が面白かったのだが、急に手応えがなくなったので手繰り寄せてみたところ、紐の先から亀が消えていた。

「逃してしまったと父上に謝るしかないな」

亀の散歩など実にばかばかしい、しかも使用人の目を盗んで勝手に外出するなど愚かの極み。
司馬師は呆れて本に目を戻したが、その袖に司馬昭がしがみついた。

いつもばかみたいな悪戯で煩わせるくせにこんな時だけ兄を頼るのかと司馬師は鬱陶しく思ったが、泣きじゃくる司馬昭が予想外のことを言ったので覚えず胸を衝かれた。

父上はいつも兄上に対して厳しいが、それはほんとうは兄上に大きな期待を寄せているからだ。
自分は可愛がられているが、それはせいぜい「やればできる子」くらいに思われているからというもので、父上の本命は兄上に違いない。
元々大して期待されず小さな失望を重ねさせているのに、更にこんなばかなことをしでかしてしまっては父上はほんとうに私に幻滅してしまう。
これ以上父上に失望されるのは嫌だ。

要約すればこのような告白だった。
脳天気に可愛がられているだけの存在だと思っていた弟の胸の奥底を覗き、司馬師は驚いた。
いつも明るく笑っている司馬昭にこのような繊細な一面が隠されていたことなど、その時まで知りもしなかったのだ。

それから司馬師は弟に部屋で大人しくしているように命じ、こっそりと家を抜けだして市場に行き背格好の似ている亀を探した。
宮廷人の食卓に並ぶのはスッポンだが、庶民はもっと安価の亀を食すということを本で読んで知っていたのである。
都合よく動かなくなったばかりの亀を見つけて購入し、密かに家に戻ると先に帰宅してうたた寝をしていた母を起こしたのだった。

同じくらいの大きさとはいえ雪鳶が騙されてくれるかは賭けだったが、もっぱら世話をしていたのは兄弟で両親は殆ど触れることもなかったのが幸いした。

両親がいるところへ亀を持っていこうとしなかったわけは、司馬懿を上手く騙すのは無理だと思ったからだ。
今の司馬師には、まだ父親と対峙するだけの自信がなかった。
いつも司馬師の境遇を不憫に思ってくれる母親ならば、きっと司馬師のためにひと芝居打ってくれるはずだ。
そして雪鳶ならば、司馬懿を信じ込ませる方法を心得ている。

人を騙すことが悪いということくらい、知っている。
ましてや血の繋がった両親を騙すのが快いはずがなかった。
それでもやったのは、弟を守るためだ。
いつも出来の良い兄と比較され「できない子」の役割を演じさせられている、そしてそのことに密かに傷ついている弟がいるとしたら、それは兄にも責任がある。

父も、母も大事だ。
だが彼らよりももっと長い時間を共に過ごすことになるのは、弟である司馬昭のはずだ。
いつか互いの不足を補いあって二人三脚で歩む日が来る、そんな予感がしている。

早くも寝息を立て始めている弟の顔を見つめ、司馬師は己の間違っていないことを確信した。

一夜明け、司馬懿は登城した折に中庭で兵の訓練を監督している張コウを見かけた。
ニ、三の世間話をしたあと、さり気なく亀の死んだことを伝えた。
わざわざ伝えるほどのことでもないとは思ったが、何となく後ろめたいような気がしたのだ。
案の定張コウは「それは残念でしたねえ」とさして気にする素振りもなかった。

「どうするのです、また新しく飼うのですか?」
「いや、もういい……」
「そうですか。まあ私もそう都合よく亀を拾うわけじゃありませんしねえ」
「う、うむ」
「拾った亀を見せびらかしていたら司馬懿殿が『譲ってくれないか』なんて言い出した時は何事かと思いましたけど」

張コウは思い出し笑いをしている。
そのことは忘れてくれ、と司馬懿は苦虫を噛み潰したような顔をした。

半年前、捕まえた亀を掲げて宮廷内を駈けずり回っていた張コウを小部屋に引っ張りこんで亀の譲渡を頼んだ時は、自分でもどうかしていると思った。
亀でなくても、猫でも鳥でもよかったのだ。
ただ息子たちと心のやりとりをするきっかけが欲しかった。

長男には、期待するあまり窮屈な生き方をさせてしまっている。
次男には、磊落な性格とどう接すればいいのかわからず腫れ物に触るような態度をとってしまっている。
生き物を与えることで、彼らと一緒に何かが発見できればよいと考えたのだ。
そうすることでいつも父子を心配そうに見つめている雪鳶を安心させられると思った。

「で、亀さんを通して息子さんたちとは仲良くなれましたか」
「いや……」

司馬懿はうなじに手をあてがい、心底疲れたように中庭の兵たちを見遣った。

「そんな姑息なやり方ではだめだとわかった。かえって荷物が増えたな」
「よくわかりませんけど」
「ああ、私もわからん。今度は息子を遠乗りにでも誘ってみるかな」
「素敵ですね」

もう一度亀の件について礼を述べ司馬懿が立ち去ると、張コウはしばらく後ろ手を組んで二日続きの青空を眺めた。

亀を捕まえた時は単純に愉快だったが、実際はすぐに手放そうと思っていた。
生きとし生けるもの、いずれはこの世を去るのだ。
長く戦場で過ごしてきた張コウは誰よりもそれを知っている。

最も愛した妻に先立たれてからもう二年が過ぎようとしていた。
それでもまだ家のなかに死があることを許せない。
たとえそれが亀であったとしても、再び死に向き合える自信がなかった。
戦場での死には納得できても、家のなかのそれにはまだ耐えられない。

しかし家族と向き合うため、子供たちとの距離を縮めるためあれやこれやと思案する司馬懿を見て、少しずつ心が変化してきていた。

死が宿命なら、生もまた宿命に違いない。
終わりある生命を、誰かと共に過ごすのも悪くないのかもしれない。
そう考えはじめている。




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