■ 花かいどう

窓際に腰掛けた雪鳶が膝の上に広げた手紙を読んで困り果てた顔をしていたので、馬岱は背後に回り込み、忍び寄って肩越しにそれを取り上げた。
驚いて振り返った雪鳶の方から甘い香りが漂ったが、厳密には手紙に焚きしめられていた香が風に乗ったようだ。

「恋文」

書きつけられた文字を読むより先に馬岱が呟く。
差出人については、いよいよ読む必要などなかった。

「恋文などでは」
「ああ、恋文以下だね。気候の話や近況についてばかりで肝心のひと言が書かれていない」

野暮天、と唇が音もなく動いた。
どうせ文をしたためるのであればいついつに忍び入るので招き入れてほしいくらいのことを書けばよいものを。
むろん阻止するが。

窓枠に頬杖をついた雪鳶はつまらなそうに庭の草木を眺めている。
横顔の形は時折はっとさせられるほどその父親に似ているが、彼のよく浮かべていた笑みがあまり見られない。
それが、養父としては気懸かりだった。

雪鳶は馬超が遺した娘である。
馬超が劉備に帰順した頃に生まれた。
十歳に届かぬうちに父を亡くし、以降馬一族の祭祀を嗣いだ馬岱がその身を預かって養育している。
馬超の最後の子だから馬岱にとっても一際思い入れが強く、それだけ大切に育ててきたつもりだが、苦労の多かった父親の哀切の記憶を知らぬ間に受け継いだのか、娘盛りというのに快活さに欠ける。
美貌のために、かえって淡々とした振る舞いが際立った。

翳りのある美少女に若者が惹かれるのはごく自然のことだ。
蜀においては馬一族は未だ名門ということもあって、このところ婚姻の打診が絶えない。
そのこともまた雪鳶から少女らしい笑顔を奪っているようであり、一方女としての倖せを得てほしいと願う馬岱にとっては身を引き裂かれるような心境だった。

姜維。
文を寄越した人物については馬岱もよくよく知っている。
二年ほど前に魏を出奔し諸葛亮の下へ走ってきた男だ。

好青年だとは思う。
鬱ぎがちの雪鳶の胸中を思いやって直接的な求愛の言葉を避けた手紙と、ならばせめてただの世間話でないことを伝えようと焚きしめた香、いずれも恋する若者の切々とした想いを馬岱に教えては悩ませる。

だめだと決めたわけではないのだ。
馬岱はまだ迷っていた。

「どうなの、雪鳶。姜維のことが好き?」

馬岱は雪鳶の前に回り、窓枠に軽く腰掛けてその顔を覗き込んだ。
そんなことを尋ねられるのも嫌だという風に雪鳶は頬杖を外して首を横に振った。
姜維への思い自体を否定する仕草ではないように見受けられる。

「この前海棠の花を一緒に見に行ったって言ってたじゃない。楽しくなかった?」
「海棠は、美しゅうございました」

頑固な娘に馬岱も思わず頭を掻いた。
父親の方も頑固ではあったが、もっとわかりやすい人柄であったはずだ。
こういう屈折した強情さは馬超にはなかった。
この子の兄たちにもあまり見られない。

(むしろ似ているのは俺、か)

だからこそ雪鳶にこだわってしまうのかもしれなかった。
もしもう少しでも馬超が長く生きてその手で育てられていたのなら、馬岱の手に委ねられるのがもう少し遅かったなら、今頃雪鳶は娘盛りを謳歌していたのではないかという引け目が馬岱にはある。

「でもほんとうに嫌だったら姜維の誘いを断って帰ってくることもできたはずだよ。というか、彼についてったって聞いて俺はてっきり君がその気になったんだと思ったんだから」

そうでなければついに強引に連れ去られたか。
琴の稽古に出した雪鳶が帰り道で姜維と会ってそのままついて行ったと従者に聞かされた時、馬岱の頭にはその両方の可能性が浮かんでぞっとしたものだ。
姜維がそういう手法を考える男とも、その度胸があるとも思わないが、万が一雪鳶がなし崩しに奪われることになっていたらおそらく馬岱は件の従者を斬り捨てていた。

「あまり重ねて断るようだとおじさまのお立場に障ると思っただけです」
「君にそんな心配をさせるようにはしてないはずだけどねえ」

そもそも馬岱はもはやこの国での栄達を望んでいない。
馬一族の繁栄も、さほど興味はない。
それらを軽視するわけではないが、ただその一念のみでやっていくには馬岱もあまりに疲れている。
あとのことは馬超の息子がどうにかしてくれるとも、そうすべきだとも思っており、つまるところ馬岱に残された最後の懸念こそが雪鳶だった。

