■ 七つ下がり

てきぱきと動く女を見るのは楽しいものだ。
とはいえたとえ仕事が早くともやたらがさごそ動くのが鼻につく女もいるというもので、ただ仕事に勤しんでいるだけではだめなのであって、過不足のない動作で流れるように仕事を片付けていく女というのはそれだけ洗練されているということに違いない。
そういう意味で、最短の動線を描いて家事をこなしていく雪鳶の姿を見るのは趙雲の楽しみのひとつであった。

一番楽しいのは、

「雪鳶」

椅子に座ったまま声をかけてやった時に、何か、という風な微笑を浮かべて雪鳶が振り返る瞬間だ。
その笑い方が大袈裟でもとってつけたようでもなく丁度良い具合で、趙雲は大好きだった。

近頃はその微笑に別の意味が加わっていよいよ振り向かせるのが楽しくなってきた。
ひと月ばかり前、雪鳶も趙雲に対し特別な感情を抱いていると打ち明けてくれたのだ。
主人と女中という関係上、口にするのが憚られそれまで胸におさめていたという。
あまり嬉しかったので、趙雲は本来恋愛においてはあまり訊くべきでない問いを雪鳶にぶつけてしまった。

「私のいったいどこを好いてくれているのだろうか」

すると頬を染めた雪鳶が指を折って数えてくれたのは、誠実さと男らしさというこたえだった。
つまり趙雲自身がかねてより理想とし目指してきた、男としてあるべき姿を雪鳶は彼のなかに見出しているということだ。
満足のいかないこたえのはずがなかった。

人生のこの段階へきて、思いがけず理想的な恋愛をしていることに趙雲は浮かれている。

いまだ働き盛りではあるが、男盛りは少し過ぎた。
皮肉なことにと言うべきか、あるいはよくできているのか、両者は時期が多少ずれている。
仕事で実りが生まれつつある頃には男の最も美しい季節をいささか通り越し、輝ける青春時代にはその功績において壮齢の男に敵わない。
どの年頃にも華のあるように巧妙に設計された結果なのかもしれないが、青春を多忙のうちに過ごした人間にとっては若さの恩恵のひとつを取りこぼしてきたように感じることもある。

だから、雪鳶のような若い娘に男として憧れられるのは自分でも「浮かれすぎだ」と恥じ入る程度には嬉しかった。

今のところ万事順調に運んでいる。
夜、雪鳶と少量の酒を飲んで静かに語らう時間がほんとうに倖せだ。
ひと月そうやって過ごしたお陰で、ふたりの間に着実に愛情が育っているのがわかる。

寝間着に着替えて卓についた趙雲は幸福そうに溜息を吐いた。
目の前で雪鳶が酒肴の準備をしている。
ふと視線が合って雪鳶が恥ずかしそうに目を伏せたのが愛らしかった。
たぶん、今朝家を出る際に耳元で囁いたからだ。

「今宵は朝までともに」

意味は、雪鳶も理解しただろう。
その女の身体を初めて知る時は、いくつになっても心躍るものだ。

景気づけではないが、趙雲は最初の一杯を顎をあけて一度に飲み干した。

(抱くぞ、今夜は)

趙雲の予告を受けて雪鳶も肌を震わせながら身を浄めただろうかと想像すると、無性に胸が熱くなって思わず拳を握りしめた。
不意に雪鳶も同じ気持かどうか気になって隣を見れば、酌をしながら何やら言いたげに唇を薄く開けたり閉じたりしている。

「……雪鳶?」
「趙雲さま、あの……」
「よいのだ、お前の気持はわかっている」

今朝まで「あなた」と呼んでいたのがいつの間にか「お前」にすり替わっている。
感性の鋭い雪鳶がそれに気づかないはずもなく、頬の朱が濃くなった。

「私の気持……ほんとうにおわかりですか」
「無論だ」

盃を置いた雪鳶が大きく開いた目で趙雲の顔を覗き込んだ。
潤いを増した瞳を目の当たりにして趙雲の喉が大きな嚥下の音を立てる。

「では、私が今何を望んでいるのかも?」
「ああ、すべてわかっている。私も同じ想いだ」
「ほんとうに?」
「ほんとうだ」

すると雪鳶は一気に身を引き、「ああ!」と天を仰いで安堵の溜息を吐いた。
予想外の反応に趙雲は笑みを浮かべたまま凍りつく。
雪鳶、と声をかけるより先に、輝くような笑みが視界に飛び込んできた。

「よかった……! 私、あんまりとんとん拍子にいくものだから何だかこわくなって。私、お互いの気持を大事にしたいと思ったのです。それでこのまま勢いで一線を越えてしまうのがおそろしくなったのですが、何と言い出せばいいのかわかりませんでした。でも、まさか趙雲さまも同じ想いだったなんて」

