■ めぐりめぐる月

夕食後、消化を良くするためといって少し庭に出ていた李典が晩秋の夜風に負けて部屋へ戻ってくると、雪鳶は既に寝室に引き取っていた。
そろそろ寝支度を整えてくれないかと頼むつもりで部屋へ入った李典は、ふと興味を惹かれて妻の手元を後ろから覗きこんでみた。
燭台の灯りの下、柔らかそうな布に針が入るところだった。

「手拭い」

かすれるように小さな声で呟くと、頭上を振り返った雪鳶が声の主を確認して笑った。

「はずれ……産着」

肌触りの良さそうな生地と比較的小さな面積からはあり得そうな間違いだった。
李典は椅子に座る妻の肩に両手を置いて揉んでやりながら、その小さな服を着るひとを尋ねた。

「妹……去年嫁いだ方のね。おめでたですって」

婚礼は昨年の今頃であったから、かなり順調な部類に入るのだろう。

「義理の伯父さんか、俺」
「そういうことになるわね」

そっか、としか言わない李典の反応に雪鳶は微笑を浮かべ、「素晴らしいことよね。きっと可愛いわ、赤ちゃん」と感慨深げにかぶりを振った。

「そうかな」
「ええ、そうよ」

針を動かしながら、雪鳶は次の言葉を待っている。
数拍の沈黙を置いて、しびれを切らした雪鳶が促すような笑みを浮かべて李典を仰いだので、李典は「わかったよ」と肩を竦めた。

「おめでとうって伝えといて」
「ええ、そうするわ」

雪鳶は含み笑いの眼差しを手元に落とした。
椅子のそばを離れて寝台に腰を下ろした李典は脚を組み、上体を後ろへ倒してしどけなく右肘を突いた。

しばらく天井を仰いで黙っていたが、やがて左手の爪を見つめながら口を開いた。

「今言わない方がいいかもだけど、明日知り合いから犬を貰うことになった」
「犬?」

雪鳶は手元から目を逸らさずに返事をした。

「この前生まれたって。俺も家を空けることが多いしさ、番犬になるかなって」
「あなたが家にいなくても私ひとりになることはないわ、誰かしらはいるもの」
「それでも犬がいるに越したことはないだろ……犬嫌いだったっけ?」
「いいえ、好きよ」

壁に映る黒い影が一瞬素早く動いた。
髪を肩の後ろへ遣ったらしい。

「ただ『今言わない方がいい』とあなたが思ったことが少し悲しいだけ」

垂らした髪の向こうに鼻先だけ覗いている雪鳶の後ろ姿を見つめていた李典は、やがて勢いよく立ち上がって再び雪鳶の背後に立った。
振り向こうとしない背中に覆い被さり、薄い肩を両腕で抱き寄せて雪鳶の頭に頬を載せた。

「……俺は気にしてないよ、これほんと」
「そうなの」
「ああ、そうだよ」
「そう」

腕の下に感じる雪鳶の胸の上下運動は安定している。
雪鳶が信じていないことは明白だったが、少なくとも李典の思い遣りは伝わっただろう。
言い換えれば雪鳶に完全な嘘を信じ込ませることができないのが歯痒い。

「……さびしいわね、一緒にいるのに」

雪鳶の言葉は李典の心を的確に表していた。
返事のかわりに、李典の腕に力が籠もる。

結婚して数年が経つが、雪鳶には身籠る気配がなかった。



翌朝、李典を送り出した雪鳶は食卓に戻って水差しを確認した。
黄色の花が一輪挿してある。
雪鳶は笑みを浮かべて水差しを取り、窓辺の棚に置いた。

朝、出かける前に庭の花を一輪摘んで卓上に飾るのは、結婚してからずっと続いている李典の日課だ。
元々は婚礼から初夜の流れでひどく気疲れした雪鳶を慰めるために始めたことだった。
それが何となく習慣になり、慌ただしい朝や冬場などは適当に引っこ抜いたらしい雑草が挿してあることもあるが、遠征している間などを除けば今日まで一日も欠かさずに続いている。

一見飄々としているがその実口下手なところのある李典の人柄をよく知っている雪鳶には、この小さな意思表示がとても有り難かった。
たかが花一輪だが、喧嘩をしたり深酒をして遅くに帰ってきた次の朝もこうして水差しのなかで揺れているのを見ると、苛立ちや不安も静かに消えていく気がする。
花は、「有難う」であり、「許して」や「宜しく」だった。

気まずい会話を過ごした昨夜のあとのこれは、やはり「悪かった」なのだろうか。
雪鳶は縫いかけの産着を持って椅子に座りながら、今日までのことを思い出していた。

李典とは同郷の縁で数年前に結婚した。
考えてみれば、結婚したその日から李典の口下手の兆候は現れていたのだ。

繁雑な儀式を終えてようやく寝室にふたりきりになると、雪鳶はこれから起こる出来事に高鳴る胸を緊張した手で服の上から押さえていた。
華やかな花嫁衣装越しに手のひらに伝わる心臓の鼓動を、期待と恐怖が白い肌の上に宿した仄かな朱みを、寝台の上で対座する李典は推察するべきであった。
しかし李典は盃に酒を注ぎながら言った。