「雪鳶。そろそろ決めないと」

馬岱は窓枠に置かれていた雪鳶の手を上から握った。
何を決めるのか理解している雪鳶は窮屈そうに目を伏せた。
生きていること自体が面倒だとでも言いたげな表情は、驕りの春の真っ只中にいるはずの娘が浮かべるといっそ凄惨なほどだ。

「若も死んだ。俺もいつまでも生きちゃいないよ」
「……」
「俺が死んだあと、もし君の兄上たちが栄達を望めばきっと君を政略に用いる。俺はそれも間違いじゃないと思うけど、君の倖せを考えればこの目が黒いうちに好い人に嫁がせてやりたいんだ。わかるね」
「姜維さまがその人だというの?」
「ううん、それなんだよねえ。決めかねてるって感じかな。君が彼を好きならやってもいいとは思うけど」
「わからないの。全然わからない種類の方のようだし」
「そりゃ若とはちっとも似てないね」
「あら、おじさまと違うという意味で言ったのよ」

珍しく雪鳶がかすかな笑みを浮かべたので、馬岱は数拍の間を置いてから「そっか、そっか」と彼女の手を撫でた。
男を選ぶ時の基準にされていることは嬉しいが、不意に泣きそうになった。
雪鳶もつられて目元を歪めている。

「……悲しいね、歳をとらなきゃいけないなんて。こうしてずっと君を娘として育てていたいのに。若が最後に遺してくれた大事な贈り物だから」
「私もお嫁になんて行きたくない」

雪鳶は取り縋るように馬岱の手を両手で握りしめた。
白く細い指を握り返すと、生まれたばかりの雪鳶をこの手に抱かせてもらった時の情景が馬岱の脳裏に蘇る。
流浪の果て、疲労困憊の日々のなかで生まれた命は馬岱の胸に鮮やかな感動と希望をもたらした。

なんて可愛い子なんだろう、このままうちの子にしちゃいたいよ!

桜色の柔肌に頬ずりしながら叫んだ馬岱を馬超は笑ったが、もしかするとあの時既に今日の日の運命は決まっていたのかもしれない。

「……雪鳶。今度姜維と三人で遠乗りに行こうか」
「馬……? 私、馬は乗れないわ」
「俺の後ろに乗っけてあげる。君、最近疲れた顔をしてるから息抜きが必要だよ」
「姜維さまと一緒で息抜きになるかしら」
「それをはっきりさせるのも悪くないさ」

雪鳶はいまひとつ納得のいかない様子だったが、馬岱は笑って彼女の頭を撫でて話を切り上げた。



二馬身後ろに姜維の馬の息遣いを感じる。
二人乗りの馬より遅いはずもなかろうが、 姜維は馬岱を立ててその後ろを走ることにしたようである。
礼節の点においては、馬岱はひとまず合格をつけた。

しばらく走ると森を抜けて小さな泉のある草原が現れたので、そこで馬を休ませることにした。
先行の馬が停止の気配を見せたので、姜維は手綱を引いて素早く鞍を降り、馬岱の馬へ駆け寄ると雪鳶の下馬を手助けした。
卒のない動作はさすがに諸葛亮が目を留めただけのことはある、と馬岱は顔色を変えずに胸中で唸る。
それからどうも知らず知らずに姜維の粗探しをしているらしいことを自覚し、これでは雪鳶を嫁にやる気はあるのか否かと我ながら可笑しくなった。

「遠乗りではいつもこちらに?」

適当な樹の幹に手綱を結わえつけた姜維が、清水を掬って口元へ運びながら雪鳶に尋ねた。
馬岱は濡らした手拭いで首の後ろを拭いつつ、敢えて聞いていない振りをしている。

「いいえ、私は普段馬に乗らないので」
「馬はお嫌いか」
「気分のいい時は平気なの。でもそうでないと、馬を大層可愛がっていた父を思い出すから」
「馬超殿か。お会いしてみたかった」

何となく口を挟みたくなって、馬岱は柔らかな草の上に寝転びながら澄まし顔で言った。

「若も劉備殿も趙雲殿も、英雄はどんどんこの世を去っちゃったからねえ、今の蜀は少しさびしいよね」
「あ、いえ、そういうわけでは。私と同じ涼州出身の英雄に会ってみたかったのは事実ですが、それ以上に雪鳶殿のお父上という意味で……」

馬岱ではなく馬超に会ってみたかったなどというつもりは毛頭なかった姜維は慌てて弁解した。
むろん承知の上の馬岱は目を瞑って笑みを浮かべている。

「ま、そうは言ってもまだ諸葛亮殿もいるし、関羽殿の子らも頑張ってるしねえ」
「そうですとも。まだまだこれから」
「それには姜維も奥さんを貰ってしっかり身を固めないと」

