稲妻11-Thanks! | ナノ


 夕食の時間になってもエドガーが見当たらない。一時間ほど前に今日の練習を終えて、みんな揃って宿舎に引き上げたはずなのに、チームで一番目立つはずのエドガーだけがいない。みんなで宿舎内を探したが、どうにも姿が見えないのだ。

 どうやらエドガーが行方不明だということを、アーロン監督に知らせに行ったのはフィリップである。
「部屋には?」
「いませんでした」
「浴場や手洗いには?」
「いませんでした。建物内には、いない気がします」
「ならばフィリップ、お前が外を見てきなさい」
「はい、わかりました」
 同じフォワードというポジション柄、そして代表に選ばれる前からの長い付き合いもあり、フィリップはエドガーの世話を任せられることが多い。こんな風に監督に指名される予感があったから、チームメイトの二度手間を省くために、フィリップは自ら報告の役目を請け負ったのだ。
 矜持の高いエドガーは、何かと一人で背負い込みがちなひとだから、焼かせてもらえる世話なら役目を買って出たいくらいだ。要するにフィリップはエドガーのことが心配で仕方がなかった。


 ――エドガーはきちんとしているように見えて、事実かなりきちんとしているのだが、時たま周囲が目を剥くほど自身に対して無頓着になる。つまり自分の身体を大事にしない。限界を無視した無茶な練習をして、糸が切れたように倒れたりする。
 キャプテンなどという役目を任される生き物は大抵そうだ、とフィリップは思っているが、エドガーには特にその傾向が顕著に現れている気がする。華々しいプレイとは裏腹に、悩ましいくらいひたむきで、愚直なほどに禁欲的だ。世の中には克己という言葉があるけれど、律するのは精神の堕落だけで、なにも肉体の限界にまで厳しくしなくてもいいと思う。
 エドガーが倒れたと報せがある度にチームメイトがどれだけ肝を冷やすのか、フィリップたちがどんなに歯痒い思いをするのか、フィールドの外では存外に視野が狭いエドガーは、そこまで頭が回らないのだろう。
 無論エドガーに悪気はない、だからこそ質が悪いのだ。


 日はすっかり暮れていた。南の空に浮かぶ星は母国のそれとは並びが違う。ナイター設備に照らされたグラウンドには、一見エドガーの姿は見当たらない。
 しかしよくよく辺りを見渡すと、幾つものボールが転がるゴールの前に、何かが倒れている。ユニフォーム姿のままのエドガーだった。細い長身が地面に大の字になってぴくりとも動かない。まさかまた気絶したのでは、とフィリップは青ざめて、慌ててエドガーに駆け寄った。
「エドガー…!」
「ん…、フィリップ…か…」
 幸い肩を揺すっただけで目が開いたので、寝ていただけと分かってほっとする。大分くたびれてはいるが顔色も悪くはない。
 それにしても居残ってどんな練習をしていたか知れないが、人目も憚らずグラウンドの真ん中で眠ってしまうなんて、エドガーが相当疲弊している証拠だった。砂埃を被った蒼髪を目にして、フィリップには苦い思いが芽生える。エドガー自身の身体といえど、こんなぞんざいな扱いはあんまりだ。
「もう、今日は帰りましょう。みんな待ってます」
 フィリップはエドガーの骨ばった肩を抱いて、諭すように帰還を促した。これ以上の練習は身体に悪い。過ぎたる負荷は逆効果だ。この場に誰の目があったとしてもそのことは明らかなのに、フィリップの喚起にエドガーは大人しく従わない。
「いやまだだ…まだ、練習しなくては」
 無茶をしていることは本人も十二分にわかっているはずなのに、エドガーは起き上がってすぐにゴールに向かおうとする。ふらつく足元が危なげでとても見ていられない。
 まるで自分の身体を顧みないエドガーの態度に、フィリップの胸に怒りが込み上げてきた。先日もエドガーが倒れた際に、自分やチームメイトがどれだけ心配したことか。この人は何も分かってくれていないと思うと、苛立ちが沸々とわき上がる。
「…エドガー」
 名前を呼んでも反応しないエドガーの肩を掴み、こちらを無理やり振り向かせる。不満げな表情を繕いもしないエドガーの横顔を、フィリップは利き手で一発ひっぱたいた。夜のグラウンドに頬を張る音が高らかに響いた。