なにっ、という小さな声を雪鳶の耳は拾わなかったようである。
ああよかったよかったと胸を撫で下ろし、緊張の解けたように酒を飲んでいる。

趙雲は無言のまま立て続けに手酌で三杯飲み干したあと、大きく咳き込んだ。
急に噎せたと驚いた雪鳶に背を撫でられながら、趙雲は混乱する頭で「いったい何が起こったのだ」と必死で思考している。

ようやく落ち着きを取り戻し顔を上げると、間近に迫る雪鳶と目が合った。
雪鳶の顔に優しい微笑が浮かぶ。

「趙雲さまが思慮深いお方でほんとうによかった……若いばかりの殿方だとこうはいきませんもの。勢いで押し切られてしまうでしょう。私が大切にしたいものを理解してくださる方だと信じていました」

太腿に柔らかな重みが加わった。
趙雲の首に腕をまわしながら、雪鳶が嬉しそうに頬を寄せてくる。

「待っていてくださいね。私、きっと身も心も趙雲さまに委ねますから」
「それっていつだろうか……」
「もう、趙雲さまも同じ気持だったらおわかりになるでしょう?」

いたずらっ子のように人差し指で恋人の胸をつついた雪鳶を前にして、さすがに「ちっともわからん」とは言い出せなくなった。
男と女がお互いを好いていると判明したあとで、これ以上何を待つというのか。
膝の上で安心しきったように頬を寄せてくる雪鳶の重みが、ただただ息苦しい。



「そんな娘っこを相手にしているのか」

返ってきた声には呆れと、少しの揶揄が混じっている。
話すべきではなかったと、趙雲は唇を結んで槍の穂を磨く指先に力を籠めた。
庭に下りる石段に座り、同様に槍の手入れをしている馬超が、数段下にいる趙雲の頭を面白そうに眺めている。

「気持を大事にするといいうことは、気持に従うということではないか。それはつまり肉体を精神に委ねるということでは?」
「私もそう思うが男と女ではものの考え方が違うのだろう」
「思い出すな、昔を。盛り始めた小僧だった頃、同じようなわけのわからない理由で女に肩すかしを食らわされた」

振り返ると、馬超が眉を持ち上げた。

(それと同じ小便臭い方便で貴様はお預けを食らわされているのだぞ、その歳で)

眼差しがそう語っている。
反論する言葉を持たない趙雲は黙って前を向いた。

「趙雲殿の器をはかっているんじゃないか」
「まさか」
「そういうものだ。この男に対してはどこまで我が儘を通せるのかと、女はそうやって己にとって最適の距離感をはかる」
「雪鳶はそんな手法を知るほど世慣れていないさ」
「本能だ。趙雲殿」

そうなのだろうか、と趙雲は雪鳶の顔を思い浮かべた。
年端もいかない娘だが、生まれもった女という性(さが)が彼女に男の力を利用して生き抜く術を教えているのだろうか。

「昔な」

馬超の声に引きずられ、趙雲はまた振り返った。
手入れを続けている馬超の視線は手元に落ちたままだ。

「飼っていた、というわけでもないんだが、俺の屋敷を我が物顔で歩いていた犬がいたんだ。壮年だったんだろうが、人間の目から見てもいい男ぶりでな、どっしりとした構えの立派な風采だった。ある時、どこから流れてきたのか一頭の雌犬が近所に姿を現すようになった。雄犬より少し年下の、なかなか可憐なやつだったな。おそらく子供を産んだこともまだなかったんだろう。その雌犬がどうやらうちのに惚れたらしく、よく門から中を覗いていた。雄の方もまんざらじゃない様子で、しばらくすると相変わらず堂々とした態度の雄の周りを若い雌犬が駆け回っている姿が時々目撃されるようになった。歳の離れた夫婦みたいだなんて馬岱と話したものだ。ところが、だ。ある日出掛けた先で例の雌犬が子犬を連れていたんで『いつの間に種付けしたのだろう』などと思ったんだが、どうも様子が違うようなんだな。子犬がうちのやつに全然似てないんだ。不思議に思って眺めていたら、向こうから一頭の犬がやってきて母子と仲良くじゃれ始めた。その犬っていうのが、」
「若くて活きの良い雄犬だったというのだろう、もう読めた」
「おや、わかったか」
「わかるさ」

要は「分別面してのんびり構えていると若い男に横から掻っ攫われるぞ」と言いたいのだろう。

「趙雲殿のことを『若い男にはない寛容さがある』って言ったんだろう、その娘。つまりは『がっついてなくてよかった』ということじゃないか。舐められてるってことじゃないか」

重ねて指摘する馬超が小憎らしい。
雪鳶の名誉を考えれば「彼女はそのような女性ではない」と反駁するべきなのだろうが、それこそ恋の不得手を笑われてむきになる小僧のようだ。
馬超とて本気で助言しているわけではあるまい。
面白がっているのが手に取るようにわかる。