「あれっ、飲み過ぎた?」

沈黙ののち、雪鳶は静かに手を膝に下ろした。
物語にあるような劇的且つ繊細な恋の妙味をこの結婚生活には望めそうもないことを若妻は早くも悟ったのである。

「……いえ、お酒は殆ど頂いておりません」
「胸が悪いとか」
「いいえ、健康です」
「そっか、よかった。病弱だと子供をたくさんは産めないかもしれないものな」

それを聞いて、いったい幾人産ませるつもりなのだと雪鳶は恐怖した。
身体の準備は整っている年頃といえども、未通女が本能的に抱いている出産という一大事へのおそれなど李典はまるで思い当たらないようである。
その原因が冷徹さではなく、或る種の無邪気さというのか、素朴な価値観にあるというのがかえって始末が悪いと雪鳶は思った。

「さて、と……」

底に残っていた酒を飲み干し、李典は杯を寝台の横の小さな卓に置いた。
通常ならば、共寝する前にここで新郎から新婦への訓戒があるはずであった。
新たに妻となった女性に家のしきたりや夫婦間の決め事、夫人の心得などについて、夫が説き聞かせる。
少なくとも、雪鳶はそう聞いている。

それで居住まいを正して続きを待ったのだが、李典は胡座をかいた膝の上に投げ出した手の指をしきりに擦り合わせている。
慎ましやかに視線を落としている雪鳶の視界には向かいに座る李典の腰から下しか見えず、自然と彼の指の動きが目に付く。
言葉を選んでいるのかとそのまま待っていたが、やがて頭上から聞こえてきたのは「ああ、まぁいっか」といううんざりしたような声と頭を掻きむしる音だった。

え、と顔を上げた雪鳶の目前に李典の顔が迫っている。
驚いて後ろに倒れそうになった雪鳶の腰を李典が掴み、瞳を覗き込みながら真顔で言った。

「こういう格式張ったのって俺苦手で、何て言ったらいいかわからないっていうか……だからまぁ、そういうことで、いいよな」

何がいいのか雪鳶にはわからなかったが、考えているうちに李典の手は雪鳶の帯を解きにかかっている。
どうでも、という意味だと気づいた時には雪鳶は裸に剥かれて投げ出されていた。

覆い被さってくる李典の下で雪鳶は錯乱した。
心細さを抱えたったひとりで他家へ嫁いできた新妻にとって、たとえ内容はありきたりでも夫がこれからのことについて優しく語ってくれるということが、初夜に身を捧げる前の心の準備にどれほど役に立つことか。
自分でもよくよく触れたことのない場所を指で割られながら、雪鳶の頭のなかに浮かんだ言葉らしい言葉はたったひとつ、

(ひどい)

だった。

李典の手つきそのものは、優しかった。
その晩は初めて男を知る雪鳶への配慮かと思われたが、月日が流れるうちにそれが李典のやり方なのだということがわかった。

同じく初婚のはずの李典が何故手間取ることなく雪鳶を抱くことができたのか、世故に暗い彼女には理由がわからなかったが、たとえそれが貴婦人の耳に入れるのは憚れる事情であったとしても雪鳶は知りたかった。

つまるところ、李典は何かにつけて説明不足なのだ。
何故雪鳶との縁談を諾したのか、どうしてお決まりの手順を省いたのか、何を思って曹操の下で働くのかも、雪鳶はぜんぶ聞きたい。
思い出しただけで雪鳶の頬が熱くなる話だが、初夜の褥でいざ繋がるという時でさえも李典は何も言わなかったので、狼狽えた雪鳶の爪痕がその後しばらく彼の首筋に残った。

それほど悩乱した一夜であったのに、翌朝食卓に飾られた一輪の花によって雪鳶の胸は不思議に落ち着いてしまった。
素朴であるがゆえに複雑怪奇な男なのかもしれない、と新妻は花の茎を指で挟んでくりくりと回しながら考えた。
そしてそんな男が望んだ素朴な夢を叶えてやりたいという願いが胸の奥にぼんやりと宿った。
しかし、まだその夢は雪鳶の胎内に訪れない。

一度他の女性を迎えたらどうかと提案したが、その時は李典をひどく興奮させてしまったので以降そういう話はしていない。
今になってみると、あれは怒りというより激しい動揺であったようだ。
複雑怪奇、複雑怪奇と口のなかで繰り返して雪鳶はやり過ごした。
子供を持てればそれでいいというような簡単な話ではないらしい。

午後になって人が訪ねてきたので出てみると、昨晩李典が話していた犬を連れてきたとのことだった。
勝手に話を決めたのだから李典がいる時に持ってくるようにしてくれたらよかったのに、と不満に思いつつ、雪鳶は子犬を抱いて家へ入った。

