■ 笛の音

近頃司馬懿の屋敷からは時折笛の音が洩れ聞こえるようになった。
音色はふたつで、片方は緩急強弱の別も見事な名人といっていい腕前。
もう片方は音程も危なげで、しょっちゅう黙り込む。

先頃司馬師が笛を習い始めたのだ。
まだ幼い子とはいえ男として大成するのに楽器の嗜みなど不要というのが司馬懿の意見だったが、男といえども風流を解する心は社交界において必要不可欠と妻に押し切られて先生を呼ぶことになった。

司馬師も満更でないと見えて、いつもきちんと準備を調えて先生を待ち、稽古のない日も自主的に練習をしている。
はじめは「女のようなことを」と疎ましく思った司馬懿だが、子供が熱心に励み少しずつではあるが上達をしていくのを見るのは悪い気分ではない。
むろん、書斎に籠もって仕事をしている時などに下手な音色が聞こえればつい怒鳴ることもある。

それに、これは当然家族には秘密のことだが、司馬師の先生がやってくるのをどこか心待ちにしているというのも好い加減否定できなくなっている。

妻が見つけてきた笛の師匠は名を雪鳶といって、いかにも音曲を好みそうな、肌の白い、まだ若い女である。
一度は嫁いだが程なくして夫を喪い実家に戻ったもののその頃には家勢が衰えており、つまらぬ相手に嫁がされるならばと思い切って演奏師のところへ弟子入りしてしまったという。
下地がお嬢さん育ちであるためか、「女流○○」にありがちな気難しそうなところがなく、どちらかといえばおっとりした人柄であった。

練習中の部屋をこっそり覗くと、いつも雪鳶は司馬師を上座に座らせて稽古をつけている。
家格の上下はあれど笛の道においては雪鳶が先を行くのだから彼女が上座に座ってもよいものを、生まれついての芸術家でない雪鳶はそれを好まぬらしい。
司馬師の指先を見つめる雪鳶の横顔は真剣で、それだけに一層幼く見え、事情を知らぬ者が見れば姉が弟に稽古をつけているようかもしれなかった。

司馬師は勿論のこと、司馬昭も稽古の終わりなどによく彼らの間に入って戯れ、むろん妻も何かと遣り取りをしているが、自分だけが雪鳶と接触を許されないのが最近の司馬懿にはひどくつまらない。
別に妻は悋気をおこして司馬懿を遠ざけているわけでなく、むしろ妹か姪のように可愛がっている雪鳶を夫から守ろうとしているようにすら見える。
先日雪鳶が指導のために司馬師の手をとったところを垣間見てむっとするような感覚を得た時は、さすがにどうかしていると司馬懿自身思った。

或る日のこと、書斎で書き物をしていた司馬懿は使用人に呼ばれて顔を上げた。
雪鳶が稽古の道具を持ってやってきているという。

それを聞いて司馬懿は困惑した。
稽古の日取りについて行き違いがあったのか、妻と子供たちは朝から親戚の家へ行ってしまっている。

あいつらめ、と溜息を吐いた司馬懿は席を立って応接間へ向かった。
わざわざ訪ねてきたものを、肝心の生徒が不在なのでまた後日来てくれと使用人の口から伝えて追い返すのは、いささか礼を失するというものだ。
考えてみれば雪鳶と挨拶以外の会話をするのはこれが初めてだということに気づき僅かな緊張を覚えつつ、司馬懿は応接間に顔を出した。

雪鳶は道具を膝に抱いて椅子に腰掛けていた。
少し待たされたせいか「何かあったのだろうか」と落ち着かない顔をしている。
出てきたのがこの家の主人だと知ると、一層当惑の色を浮かべた。
立ち上がりかけた雪鳶を手で制し、司馬懿は向かいに腰を下ろした。

「あー……何だ、ええと……今うちの者は皆出払っておりまして」
「まあ……」
「ええ……あ、お茶でも」

女中が運んできた茶と菓子をすすめられ、雪鳶は恐縮した様子で茶碗に手を伸ばした。

「元はといえば私が次のお稽古を今日へずらして頂くようお願いしたのです。その日に母が訪ねてくることになったので」
「あ、お母上が。それは大事な日で。しかしそれを忘れて無駄足を踏ませるとは、あとで妻と息子をきつく叱っておきましょう」
「いえ、いいのです。奥様にはいつもとても良くして頂いてますし、坊ちゃまも大変熱心に練習しておられます。たまには、こういうこともあるというものです。私ちっとも気にしません」

少し慌てた様子が愛らしい。
雪鳶が誰かを咎めるような話を嫌がったので、それで責任の追及はやめにして、話題は司馬師の稽古のことに移った。
あれも存外芸事が嫌いではないようだ、と司馬懿が言うと、雪鳶は「つい」といった感じで笑いを零した。

「何です」
「いえ……ごめんなさい、司馬懿様は本当にお子様のことを大事に思っていらっしゃる」
「そんなこともありませんが」
「だってお稽古中に時々坊ちゃまを心配して覗いていらっしゃるでしょう」

それを聞いて司馬懿は顔から火が出る思いがした。
ばれないようにとこっそり覗いていたが、まさか気づかれていたとは。
しかし垣間見の目的が息子でなく雪鳶の方にあるとはさすがに知られていないようで、司馬懿は冷や汗を掻いた。

「司馬懿様は音楽をなさらないのですか」

多少打ち解けてきた様子の雪鳶に訊かれ、司馬懿は首を横に振った。

「私はそういうのは」
「お教えしている方のなかにも殿方はいらっしゃいますよ」
「男にも教えるのか」
「ええ」

事もなげに雪鳶は頷くが、たとえ師弟でも男女が密室で過ごすというのは司馬懿も内心穏やかでない。
一方で、自分も教えを請えば雪鳶と二人きりで過ごせるのかという出来心も鎌首をもたげつつある。

「試しにお吹きになられますか」
「なに」
「お稽古用の笛をいつも余計に持っているのです」

そう言って雪鳶は包みを解いて笛を取り出した。
宴席で見るような華麗な装飾の施された笛ではなく、如何にも練習用の簡素なつくりだ。
こんな戯れに付き合うなど自分でもどうかしていると司馬懿は思うが、それでも自分の笛を構えた雪鳶の見よう見まねで唇をつけてみる。
試しに息を吹き込んでみれば気の抜けた音が出たので、雪鳶は嬉しそうに笑った。

どうやら若い女の悪戯だったようだ。
素人がそう簡単に安定した音色を出せるわけがない。
司馬懿は決まり悪げに笛を下ろした。

「意地の悪いことをなさる」
「そんなつもりでは。あの、中指をこう……、」

雪鳶が向かいから手を伸ばしかけ、眼差しで

(触っても?)

と尋ねた。
普段は他人に気安く触れさせない司馬懿も、今は下心もあって拒まない。

「もう少し上……薬指はこの位置です。はじめは力を入れるのが難しい指ですが」

司馬懿の指をとって位置をあわせていく雪鳶の顔は打って変わって真剣である。
手元に熱中しすぎたのか、腕を伸ばすのをやめて立ち上がり、卓を回り込んで司馬懿のそばにやってきた。
中腰になって司馬懿の手元……そしてそれは口元でもあるのだが、熱心に覗き込んでいる。

あまり近くで喋るので、司馬懿もつい出来心をおこして雪鳶の靴を掬い上げるように軽く蹴った。
隙のある体勢を取っていた雪鳶はそれだけで「あっ」と蹌踉めき、堪えきれずに司馬懿の胸に飛び込んだ。

「失敬。脚が掛かってしまった」

雪鳶を抱き留めながら司馬懿が詫びた。
腕の付け根は随分細く、掴んだ司馬懿の指が一周してしまいそうなほどだ。
はじめ素直に「大変失礼を」と謝りかけた雪鳶だったが、腰のあたりで司馬懿の手が不穏な動きを見せたので身を硬くした。

何をなさるのです、と喘いだ雪鳶に、司馬懿は糸くずを摘んだ指を見せて「ついていたので」とそれをすぐに屑籠へ放った。
束の間のことだったので雪鳶には糸くずの色すらわからない。
本当は司馬懿自身の袖から落ちた糸くずで、あとで捨てようと放っておいたものだ。
呆然としている雪鳶を眺めつつ、こんな技術ばかりが長けて己も歳を喰ったなあと司馬懿は思うのだった。

「ご無事かな」

司馬懿の声で依然彼の膝にのっていることに気づいた雪鳶は、慌てて身を引いて頭を下げた。
ぴょんぴょんと遊びながらやっと足元に寄ってきた小鳥を、不用意に動いたせいで驚かせ逃がしてしまったような感覚を抱きつつ、司馬懿は笛を雪鳶に返した。

不意に玄関が賑やかになった。
どうやら妻子が戻ったらしい。

「ああ、ようやくか。まだ明るいが、稽古をつけていかれますかな」

道具を片付けていた雪鳶は「え……?」と目を持ち上げ、それからすぐに「いえ……」と伏せた。
まとめた道具を胸に抱いて立ち上がり、玄関に向かう素振りを見せる。

「少し熱っぽいので、これでおいとま致します」

覚えず使ったらしい直接的ともいえる言葉に、司馬懿は胸を掻き乱されるような思いがした。
あと半時家の者の帰りが遅ければこの場で組み敷いて八つ裂きにしていたところだ。
そう考えると、今彼らが帰ってきたことはむしろよかったのかもしれない。

「お見送りを」

雪鳶のあとを追って廊下に出ると、雪鳶は司馬懿の顔を見て狼狽え、振り返って妻子の姿を見て狼狽えたので、存外小鳥はまだ逃げてはおらぬのかもしれぬと司馬懿は考えた。



BACK
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -