■ 紺碧の風

関ヶ原の決着について報せを受け、家中は大いに沸き立った。
この家の主もまた東軍方について参戦し、まずまずの働き、戦後に内府様から直々にお言葉を頂戴したとのことで、国許の本邸は下男下女に至るまでお祭り騒ぎである。

離れにある自室で落ち着かなく襟を掻き合わせている雪鳶の耳にも喧噪は届いていた。
正室のところへは祝い客がひっきりなしに訪れていることだろう。
あとで雪鳶も彼女の部屋へ言祝ぎに参上しなければならないが、留守居の家臣たちや女中の好奇の目に晒されると思うと億劫で仕方がない。
彼らがそんな目をつくるのも、夫が勝ち馬に乗ったにもかかわらず雪鳶の周囲は水を打ったようにしんとしているのも、すべては雪鳶が秀吉の養女だったからであった。

豊臣麾下の大名家に生まれた。
ともに織田家臣団の一員であった頃からの付き合いであった父と秀吉の力の差は既に歴然としたものになっていたが、そこが「人たらし」たる所以というのか、秀吉は雪鳶の父のことも丁重に扱い、雪鳶が生まれて数年経つと養子に迎えてその縁を濃いものにした。

秀吉夫妻の開けっぴろげな人柄のせいで、幼少期の自分は天真爛漫に振る舞っていたと雪鳶は思う。
人生で最も幸福だった時代だ。
同じような身の上の養子は他にも大勢いて、夫妻は雪鳶のことも彼らと同じように血肉分けたる親子の姿勢で可愛がってくれた。
箱庭の世界で、雪鳶は王女だった。

活発でお世辞にもおしとやかとはいえない性格の雪鳶だったが、十歳を過ぎた頃、庭の木から落ちて足を挫くという事件を機に打って変わって大人しい娘になった。
怪我をして動揺したせいもあるが、激怒した秀吉が雪鳶の侍女を斬ろうとしたことで雪鳶が自分の言動の責任を自分でとることの許されない立場にあるという事実を初めて理解したためだった。
雪鳶がねねに泣きつき、ふたりして秀吉に懇願したので沙汰は取りやめになった。

ようやく娘らしくなった雪鳶を見て秀吉は大いに満足したようだったが、実のところ雪鳶の利かん気は表に出なくなっただけで相変わらず白い肌の内側を満たし、以前と違って押し黙ったまま頑固を突き通すという態度に侍女たちは随分手を焼いたようである。

娘盛りになった時にも、儒学の教師として来ていた僧が嫌いだとごねて、頑として会おうとせず周囲を困らせたことがあった。
見かねた秀吉に呼びつけられ何故そうも嫌うのかと問われ、雪鳶は思いつく限りの理由を並べ立てた。
日頃から何故あの僧がこうも自分を不快にさせるのか客観的に分析し、頭のなかで心のことを整理していた雪鳶の弁舌はまったく淀みなく、その内容のくだらなさを除けば実に歯切れよく爽やかですらあったので、秀吉はかえって面白がって喜んだ。

とはいえ女といえども多少の教養もないまま嫁には出せないと秀吉も頭を抱えたが、偶然そこへ三成が訪ねてきたと聞くなり彼を膝元へ呼び寄せ、下城する前に雪鳶に勉強を教えていけと命じたのだった。
むろん三成は自分の仕事ではないと露骨に嫌がったが、端から思いつきでしかない案だけに秀吉も軽い調子で辞退を却下した。

事態が予想外の方向へ転がって慌てたのは雪鳶である。
三成の顔は何度も見たことがあるが、挨拶以上の会話をしたことは然程ない。
あまり好かれていないような気がしている。

ただ、雪鳶の方は三成の姿を見かけるたびに胸の奥に痛いような感覚が生まれる。
婦人の嗜みとして畳二枚を挟んだ距離に座っていても三成の息遣いに怯えてしまう。

案の定雪鳶は三成の前で簡単な問いを何度も間違え萎縮し、ついには顔を手で覆って三成に背を向けた。
三成は辟易した様子で本を伏せた。

「そんなに嫌われるとさすがに俺も滅入ります」

見当違いの三成の言葉に雪鳶は驚いた。
しかし雪鳶の態度だけを見れば三成がそんな勘違いをしたのも無理はなかろう。

「三成殿のことを嫌ってなどいません」
「では何故そうお顔を背けるのです」
「恥ずかしいので。庭の楠から落ちた時のことを思い出して」
「くすのき?」

数拍の間を要してから三成はようやく雪鳶の言っていることを理解したようだった。

数年前、侍女たちの目を盗んで楠に登り足を踏み外して落ちた雪鳶を発見したのは、偶然秀吉を訪ねてきた三成だった。
茂みから覗く小袖の裾を訝しんで歩み寄った三成は、倒れて動けなくなっている雪鳶を見つけると躊躇わずに抱え上げ、珍しく大声をあげて人を呼びながら屋敷へ運び込んだ。

駆けつけた医者と交代するように静かに退出するまで、雪鳶が三成に声をかけられず礼すら言えなかったのは、挫いた足の痛みのせいではなかった。
足の痛みは日ごとに薄れていったが、入れ替わるようにその頃から胸が痛むようになった。

「まだいとけない頃のお話ではありませんか」

もう何年も経つというのにまだ引きずっているのか、という顔をしている三成に、雪鳶は胸のなかで

(鈍感)

と毒づいた。

鈍感というのは、形をかえてすべての男が患っている宿痾なのかもしれないと雪鳶は思った。
雪鳶にとっては優しい養父である秀吉も、一方で手当たり次第に女に手をつけてはねねを煩わせている。
ねねが「困ったひとだね」と笑うのを、本気で信じているのか。

「あのようなこと、気にも留めていません。もっとお小さい頃には馬に乗せてさしあげたこともあるではありませんか」

養女になって間もない頃の話だ。
皆で野遊びに出た時に、秀吉に言われて三成が雪鳶を前に置いて馬に乗せてくれた。
三成は今より線が細く、肌の色白さが浮かび上がるような青年だった。
あの腕に抱かれ、胸板にぴたりと触れても無邪気に笑っていられた頃が雪鳶は懐かしくてならない。

「近頃、またああやってお馬に乗せてほしいと思うことがあるの」
「いつお輿入れなさってもいいお歳でいらっしゃるのにそのような……」

言葉が途切れたのは、さすがの三成も雪鳶の言わんとしていることを察したためだろう。
気づくのが遅い、と雪鳶は三成から顔を背けたまま唇を噛んだ。
顔を戻して恨めしげな眼差しを向けると、三成は無表情で座っていた。
動揺しすぎると顔色の消えるたちらしい。

しばらくすると三成はようやく「そのような言葉で臣下を惑わしてはいけません」とたしなめた。
ならば三成は「惑わされた」ということではないかと雪鳶は思ったが、それを口にするほど世慣れてはいない。

雪鳶は静かに本を開いた。
その様子に三成は安堵の色を浮かべ、講釈を再開した。

三成の動揺を見て、自分が三成に対してまったく影響を及ぼさない存在ではないと知ったためか、雪鳶の心は不思議と落ち着きを取り戻している。
低くはないが張りのある声が述べている内容も、砂に染みこむ水のように心に浸透した。

終いまで読み終えると、三成は「如何ですか」と手応えを尋ねた。

「わかりやすく、初めて面白いと思えました。いつも三成殿が先生に来てくれればいいのに」

すると三成は「それはまずいのでは」とほんの僅かだが苦笑のような表情を浮かべた。
それが嬉しくて、雪鳶は紙の端を指で弄りながら上目遣いで三成を見た。

その時本来臆病なメジロが珍しく濡れ縁までやってきて、

「まあ、可愛らしい」
「ああ、珍しいですね」

という会話を挟んだせいで雪鳶はふと注意が緩んだのか、三成が

「何か他にお尋ねになりたいことは」

と言ったのに対し、うっかり

「好きな色」

と口走った。

すぐにはっとして目を三成に戻すと、三成は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
勉強の不明点を問われたのに個人的な質問をしてしまった雪鳶は顔から火が出そうになった。

これは冷笑を食らう、と消え入りそうになっていたが、どうしたことか三成の方も顔を赤くし、畳を見下ろしたまま押し黙っている。
これならばいっそ「くだらぬことを訊くな」と一蹴された方がどれだけましかわからない。
額に手をあてた雪鳶は、狼狽えながら「忘れてください」とか細い声で懇願した。

「紺碧」

雪鳶は閉じていた目を薄く開けた。
少し遅れて手を下ろし、信じられないものを見るような眼差しを三成へ向けた。

「よく晴れた日の……鳰(にお)の海の色です」

雪鳶は息を呑んだ。
東国で生まれ、養女として豊臣家に入った時秀吉は既に長浜を出て大坂を拠点としていたために、雪鳶は琵琶湖を目にしたことがない。

「いつか……いつか見てみたいものです」

三成の幼少期を包んだという琵琶湖を渡る風を、いつかこの肌で感じてみたかった。

秀吉の胸にも雪鳶を三成に娶せるという考えがなかったわけではないようである。
実子には晩年まで恵まれなかったものの養子たちの殆どに対しては子煩悩で接した秀吉にとって、その少年期からをよく知っている三成と雪鳶を夫婦にするというのは親の心情としても満足であったし、家臣団との繋がりを盤石にしておく一手としても極めて有効だった。

豊臣家と縁が深く、海外出兵の主力であった西国大名たちが嵩んだ戦費に疲弊気味になってきたために、東の家康の力を警戒した秀吉が東国に雪鳶を嫁がせることを決めた時、「申し訳ないが」という言い回しで雪鳶に切り出したのが、彼の頭に三成という案があったことを暗に示している。

むろん雪鳶に断る道はなかった。
嫁ぎ先へ向かう花嫁道中の先導役に三成をつけた秀吉の狙いは今となってはわからない。

雪鳶が三成に会ったのは、亡くなる直前の秀吉をその頃彼が居城としていた伏見城で見舞った時が最後だ。
既に京・大坂は天下の行方を見定めんとする諸大名が日夜蠢く場所となっており、夫が雪鳶に養父を見舞うことを許したのも、家康に接近しつつまだ豊臣方にもいい顔をしておきたいという狙いがあったからだろう。
雪鳶が秀吉と会っている間にも、付き添いの家臣たちは諸大名家と探りを入れ合っていたに違いない。

秀吉を見舞い、死が確実に彼を包み込みつつあることを確信した雪鳶は、帰りしな、その伏見城の廊下で三成と擦れ違った。
秀吉の死とそれが引き起こす混沌が頭に充満していたらしい三成は、はじめ雪鳶の姿を見ただけでは何の反応も示さなかった。
が、すぐに一礼して脇へ避け、腰を下ろして雪鳶が通り過ぎるのを待とうとした。

懐かしい顔を見て感慨に噎せ返りそうになった雪鳶はそのまま立ち去ろうとしたが、思い切って振り返ると三成に声をかけた。

「暑くて喉が渇いてなりません、茶を頂けませんか」

一瞬ほうけたような顔をした三成だが、すぐに「持たせます」と会釈した。

「それと、お尋ねしたいことがあります」

廊下の奥に人があったので、努めて冷たい口調で言いつけた。
は、と頷きつつも怪訝な顔をする三成を捨て置き、雪鳶は北向きの一室に入りひとり座して待った。
襖が開き、はっと顔を上げたが茶を手にした女中が頭を下げていた。

随分待たされたはずだ。
障子紙を通して差し込む光がやや金色を帯びてきた頃、再び襖が静かに開いた。

相変わらず無表情の三成は襖を閉めるとその前に腰を下ろした。
自分たちの立場を考えると、その距離がよいのだろうかと雪鳶はふと考えた。

しばらく互いに無言のままであったが、先に痺れを切らしたのは三成の方だった。

「それで、お訊きになりたいこととは」

秀吉のことか、或いは今後のことであろうと三成は踏んでいる。
実際それらのことは雪鳶の身にとっても極めて重要ではある。
ただ、知ったところで「身の振り」に活かせるわけではない。
雪鳶の力が及ぶ範囲など、せいぜい婚家の奥向きだけだ。

雪鳶はやっと微かに笑みを浮かべ、小さな声で言った。

「鳰の海は、まだ紺碧でしょうか」

祈るような思いで畳の目を見つめたままじっとしている雪鳶の耳に、少し経ってからやはり抑えた声が届いた。

「今も、昔とかわらず紺碧です」

ああ、と声を漏らしそうになるのを雪鳶は必死で堪えた。
三成の心はまだあの頃と同じ色をしている。
未だ嗅いだことのない琵琶湖の風が雪鳶の襟足を撫でていったような気がした。

三成と交わした言葉は殆どそれだけだ。
すぐに雪鳶は退出し、妙な噂を呼ぶことを避けて三成は見送りに出なかった。

それから間もなくして秀吉が亡くなり、いざ正面衝突の際には東に与すると決めた雪鳶の夫は家康の周囲と縁組みして雪鳶を側室に格下げした。
夫との間に深い情があったわけではない雪鳶は別段悲しくも思わなかったが、このことを聞いた三成はきっと胸を痛めるだろうと気の毒になった。
それも、大事の前の小事ではあろう。

戦勝の報せに沸く母屋の賑わいをよそに、雪鳶は三成に講釈を受けた箇所を読み返しながら大坂での日々を思い出している。
この生涯に恋らしき出来事があったとしたら、それはきっとなにわのことであった。

家康に敗北した三成がどうなったのかまではまだ伝わってこない。
いずれにせよ生き存える道はないだろう。
むしろ三成にとってはこれでよかったのかもしれぬという気がしてならない。
清廉な理想家にこの世はあまりに相応しくない。

琵琶湖は、今日も紺碧に輝いている。



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