「……っ…」
 エドガーは倒れこそしなかったが、二、三歩後ろによろめいて、それから自分を叩いたフィリップの顔を呆然と見つめた。エドガーの傷ついた眼差しにフィリップの胸もずきりと痛む。頬を叩いた手のひらがじんじんと痺れた。幼なじみである二人の付き合いは長いけれど、フィリップがエドガーに手を上げたのは、この時が初めてだった。
 フィリップにも罪悪感は勿論ある。しかしエドガーの目を覚まさせるためには、手を上げるのも止むを得ないと思ったのだ。
「あんた、馬鹿でしょう」
 怒鳴りそうになるのを堪えて、努めて淡々とフィリップは話し始める。日本代表に敗北してからというもの、まるで自分を責めて追い込むように厳しい練習に没頭するエドガーに、本当は、言ってやりたいことが山ほどあった。押し留めていた言葉が堰を切って溢れ出す。
「サッカーは何人でするスポーツだと思ってるんですか?一人でしたいならテニスにでも転向すればいいですよ」
 母国の期待を一身に背負う身として、敗北は許されないという気持ちはわかる。しかしエドガーのそれはまるで、自分で自分を追い込んで、無理やり罰を与えているようで、フィリップとしてはとても見ていられない。
「負けた試合も勝った試合も、オレたちは一人じゃなかったでしょう?勝利は分かち合うものと教えてくれたのはエドガーなのに、どうして敗北を一人で背負い込もうとするんですか」
「それが、チームを率いるキャプテンであるわたしの責任だから…」
「敗北に責任が伴うなら、それはエドガーだけのものじゃない」
 自分自身を過剰に責めて、心も身体も傷付いていくエドガーを見るのが辛かった。切っ掛けの一端を生み出した己の不甲斐なさを呪いすらした。エドガーは負けたことも自分だけの所為にして、一人で全てを抱え込もうとする。フィリップにはそれが許せなかった。
「オレたちはそんなに頼りないですか?」
 ――自分たちではエドガーの支えにはなれないのかと。
 フィリップだけではない、チームメイトの誰もがキャプテンの焦燥を憂い、傷んでいたというのに。フィリップは唇を噛んだ。エドガーに頼ってすらもらえない自分に嫌気が差す。
「違う、そんなことはない…そうではないんだ」
 エドガーは狼狽えながら首を横に振った。そして何かを言い掛けては唇を引き結び、目を伏せて、考え込む素振りを見せる。言葉が纏まらず困っているようだった。身体の真横で握り締めた手のひらが小さく震えている。きちんと話そうと努力するエドガーが落ち着くまで、フィリップは黙って待っていた。

「頼りないのは…わたしだ…お前たちの信頼に応えたいのに、上手くできない…」
 長い逡巡の後で吐かれた言葉は、ナイツオブクィーンが結成されて以来、エドガーが初めて口にする本音だった。
 ――向けられた期待に応えるのが、長らくエドガーの使命だった。ファンからも、チームメイトからもそうだった。彼らのを裏切るわけにはいかなかった。
「キャプテンのわたしが応えねばならないのに」
 一度敗北を経験してしまうともう駄目だった。自分で自分を保てない。これまで積み上げてきた一切が、足元からガラガラと崩れ落ちていった。何をしても存在が希薄になる気がして怖かった。練習を重ねれば取り戻せるのではないかと思って無茶をしていた、そうせざるを得なかった。
「こんなわたしは、キャプテン失格なのだろうな…」
 自嘲気味に微笑ったエドガーを、フィリップは一喝した。
「有り得ません!」
 フィリップも必死だった。何かと言えば後ろ向きになりたがる今のエドガーを、説得して納得させたかった。
「オレは勿論他のメンバーだって、あんたを見限ったり失望したりすることはありません…オレたちはあんたの仲間なんだから」
 フィリップの手がエドガーのそれを捕らえた。今では、フィリップの方が酷く震えて冷えていた。
「エドガーがオレたちのキャプテンなんです」