不意を衝かれた姜維は狼狽を見せた。
一見許可にも聞こえる言葉だが、姜維はまだ公式には雪鳶に求婚しておらず、養父の馬岱に打診したこともないのだから、これはあくまで先輩による一般論としての助言だ。
勿論含みは大いにあり、それをわかっているからこそ姜維も顔を赤くしてどぎまぎしているに違いない。

馬岱はにこにこと笑っているが、内心では毒づいていた。

(こっちだって痺れ切らしてるんだって)

乱暴な男がいいというわけではないが、女に対してあまり押しが弱いのも如何なものか。
その手のうぶさが色恋沙汰にとどまった例を馬岱はほとんど知らない。
大抵は仕事の面でも優柔不断であったり、地固めにこだわりすぎて果断さに欠けることが多い。

苛立ちが知らず知らず舌に乗ったのかもしれない。
頭の下で腕を組んで空を見上げたまま、

「姜維は天水に奥さんを置いてきたんだっけ」

と妙にはっきりした声で言ったのはさすがに意地悪だった。

案の定姜維は決まり悪げに俯いている。
過去に妻子を捨てた男が新しい女の前で誠実を誓うのは難しい。
たとえそれが放蕩の結果でなかったとしても。

これは姜維に恨まれるかな、と馬岱が瞼を下ろそうとした時、意外な声が上がった。

「嫌なおじさま。そんな言い方ってないわ」

閉じかけていた目を開けて首をもたげると、草に腰を下ろした雪鳶が眉間に僅かな皺を寄せて馬岱を睨みつけている。
おや、と馬岱はぱちぱちと目を瞬かせた。

「いいのだ、雪鳶殿」
「いいえ、姜維さま。あなたの話ではないのです。だっておじさま、父上だって意図して家族を見殺しにしたわけではなくってよ」

参ったな、と馬岱は微笑して顎を掻いた。
雪鳶の理屈が勝っている。
姜維のしたことを、馬超と意思を共にしていた馬岱には責める法がない。

「意図したわけではなくとも、結果的に見捨てることになった咎は誰かが負わねばならない。それは私だ……と、いうつもりでいます」

姜維の付け足しで若いふたりの論は完全となった。
参ったな、と馬岱は今一度胸のなかで繰り返した。
まったく同じ会話をかつて馬超としたことがある。

……若がすべての罪を背負う必要なんてないよ。皆を殺したのはあくまでも曹操じゃないか。
……馬岱、馬岱。それで俺の罪が軽くなるわけではないのだ。こうなることを望んだわけではないが、こうなることを知ってはいたのだから。

(何てこった)

馬岱は襟を少し緩め、ゆっくりと流れていく白い雲をぼんやりと目で追った。
ずっと雪鳶のなかに自分と似た匂いを感じとってきたが、どうやら姜維のなかには馬超と似た何かがあるらしい。
よく考えてみれば真摯で一途な瞳の奥に如何ともしがたい暗さを湛えているところもそっくりだ。

この思いはそれから程なくして遠征に発ったあと、三ヶ月余りのちに家へ戻ってお腹の膨らみはじめた雪鳶を見た時に一層強くなった。
胎児の成長の具合からして馬岱が家を離れるより前に宿っていたようだ。
雪鳶は俯いたまま唇を一文字に結び頑として父親の名を明かさなかったが、馬岱が姜維を密かに呼び出して知らぬ顔で「不逞の娘とは思うがすべて承知の上で嫁に貰ってはくれないか」と頼むと姜維は青ざめた顔で頷いた。

妙な経緯になったものだ。
真面目なばかりで突破力のないのが危ぶまれると評していた姜維がこんな荒技をやってのけるとは思っていなかった。
出し抜いてくれるじゃないか、と或る種痛快な気もする。
指を折って計算すれば、あの遠乗りの日よりも前に二人の間に事件が起こっていたことになる。
だとすれば雪鳶はいったいどういうつもりで姜維と一緒に行くのを嫌がったのか。

だがそれももういい。
これで馬岱が己に課した最後の大仕事が終わったことになる。
馬岱は花嫁衣装の雪鳶を送り出したあと、窓際に座って頬杖をついてみた。

澱のように蓄積した疲労を感じながらゆっくりと目を閉じれば、在りし日の情景が朝靄の向こうの景色のようにぼんやりと瞼の裏に浮かんできた。
その昔、馬超とひとりの女を獲り合ったことがある。
若い親友同士の早駆けにも似た爽快な競争であったが、最後は馬超に女を持っていかれた。
よくよくあの手の男に奪われやすいたちらしい。



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