「まったく、他人事だと思って」

趙雲は苦笑した。

「俺たちだってもうその辺の若造ではないのだぞ。そんな猪口才な小娘じゃなく、もっと恋の妙味を知り尽くした大人の女を相手にすればいいじゃないか」
「向いてないよ、私には」
「もてるのに」
「もてないさ」
「一花咲かせるなら今が最後だぞ。そのうちよろよろ床入りして、世話係の女の肩を抱いて寝るだけの爺様になる」
「ぞっとしないな」

趙雲は声を立てて笑った。
それから肩を竦めて「その時は雪鳶に世話してもらいたいが」と言ったので、呆れた馬超が天を仰いだ。

「重傷だな、これは。なるほど、若い頃に恋を謳歌しないと趙雲殿のようになるわけだ。うちの若い連中にもよく言って聞かせる」
「好きにすればいい。それなら『幾つになっても大事なひとに巡り会うことはできる』という情報も忘れずに付け加えてくれ」
「そんなのは、忘れた」

屋敷に戻り雪鳶の顔を見ると、やはり馬超の言ったことは嘘だと感じた。
手の汚れるのも厭わず趙雲の身体の塵埃を落としてくれる雪鳶が、そんな不誠実な手練手管で趙雲を絡め取ろうとしているようには到底思えなかった。

趙雲の食事だけは余人の手を加えず自ら作りたいと料理に戻った雪鳶を追って厨房へ入ると、雪鳶は野菜の泥を洗い落としながら不思議そうに笑ってみせた。

「女の聖地だから男子禁制ですよ」

何と可愛い言い回しをするのだろう、と何故だか少し悲しくなった趙雲は、瞬時に馬超の笑みを思い出して顰め面を作った。
明日槍の手合わせをしようと約束しているから、その時はとっちめてやろうと心に決めた。

「お前のすることは何でも見ていたいだけだ」
「嬉しいけれど、女には見て頂きたくないものもあるんですよ」
「さびしいな、そんなの」

後ろから抱き竦めると、柔らかな感触に心底安らいだ。

「でも、いいよ。お前が私にすべてを見せてもいいと確信するまで、いつまでだって待とう」

それで雪鳶が振り向いて安堵の笑みを浮かべてくれるのなら、それでいいと思った。
だからじっと待っていたのだが、雪鳶は振り返らずにまな板を見下ろしている。
様子が変だと気づいた趙雲が名を呼ぶ直前に、彼の腕のなかで雪鳶が身を翻した。
正面から覗き込んでくる雪鳶は眉間に皺を寄せたいささか奇妙な笑みを浮かべている。

「趙雲さま、そのことなのですが」
「そのこととは」
「私を待ってくださると仰ったけれど……ほんとうに待ちたいのですか」

いまいち話を把握できなかった趙雲は、数拍の間を置いてから小刻みにかぶりを振った。

「え……え? 何のことだ」
「昨夜のことです」

雪鳶は痺れを切らしたように手のなかの青菜を揺らした。

「私を待つと仰ったけれど、趙雲さまは今すぐにでも私のことを欲しいと思わないのですか」

語尾が落ちている。
問いかけているというよりは、なじっているようにも聞こえた。

「だってそれは雪鳶が待ってくれと言ったからじゃないか」
「それは趙雲さまがあんまり緊張した顔をしていらしたからです! 緊張というか……こわいお顔を。それで私、趙雲さまのお気が変わったのかと思ってそう伺おうとしたら『同じ気持だ』なんて仰ったでしょう。だから趙雲さまは先延ばしにしたいのだと思って。私ばかりが気持を先走らせていたのだと恥ずかしくなって、ついそれに乗っかって『私も一線を越えるのがおそろしかった』などと……はしたない女だと思われたくないもの」

勢いで言い切った雪鳶は肩を上下させている。
余程言いづらかったに違いない。

「私はただ雪鳶の心を大事にしたかっただけだ」
「私の心なんて、決まってるじゃありませんか」

青菜を持った手で胸をど突かれた趙雲の肩が揺れる。
猫を被っていたと言ってしまっては雪鳶があまりに可哀想だが、思っていたのと少し勝手が違うのは事実のようだ。

(ああ、やはり私はいくつになっても恋の道には暗いままか)

腕のなかの雪鳶を見下ろしながら、趙雲は今更ながら自分の性分を思い知った。
小娘を御するどころか、小娘の胸の内すら容易に推察してやれない。
働き盛りの名が泣いている。

「では、私たちの想いははじめからひとつであったのだな」
「そう……なのですね、趙雲さま?」
「そのようだ。ああ、そうなんだ。何も探り合う必要などなかったのに。よし、そうとわかれば善は急げだ。今参ろう。時を移さず。さあ。今すぐ」

ほい来たとばかりに身を翻し寝室に向かう趙雲の後ろを雪鳶が小走りでついていく。
慌てたばかりに青菜を握ったままだ。
何とも不格好な床入りではあるが、雪鳶のそそっかしさを責める資格は、少なくとも恋の道においては趙雲にはないようだ。

真に言いたいところは違うのだろうが、偶然にも馬超の助言は生きている。
つまりは、分別面して何がどうなる、ということだ。



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