初めての家のなかを子犬は興味津々といった様子でそこらじゅう嗅ぎまわっている。
李典が大事にしている書棚へ興味を持った気配を察し、雪鳶は慌てて子犬を抱き上げて別の部屋へ移した。
目に映るすべてのものに反応する黒々とした瞳は愛らしいが、四六時中こんな様子では見ているこっちが気疲れしてしまうと雪鳶は先が思いやられる気分だった。

日が傾く頃になって帰宅した李典は玄関でひとしきり犬と戯れると上着を脱ぎながら家の奥へ進んだ。
脱いだものをそのまま床へ落としていくので仕方なく拾いながら後をついていった雪鳶は、今手に取ったものが下穿きであることに気づき、驚いて顔を上げると李典が一糸まとわぬ姿で寝室から直接出入りできる裏庭へ出ようとしているところだった。

「旦那さま、何を」
「何って、水浴びでしょ」
「お風邪を召します」

鍛えあげられた鋼の肉体といえども濡れた肌を秋風に吹かれれば一層冷える。
急いで奥から布を持ってきた雪鳶が庭に出てみれば、李典は濡れた身体のまま子犬の腹を撫でていた。
さっき会ったばかりの子犬がもう仰向けになるほどに懐いていることに雪鳶はますます驚いた。

水を浴びる李典にまとわりついていたのか、犬の柔らかな毛並みも濡れて光っている。
水滴を散らしながら無邪気に戯れる彼らを見て、雪鳶は無性に切なくなった。

「……噛まれちゃえばいいんだわ」
「えっ、どこを」

自分の発した言葉のせいで急に恥ずかしくなった雪鳶は、とっさに布を口元にあてて顔を逸らした。
その反応を見て李典が弾けるような笑い声を上げた。
雪鳶がその手の冗談を口にしたのが予想外だったのだろう。

「拭くもの、持ってきてくれたのか」

手を伸ばしてくる李典から一歩退き、雪鳶は子犬を布でくるんで抱きかかえた。

「犬のためです。まだ赤ちゃんなんだもの、簡単に風邪を引いてしまうわ」
「ちぇ」
「ほら、暴れないで。いい子ね」

顔を舐めようと鼻先を寄せる犬を宥めすかして毛を拭いてやる妻を李典はしばらく見つめていたが、やがて意図したわけでもないのに腕を伸ばして彼女の肩を抱いていた。
間に挟まれた犬が楽しげな瞳を李典に向けている。

「何故抱き締めるの」

雪鳶の声は、理由を知っているという響きを持っていた。
額同士をつけて、李典は間近で雪鳶の瞳を覗きこんだ。

「……こんなに母親に向いてるのに、何でなんだろうな」

素朴な疑問、或いは嘆きだ。
秋風に攫われそうにかすれた声の、世間の片隅で密やかに交わされる会話だった。

「さっき月のものが来たの」
「そっか」
「ほんの少しだったけど、たぶん明日から本格的に始まるんだと思う」
「痛まないといいけど。時々寝込んでるの、可哀想だから」
「今夜はゆっくり休むわ」
「ああ」

年が明けて、春の気配が漂う頃に雪鳶の妹は無事男の子を出産した。
内々での祝いに夫婦で招待された日の朝、雪鳶は寝床に起き上がって隣の李典に離縁を乞うた。
李典は「わかった」と頷いただけだった。

出産祝いにひとりで顔を出せば周囲はまた何か噂するに違いなく、それを思うと憂鬱な気持ちにはなったが、決して雪鳶を責めなくとも心の内ではひどく傷ついているであろう李典をこれ以上円満芝居に付き合わせるわけにはいかない。
孤独だが、耐えねばならない。
これは最後にひとりでやり遂げなければいけない仕事なのだという覚悟だった。

縫い上げた産着を手に妹の屋敷に着いた雪鳶は笑顔で挨拶をし、赤子を抱かせてもらうと完璧な褒め言葉述べた。
綺麗に通った鼻筋は父親似、愛嬌のある口元は母親似。
今日はご主人は、という合いの手が入ったが、「忙しいみたいで」と笑みを返した。

あら、でもいらしたみたいよ。

驚いた雪鳶が振り返ると、部屋の入口に李典が立っている。
屈託のない笑みを浮かべ部屋を突っ切って近づいてきた李典は、「やあ、遅れまして」と周りに挨拶すると雪鳶の隣に腰を下ろした。

「……来られないのだと思ってた」
「やりくりしたよ。雪鳶の大事な日だから」

赤子の顔を覗き込みながら、李典は雪鳶の肩に腕を回した。



雪鳶の懐妊が発覚したのは実家へ戻って間もなくのことだ。
結局一日だけで終わってしまったあの不思議な月経は、実は妊娠初期に時折起こる現象だったようだ。
李典に請われて嫁ぎ先へとんぼ返りした雪鳶を、随分大きくなった犬が全身で歓喜を表現しながら出迎えた。

子供を授かってから、朝の花一輪という習慣が初めて途絶えた。
あれは李典なりの願掛けであったらしい。




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