「フィリップ…」
 エドガーは意外なものを前にしたような表情で、フィリップを見つめて呟いた。
「そうだ、わたしは何を失念していたのだろうな…わたしはずっと一人ではなかったのに…」
 エドガーの瞳に光が戻る。
「わたしには支えてくれるお前たちがいる」
 その顔に穏やかな微笑が戻ったのを認めたフィリップは、エドガーに一つ誓いを求めた。
「エドガー、約束してください。もう二度と、こんな無茶なことはしないと」
「わかった…約束しよう」
「絶対ですよ?」
 念を押して再度エドガーを頷かせたフィリップは、にこりと満足げに笑ったかと思うと、エドガーの目の前で自分の頬をグーで思いっ切り殴りつけた。
「…っ…いったぁ…」
 先ほどの平手打ちとは比べものにならない鈍い音がした。強くやりすぎたとフィリップが何事かぼやいているものの、エドガーは驚愕で言葉もない。硬直してしまった表情を見てフィリップは苦笑すると、エドガーの強張る頬に手を当てて、少しだけ熱を持ったそこを出来る限り優しく撫で上げた。
「エドガー、さっきは叩いてすみませんでした」
 はにかんだフィリップの謝罪を受けて、ようやくエドガーに意識が戻る。それと同時に目の奥に熱いものが込み上げた。
「…フィリップ…」
「わっ、なんでそこで泣くんですか」
 みっともないと思うのに涙が溢れて止まらなかった。自分を思うフィリップの気持ちが痛いくらい伝わってきて、申し訳なさと嬉しさで前が見えなくなる。こんなとき、どんな表情をしてどんな反応をすれば良いのか、エドガーにはわからない。わからないけれど、この言葉だけは言えた。伝えたいと思った。
「ありがとうフィリップ…」
 触れてくる手のひらの温もりに頬を寄せ、エドガーは少しの間だけ感傷に甘えた。



 宿舎に戻るまで二人は手を繋いで歩いた。
 幼い頃はこうしてフィリップが、エドガーの手を引いて屋敷まで帰ったものだ。いつからか、自分がエドガーの背を追い掛ける立場になっていた。久しいこと忘れていた感覚だが、繋いだ手のひらはあの頃と変わらず温かい。
 宿舎に戻ったら赤く腫れた頬に関して、きっと何か言われるだろうと思ったが、そんなことはもうフィリップは気にならなかった。夜のグラウンドでエドガーが吐き出した弱音を知るのは自分だけでいい。この頬の痛みは二人だけのものでいい。

「フィリップ」
「なんです?」
「その、お前はどうしてそんなによくしてくれるんだ?」
 フィリップは思わず立ち止まってエドガーを見た。エドガーがこっくり首を傾げる。このひとは本当に気付いていないのだろうか。純粋な疑問だけを映す瞳が無垢すぎて、いっそ罪深いほどである。フィールド外の視野の狭さはこんなところにも現れるのかと、フィリップはしみじみと考えさせられてしまった。
「そんなの、決まってるじゃないですか。あんたがオレたちの誇りのキャプテンで、」
 ならば分かり易い形でエドガーに教えてやらねばなるまい。ぐいと引き寄せた手の甲にフィリップは恭しく口付けた。

「オレだけの大切な愛しいひとだからですよ」

 フィリップが上目遣いで見つめたエドガーは、キャプテンらしくも英国紳士らしくもなく、年相応のあどけない恥じらいを高揚する頬に浮かべていたということだ。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -