■ 惚れた弱み

酔って管を巻く女の姿など目も当てられない。
見たくもないが、壁際の席に押し込められた馬超は移動することもできずにちびりちびりと酒を飲み、向かいに座る雪鳶のやや化粧の落ちかけた目元を見つめていた。

無理矢理引き摺りこまれた飲み屋の出入口は雪鳶の後ろにある。
雪鳶の制止を振り切ってそこを通る自信はなかったし、雪鳶をひとりきりにして帰る度胸もなかった。

雪鳶は何杯目になるかわからない酒を手酌で注ぎ、鬱陶しそうに髪を掻き上げながら愚痴っている。

「だめなんだって頭の中ではわかってたんだけど、そういう時ってほんとに大抵だめだね」

溜息しながら雪鳶がぼやく。
その疎かになっている手元が盃を倒したので、馬超は適当に相槌を打ちながら腕を伸ばし、手拭きで零れた酒を拭ってやった。

半年間落とそうと頑張った相手についに決定的なひと言を言われたらしい。

元々浮いた話の少ない女ではなかったが、今度の雪鳶の入れ込みようは過去の比ではなく、時折経過報告を受けていたがその都度彼女の髪型や衣服の傾向が変わっていたので馬超もほとほと呆れていたところだ。

その男が従順な女を好むと聞けばそれらしい格好をし、いや実は派手な女も嫌いじゃないと聞けばまたそれらしい格好をする。
呆れた馬超が百面相と渾名すれば嫌そうに顔を顰めてみせたが、その実雪鳶自身浮かれすぎの自覚はあったようだ。

雪鳶は兵站の才を認められ後方の補給部隊に随行することを許された女だけに、男ばかりの軍の中では目立つ存在だった。

そうでなくとも大抵はどこででも男の声がかかるのが自慢の女だから、男の口走った些末なひと言にこうも左右される自分にきっと誰より雪鳶が驚いていたのだろうし、自尊心も傷つけられているに違いない。

男のために何かを変えるのを厭う女がこうも振り回されている。
相手の男も薄々それを察しながらの言動であったらしい。

浮ついた者同士お似合いじゃないかと馬超は思ったが、男には結局堅実な相手があったようだ。

「道化師だわね」

雪鳶が吐いた言葉は、皮肉なことに的を射ていた。

「惚れた弱みだもの」

目を伏せた雪鳶の、頬ばかりが酔いに染まった蒼白い顔はどこか鬼気迫る魅力があり、馬超は不覚にも目を奪われた。

恋にやつれた女は不思議と色気が増すと言うが、成る程これのことか。

とはいえこれまで色恋沙汰で愚痴ったりぼやいたりする雪鳶の姿は幾度も見てきたものの、やつれた姿というのはこれが初めてだ。
それだけ本気だったのかもしれない。

馬超のことで雪鳶がこんな表情を作ることは有り得ないだろうと考えると、顔も知らないその男のことがどうにも憎らしかった。

(出逢った頃からお前に惚れていた)

喉まで出かかった言葉を危うく酒で再び流し込む。

荒くれ者の評判が流れていたせいもあり、中途で劉備の麾下に入った馬超から周囲ははじめ距離をとった。
雪鳶は当初から気さくな態度で接してきた数少ないうちのひとりだ。

はじめは馬超も「女だてらに軍に従うってどんな奴だ」と訝しんだが、雪鳶の立場は軍人というよりも軍属に近い。

いくら遠征に同道することがあるといっても、主に後方で兵器や食糧の補給を担う兵站部で活動する雪鳶の腕は、男に比べれば遙かに細い。

剣の心得はあるそうだが、後方部隊が武器をとるとしたらそれは前線が崩壊した時で、言わば過酷な撤退戦にもつれ込んだ場合だ。
幸いにして今のところその経験はない。

実際に死にものぐるいに剣を振るったことのない雪鳶の体は薄く、手首など馬超が少し力を籠めれば簡単に折れてしまいそうだ。
そのことに気づいてしまった時、馬超の胸は何かに焦ったかのようにじんわりと熱くなった。
その熱は今も尚持続している。

ちょっとやそっとのことで羞じらうような女でないことは知っている。
浮いた話も幾つか聞いた。

ならば自堕落な女かというとそうでもなくて、仕事に関しては存外堅実だ。
着々と功績を積み立てて、容易に無視できない存在になりつつある。

ただ、出で立ちや仕事に関してはどんどん成熟していく傍らで、恋愛だけがどうにも大人になれずにいるらしい。

恋に破れては馬超が呼び出される、それがお決まりの展開だった。
恋が上手くいっている時に呼び出された記憶はほとんどない。

「こんなんじゃだめだよね、いくら好きな相手に言われたからってハイハイ言うこと聞くなんて。都合のいい奴に成り下がるなんて、自分でも反吐が出るとは思ったの」

雪鳶の自嘲は意図せずして馬超に対する嘲笑になった。

「思ったからこそ、思い切って口にしたのよ。いい加減はっきり決めてくれって。いいならいい、だめならだめってちゃんと言ってくれって。そしたらバッサリ切られたってわけ。結果的に見ればこれでよかったのかな……たぶん本気でそう思えるのは何年かあとだけど」

よく回る口だと思いながら、馬超は尋ねた。

「そこらへんのことは曖昧にしてでも、取り敢えず会ってもらえる関係を続けた方がいいかもしれん……とは、思わなかったのか?」
「思ったよ。思ったけど……どの道後悔するなら自分にとって有益な選択肢をとった上での後悔の方がいくらかマシかなって思って。いい加減恥や後ろめたさを感じずに他人に言えるような恋をしたいとも思ったし。何年も耐えて頑張ってようやく振り向いてもらえる恋なんて、小娘ならいいけどこの歳じゃ寒すぎ」
「歳は関係あるのか」
「あるでしょ。いい歳して当てのない恋愛に真剣に入れ込むなんて大人のすることじゃないもの」

そういうところは冷めてるんだよな、とつまみの漬け物を口へ放り込みながら馬超は感心した。

成る程雪鳶は大人だった。
他の大人たちの前では、それが友人であれ軍関係者であれ、きっと冷静で落ち着きのある大人の振る舞いを貫いているのだろう。

それだけに、翻弄された今度の恋が気に食わないのだ。
今度の一件を例外にして、彼女は普段大人の女を演じきっている。
ただ馬超の前を除いて。

馬超と会う時、雪鳶はほとんどめかし込んでいた試しがない。
以前男といる時の雪鳶を見かけたことがあるが、はっと驚くほど可憐な格好をしていた。

今目の前にいる雪鳶も持ち物ひとつひとつは上等の品ではあるが、それはそもそも洒落者の彼女が安っぽい装飾品を身の回りから排除しているからに他ならず、間違っても馬超のために着飾ったのではない。

恋人と逢う時は、馬超にはそのやり方すらまるで想像できないほど複雑な形に髪を結い上げているくせに、馬超とふたりになる時は垂らすにしろ纏めるにしろ無造作が常だ。

要は雪鳶にとって馬超は洒落込んで会いに行く男であったことなど一度もないということなのだろう。

「ちょっと、馬超全然飲んでないじゃん。私だけ酔っ払ってると恥ずかしいからちゃんと飲んでよ」

しばらく空になったままの馬超の盃に気づいた雪鳶が女中を呼びつける。
馬超は大して飲みたくもない酒を注文をしながら、

(酔い潰れたお前を送るためじゃないか)

と心のなかで愚痴を言った。

信頼されているのはわかっている。
馬超がいわゆる送り狼になる可能性など、雪鳶はつゆほども感じていないのだ。
馬超自身、それはないだろうと思っている。

そんなやくざな所業を為し得るならば、とうの昔に事に及んでいる。
酔い潰れた雪鳶をどちらかの屋敷まで運び、寝台に寝かせたところで組み敷いてしまえばいい。

(俺は真面目だ)

換言すれば、「俺は臆病」、でもある。

卑劣なことをして、もしも雪鳶に嫌われたら……そんなことを考えていつも大事に送り届けるに終わっている。

ふと先程の雪鳶の言葉が頭のなかに響いた。

「どの道後悔するなら自分にとって有益な選択肢をとった上での後悔の方が幾らかマシ」

だとすれば、この場合馬超にとって最も有益なのはいったいどの選択肢だろうか。
嫌われるのを覚悟で打ち明けるか、このまま曖昧にしておいて今まで通りの関係を続けていくか。

どうせ後者だ、と鼻で笑いながら盃に唇をつけた馬超の心に火を放ったのは、雪鳶のひと言だった。

「まったく遊び慣れたヤツってろくなもんじゃないわ。馬超みたいな真面目な男がいいな」

これまで馬超に関して浮いた話がなかなか噂に上らなかったのは、常に彼の心に雪鳶が巣くっていたからだ。

雪鳶の知らないところで恋愛してみたことも勿論あるが、それを雪鳶に伝えなかったのは要するに一縷の望みに賭けていたからだった。
細い糸一本で繋がっているかもしれない可能性を、自ら断ち切ることはできなかったのだ。

「……別に真面目じゃない。臆病なだけだ」
「ああ、好きな子はいるんだ」

さほど興味もなさそうな口調で聞きながら雪鳶が頬杖をつく。

「長いの?」
「ああ」
「ふうん……物好き」
「お前のことを好きになるような奴は皆物好きだ」

雪鳶は何も言わなかった。

空いた杯の散らばった卓に頬杖をついたまま、やや見上げるような視線を馬超へ向けている。
薄暗い店内に置かれた燭台のあかりのせいで、長い睫毛の影がくっきりと目の下に落ちていた。
表情はいまいち読めない。

やがて雪鳶は頬杖を外し、盃を取った。
盃に唇をつける時、眉間に僅かな皺を寄せる癖はいつも通りだ。

「……いつから?」

眉間の皺は盃を置いても消えなかった。

「ずっと前から」
「一年くらい?」

馬鹿な、とでも言いたげな笑いが馬超の口から漏れる。

「もっと前だ。知り合って……わりとすぐの頃」
「嘘でしょ」
「ならば良かった」
「……どうして言わなかったの? いつも会ってるし、私恋愛関係のことをよく愚痴ってた。こういう言い方って良くないし事実と違うけど、傍から見たら馬超、完全に『都合の良い男』だったよ? 結局音を上げた私が言うのも何だけど、そういうのって疲れない?」

馬超はやけに強い酒をひとくち飲み、片方の眉を持ち上げた。

「惚れた弱み」
「…………」

また沈黙になった。
どこかに団体客がいるらしく、笑い声が聞こえてくる。

雪鳶が天井を一瞥し、神経質な笑みを浮かべた。

「納得いかない」
「何が」
「何であんたなの」

馬超は顎を引き、視線で疑問符を示す。

「めかし込んだり格好つけたり媚びたりして落とそうとした男は振り向きもしなかったのに、いつも適当な格好で会ってくだらないことばっか話してた馬超が、どうして私に惚れるの」
「どうしてって言われてもな……」
「私のどこに惚れたの」
「どこって……」
「飾らないところ、とか言わないでね」

無言になった馬超を見て、雪鳶が剣呑な笑いを作った。

が、すぐにその笑みが引っ込んだのは、この瞬間まで自分が散々愚痴っていた言葉の数々が馬超の立場と重なることに気づいたからだ。

自分を嗤うつもりが意図せずとはいえ馬超を攻撃していた。
無自覚の言葉に傷つけられながら、それでも馬超は雪鳶の前に座っていたのだ。

「……謝らないわよ。あの男が私にしたことと私が馬超にしたことは全然違うもの。自覚の有無という点で、決定的に違うわ」
「謝ってくれなんて言ってないだろう」
「状況がそう言ってるのよ」
「……これは脈無しだな」
「ええ、今は無理。絶対だめ。考えられない。何に対してかは自分でもよくわからないけど、私今すごく怒ってるし」

だろうな、と馬超は肩を竦め、近くを通りかかった店員に酒代を支払った。
今後どうなるかはわからないが、いずれにせよ今夜は新たな展開はないはずだ。

当たり前のように馬超に支払わせた雪鳶はさっさと立ち上がって店を出て行こうとしている。

誘ったのは雪鳶で、当初の話の内容を考えても酒代は雪鳶が持つのが筋だが、おそらく今はそこまで頭が回らないのだろう。
おかしな奴だと笑いながら、馬超は怒れる背中を小走りで追った。

