■ 晩秋

窓から一陣の風が吹き込み、机の上に置かれていた筆が床へ落ちてからからと音を立てた。
秋の深まりを感じ、姜維は思わず自分の身体を抱いてさすった。
随分と冷え込んできている。

熱い茶でも飲んで身体を温めようと茶器を探したが、ざっと見回した限りでは見当たらない。
節約をしようと少しだけ火にくべた薪が如何にも辛気臭く、一層寒さが増したような気がする。
沈黙が虚しい。

雪鳶は十日ほど前に姜維と二人住まいのこの家を出て行った。
ちょっと出掛けて参りますしばらくしたら戻りますのでご心配なく、という書き置きを残したまま行方知れずになった雪鳶を、姜維は真剣に捜す気になれなかった。

じきに戻ると言ってはいるものの、どうだか知れない。
以前と比べれば出世をしたものの依然しけた暮らしをしている姜維に愛想を尽かして逃げたとしたら、姜維はとても雪鳶を責める気にはなれなかった。

思えば雪鳶には色々と無理をさせている。
姜維はもともと男として華やかな方ではなく、また贅沢なことは好かず、それどころか通常の生活のこともあまり気がつかないたちだから、雪鳶の方から言いづらそうに「今月の生活費を……」と催促されることもしばしばだった。
度重なる遠征でさみしい思いをさせてもいるだろう。
そしてそれを上手く詫びて逢わない間の辛苦を逢っている間の喜びに変えてやるのも不得意だ。

元来雪鳶は適当な男と適当な結婚をして平凡かつ幸せに生きることの望めない家庭の娘ではなかった。
それが、様々な不運の重なった結果姜維のような男の女に落ち着いた。
支障があるわけではないが、何となくまだ妻ではないというのも哀れだ。

とはいうものの、もとより彼女を縛りつける気など毛頭ない。
解放の用意は常にできている。
それが悲しくもあっただろう。

(しかしそれを知りつつ私を選んだのは雪鳶だ)

ようやく見つけた茶器はふちが僅かに欠けていた。



茶を飲んで身体が温かくなったせいかいつの間にやらうたた寝をしていたようで、妙な夢を見た。
姜維は眠りの浅いたちであるが、そのわりに夢はあまり見ない。

夢のなかで、姜維は懐かしき天水の町はずれを歩いていた。
薄い霧の流れる木々の間を当て所なくゆっくりと散歩していると、不意に大樹の陰に雪鳶の肩が見えた。
白い横顔と黒い睫毛。
旅の疲れの色は見えない。

はて雪鳶と出逢ったのはここだったかと首を捻ったが、間もなくそれが夢だと気づいた。
雪鳶と知り合ったのは姜維が蜀に帰順して以降のことだからだ。
不思議と姜維は幼い頃から夢を見てもそれを夢と見破った。
考えてみれば、途方もない目標のために遠征を繰り返している現実の方がはるかに夢のようだ。

「雪鳶」

声をかけると、雪鳶は薄く唇を開けた官能的な表情で振り返った。
紅も差さない白い唇を、姜維は好いている。
唇に増して白い歯がほんの僅かに覗いていた。
きゅっと引き締まった口角が美しい。

雪鳶の不在はたかが十日程度だというのに、既に姜維は雪鳶を欲していた。
歩み寄り、その細い腕を掴んで引いた。
半ば倒れるようにして、雪鳶が姜維の胸に飛び込んできた。
まるで現実らしく、柔らかな膨らみがそこにはある。

「何だろうこれは……私の願望なのか?」

自分でもおかしく思い微笑しながら抱きすくめれば、背には姜維の服を掴む雪鳶の指の力を感じる。

「あなたってちょっと珍しいほど危険なようだけど、実のところ本当に凡庸な人よね」

いつもと幾分違う口調に雪鳶の顔を覗き込めば、姜維と似た微笑を浮かべている。
それですぐにこの雪鳶は姜維が脳内に創り出した雪鳶であって、言うなれば姜維の一部に過ぎないことを思い出した。

(顔つきが似てくるのも道理だ。実に憎たらしい顔で笑う)

成果の上がらない遠征に、このところやや荒んでいたのは事実だ。
それが顔にも表れたか。

「そうだな。私は凡庸平凡だ」

姜維は雪鳶の白い頬に右手を添えた。
やや明るい色の瞳が熱を孕んで見上げている。
そのきつい朱の襟元から伸びる白い首が姜維の目を惹きつけた。
本来の雪鳶ならば絶対に身につけない色だ。

「だが、こんな平凡な男が平凡に生きられない世の中の方が間違っているとは思わないか」

そうね、とは雪鳶は言わない。
かわりに「可愛くて、可哀想な人だこと」と微笑を浮かべた。
風が吹き、雪鳶はこめかみの辺りの髪をそっと指で押さえた。

「夢から醒めれば二度と私に逢えないかもしれないわ」

言いながらおかしそうに雪鳶が口元に手の甲を添えた。

「帰って来ないつもりか」
「わからない。でも、私がいないとあなた、猫に餌をやってくれないでしょ」

姜維は毎日決まった時刻にやって来ては残飯を雪鳶にねだる猫を思い出した。
きっと他の家でも餌を貰っているのだろう。
よく肥えて、野良のわりに毛並みが美しかった。

たとえ残飯でも猫に遣るなど勿体ないと当初姜維は思ったが、「鼠を捕ってくれますわ」という雪鳶に負けて餌遣りを許した。
ところが猫が出入りをするようになっても鼠の数は変わらない。
これは妙だと物陰から秘かに様子を窺えば、なんと庭で昼寝をしている猫の鼻先で鼠が遊んでいる。
呆れたことに猫はただ飯喰らいであったのだ。

そういう図太い神経の猫だから、雪鳶の足元には喉など鳴らしながら擦り寄るくせに、姜維しかいない時にはフイと顔を背けて去っていく。

「あの猫、雪鳶がいないと飢えて死んでしまうぞ」
「まさか。他の屋敷で何か貰うわ」

そう言って雪鳶がその微笑を姜維の肩口に沈めると、不意に足元から鈴の鳴る音がした。
驚いて姜維と雪鳶が音のした方へ顔を向けると、大樹の根元に猫が座っている。
灰色の毛並み、幾分高めの鼻、藍色の瞳。

あの猫ちゃんかしら、と呟く雪鳶に姜維は「まさか」と言った。

雪鳶が服の裾を気にしながらしゃがみ、手を差し伸べると、猫は小さな声で鳴いた。
警戒もせず、まるで見知った仲のように雪鳶の指の上に顎をのせている。
逃げようとしないのを見て、雪鳶は今度は猫の首を、背を、尾の付け根を撫でた。
そして顎を通って優しく腹の方へ手のひらを落とした途端、「あッ」と声を上げた。

「どうした」

姜維が立ったまま尋ねると、雪鳶は顔を上げて姜維を振り返り、笑った。

「この子、お腹に赤ちゃんがいるわ」

突然がくっと肩を揺らして姜維は目を覚ました。
机に突っ伏した状態で寝入っていたらしい。
身体を起こして周囲を見回し、不意に襲う寒気に肩をすぼめた。



それから三日も経たないうちに雪鳶は帰ってきた。
出て行った時と同じようにごく健康的な様子で、手には土産など持っている。
聞けば馬車に乗って随分遠くまで行ったという。

「ちょっと行ったことのない場所へ行ってみたかったのです」

雪鳶はここの生まれで、長旅をしたことがない。
あまり心配かけさせるな、と文句を言いながら姜維は土産の包みを受け取った。

あらやっぱり汚くなってる、などとぼやきながら雪鳶は平然とした顔で廊下を進む。
そのあとを追いながら、姜維は「どこへ行ったんだ、具体的に」と重ねて訊いた。

「そうね、色々なところへ行きましたけど。一番よかったのは二日ばかり馬を走らせたところの森かしら。ちょうど朝霧が煙る頃で。ほとんどは似たような細く高い木々ばかりでしたが、一本だけ大人が三人くらい手を繋がねば一周できないほどの大樹があって、それは見事でした」

それから姜維の方を向いた。

「何か?」

言われて初めて自分が呆けた顔をしていたことに気づいた姜維は、慌てて手のひらで頬を撫でた。
あれは夢なのに夢ではなかったのか。
姜維は訝しげに首を傾げた。
夢であることは確実なのだから、そうだもしかしたら第六感のような、でも兎に角夢は夢だ。
無理矢理に納得させて気分直しに茶を啜ったところへ雪鳶が話しかけた。

「ところで猫ちゃんには餌を遣っておいてくださいましたか」

思わず咳き込みそうになった姜維を、今度は雪鳶が訝しげに横目で睨む。
姜維は誤魔化し具合に口元を拭いながら尋ねた。

「で、何だっていきなり何も言わずに行ったのだ」
「自分でもよくわからないのです。一応きっかけのようなものはあったのですが、兎も角ひとりになって色々考えてみたくて、急いで飛び出したの」
「そんなに急を要することだったのか」
「ええ、大急ぎ」
「で、何だったのだ」

急に言い淀んだ雪鳶は、困ったように庭に目を走らせて「あら」と声を上げた。

「猫ちゃん」

つられて姜維がそちらへ目を遣ると、確かに庭先の石の上にあの猫がちょこんと座ってこちらを見ている。
いつものように雪鳶は台所へ消え、まもなく魚を一匹持ってきた。
そして庭に下りると膝をつき、魚を猫の前に置いた。
猫は持ち帰らずにその場で噛みついている。

「どうせろくな物を貰ってなかったんでしょう」

雪鳶の言葉に、家の内から姜維が「こら、別に飼っているわけではないのだから義務はないぞ」と混ぜ返した。

「いつもなら丸ごとの魚なんて遣れはしないけど、今日は特別ね。気分がいいから」

猫の食べっぷりを眺めながら呟くと、いつの間にか姜維がすぐ傍らにまでやって来ている。
雪鳶の隣にしゃがみ、その肩に腕を回した。
雪鳶がわざとらしく睨んでも、姜維は気にしないような微笑を浮かべたまま雪鳶の肩口の匂いを嗅いでいる。

「気分がいい、だって?」
「ええ」
「そんなに御機嫌なのは、何故だ」
「どうしてでしょう」

はぐらかして雪鳶は腕を伸ばし、猫の背を撫でた。

「でも、そうね。ひとりになって、森と霧の匂いを嗅ぎながら色々と考えたのです。あなたのこと、私のこと、それからそのどちらにも関係のないこと。でもいくら考えても……わかったの、絶対にひとりにはなれないってことが」
「何だって」
「もう、ひとりじゃないんですもの、私」

しばらく首を捻っていた姜維が意味深な微笑の意味に気づいた時、雪鳶は暫くぶりのご馳走を終えた猫を優しく膝へ抱き上げていた。

「お、おい。雪鳶」
「あら」

姜維が言い終わらないうちに雪鳶は顔を上げた。
雪鳶に話の腰を折られるのは珍しくないが、肝心なことを話させてくれない雪鳶に姜維は眉を顰めた。

そんな不機嫌な空気にはお構いなしに姜維の膝を手で叩きながら雪鳶が興奮気味に言った。
反対の手は猫の腹を撫でている。

「姜維さま、この子もお腹に赤ちゃんがいるわ」





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