「足元ふらついてるぞ」
「うるさいな」
「そうやって勝手に怒ってろ」

水路を水が流れるさわさわという音が夜の静けさに響いている。
少し前を歩く雪鳶の足音は不揃いで、千鳥足一歩手前といったところだ。

(嫁入り前の女の振る舞いじゃないな)

そんな彼女から目が離せない。
野の花のように風に流されて言うことを聞いてしまうような大人しい女の方が扱いは楽だし、そういう女の方が好みであったはずなのに。

不意に「あっ」と小さな悲鳴を上げて雪鳶の影が崩れ落ちた。
段差に気づかず躓いてしまったらしい。

「ほら、言わんこっちゃない」

すぐそばまでやって来た馬超が手を差し出したが、雪鳶は尻をついたまま無言で馬超を睨みつけている。
どうやら足首を軽く痛めたようだ。
それでも馬超の手を借りるのが癪で唇を尖らせている様子は、ほとんど子供だった。

「……へそを曲げるのも大概にしろ」
「…………」
「仕方のないやつだな……ほら」

馬超が雪鳶に背を向けてしゃがんだ。
振り返り肩越しに「負ぶってやる」と言うと、雪鳶は眉を釣り上げた。

「冗談きついわよ」
「そんなこと言ったって家まではまだあるぞ。歩けないんだろう」
「……這っていく」
「馬鹿言うな。ほら、早くしろ」

子供に言って聞かせるように促すと、ようやく雪鳶は渋々といった様子で馬超の背に覆い被さった。
雪鳶の腕が首に巻きついたところで、馬超は「よっ」と立ち上がる。
酔いの回った雪鳶のからだはすこぶる熱かった。

他に人影のひとつもない夜道、雪鳶を背負った馬超がゆっくりと歩いていく。

しばらく会話もないまま歩き、ふと馬超が星空を見上げた時、背中の雪鳶が蚊の泣くような声で呟いた。

「ひどいよ」

え? と馬超は振り返ろうとしたが、雪鳶のからだが小刻みに震えているのに気づき、慌てて顔を前へ戻した。

(泣いているのか)

意外だった。

雪鳶のような女が泣くというのがまず意外だったし、それ以上に、彼女が馬超のために涙を流しているという状況が心底意外だった。

何とも思っていないはずの馬超のことで雪鳶の心が千々に乱れる、その事実がひどく不思議だ。

「どうしてそんなひどいこと言うの?」
「そんな……?」
「私のこと好きだなんて、ひどいよ」
「……そうまで嫌がられては、いよいよ立つ瀬がないな」
「だって……だって、一度『好きだ』と口にしてしまったら、それ以前には決して戻れないんだよ」

それはきっと数々の経験のなかで雪鳶が学んだことだったのだろう。
簡単なひと言で済ませてしまえばこれほど楽なことはないのに、様々な不安のために皆七面倒な回り道や駆け引きを選んだりする。

言うなれば、馬超はそれらを一足飛びで端折ってしまったのだ。

「明日から、今まで通りに馬超と接することなんてできないよ……」
「……俺は努力するから、お前も努力してくれ。努めて今まで通りに振る舞うと」
「わかってないのね……馬超、あなた私から一番の男友達を奪ったんだよ。何でも話せる、大事な友達だったのに」

ああ、そうなのか。
馬超はふと遠い眼差しを浮かべた。

大人の女としての魅力を振りまく雪鳶は、馬超の前でだけ少女であったのだ。
異性の前でも無邪気で気儘に振る舞ういたいけな少女。
今夜、雪鳶は己のなかに僅かに残っていた少女の破片をついに手放した。

「欺瞞だ、それは」

馬超の口から静かに零れた言葉に、雪鳶はぐっと呑み込んだ。

その指摘は残酷なほど的確だった。
人はいつまでも子供のままではいられないし、永遠に変わらないことなどできないのだから。

不意に背中の重みが軽くなったような気がした。
大人の女ではなく、まるで小さな女の子を背負っているかのような重み。

居もしない自分の小さな娘を背負っているかのような錯覚に浸りながら、馬超はゆっくりと歩き続けた。



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