稲妻11 | ナノ


 エドガー・バルチナスは非常に倦んでいた。手のひらに吐き出したばかりの欲望の残滓を呆然と見つめる蒼い瞳は、熱の余韻潤みながら現実を冷静に映し出している。
 真に忌まわしきはあの男――マーク・クルーガーに不本意に抱かれてからというもの、エドガーは毎晩のように自慰に浸るようになってしまった。エドガーほどの年頃の男子ならば別段おかしいことでもないが、肉欲というものに対して人一倍潔癖なエドガーにとっては、それは耐え難い恥ずべき行為だった。
 今夜こそは何もせずに眠ろうと――そう心に誓ってエドガーはベッドに入るのに、ふと気が付くと右手が下着の中に潜り込んでいる。輪のようにした親指と人差し指で幹を無心に擦っている内に、頭の中が真っ白になるような感覚が押し寄せて、手のひらに生暖かい体液を吐き出してしまう。

 常より少し上がった息を整えながら、エドガーは手の中の白濁をティッシュペーパーで拭って捨てた。本当は洗面所まで手を洗いに行きたかったが、馬鹿馬鹿しく思えて結局やめた。いくら物理的に清めたとしてもエドガーの心は曇ったままなのだから。
 自身を慰めた後は必ず虚しさがエドガーの胸に去来する。自分は何をしているのだろうと問い質し、一連の行為を振り返れば嫌悪がこみ上げる。一時の快楽を得るために卑しい行為に浸り、忘我の瞬間を得た自分のことが汚らわしい存在と思えてしまう。
 本当は自慰などしたくないし、ついこの間までは実際にしなくても支障がなかった。性欲の類は殆どサッカーで昇華していたから、夢精だって殆どしなかったのである。
 だから己の今の状態――夜な夜な自慰に耽っているような自堕落さが、克己を重んじるエドガーには許せない。精神の高尚さが肉体の欲望に負けることがあってはならないのに。

 ――これも全てはマークのせいだ。マークにあんなことをされたから、自分の身体はおかしくなってしまったのだ。全部マークがいけないのだ。
 元凶はマークと決め付けて恨みつらみをなすりつけていかないと、エドガーは精神の平静を保っていられそうになかった。
 マークのことは思い出しただけでも虫酸が走る。ありとあらゆる雑言でマークを罵り倒してやりたいが、それよりももう二度と会いたくない――そうエドガーは思っているのに、運命は往々にして上手く巡らないものである。


 夜が更ける頃になると、エドガーは嫌悪感と隣り合わせの快楽に溺れてしまう。
「…ぁ…はぁ…あ…っ…」
 いつものように眠る前の自慰に浸るエドガーの横顔を、眩い光が照らし出した。ベッドサイドに置いた携帯電話が、チカチカと点滅して着信を伝えている。こんな夜更けに非常識な…と苛立たしく思わないこともないが、無視して後々不具合が生じるのも嫌だった。
 エドガーは空いている方の手を布団から出すと携帯を手に取った。ディスプレイには見覚えのない番号が表示されている。
 訝しみつつエドガーは通話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし」
「やぁエドガー、こんばんは」
「……」
 エドガーは反射的に電話を切ろうとしていたが、電話口であんまりに五月蝿く喚かれたので通話を続ける。その代わり腹に据えかねた憤怒が言葉となって、エドガーの口を突いた。
「何故私のナンバーを知っている!何の用だ、クルーガー…!」
「この前見させてもらったんだよ。エドガーの声が聞きたくて電話したんだ」
「私は貴様の声など聞きたくもない!この無礼者!」
 マークの言う「この前」を思い出すと腸が煮えくり返るようだ。あの夜にエドガーの清廉な人生は変わってしまった。
 あんなにおぞましい行為をエドガーに強いてなお、関係を持とうとするマークの精神が信じられない。マークが馬鹿なのか、それとも自分が馬鹿にされているのか。
「それはそうと、君…何だか息が上がってるんじゃないか?」
「はぁ…?」
「アメリカは今7時だけど…イギリスはもう0時近いだろう。きっと君はベッドにいたのに、息切れしてるのは不思議だな」
 もったいぶったマークの物言いに、エドガーは最初マークが何を指摘したいのかわからなかった。
「何が言いたい」
「…もしかしてオナニーしてた?ってこと」
 というか今してる最中?とマークが追い討ちをかけ、図星だったエドガーは携帯を握り締めて激しく赤面した。なにせエドガーの右手は未だ下着の中に入ったままなのだ。自慰の最中という事実がエドガーに押し寄せる。
「…く…口を慎めっ!まさか私が、そのようなこと…!」
 エドガーは咄嗟に右手を引き抜いたが、その手のひらは先走りに濡れている。
「へぇ…エドガーはオナニーしてる最中だったんだ…」
 電話口でマークが感心したように言う。エドガーがどう言い繕ってもマークは聞く耳を持たない様子で「邪魔してごめんな」などと呑気に謝っている。
 エドガーにはそれが揶揄われているように感じられて、ますます羞恥を掻き立てられた。
「恥ずかしがることじゃないさ。男ならだれだってする行為だよ」
 その上マークに慰められて、エドガーは惨めさも怒りも頂点に達した。
「うるさい黙れっ!貴様に私の気持ちがわかってたまるか!」
 真夜中ということも忘れて、エドガーは携帯電話に向かって怒鳴った。あの日以来溜め込み続けた鬱憤が、元凶のマークを前にして関を切ったように溢れ出す。
「そもそも貴様がいけないんだ!クルーガー…貴様のせいで…私はっ…!」
「オレのせい?」
「そうだ、貴様が私に変なことをしたから…私はおかしくなってしまった」
「エドガーが自慰するのはオレのせいなの?」
「そうだ!貴様のせいだ!私はこんなことはしたくないのに…クルーガー?聞いているのか?」
「エドガー…そのセリフは反則だよ…」
 マークを思い出して自慰に耽っているのだ…と言い換えても構わないセリフに、マークは嬉しさに頬を緩めたが、エドガーは失言に気付かない。急に弾んだマークの声を僅かに訝しむ程度だ。
「うんそうだな、オレのせいだ」
「認めたか、この下衆が」
「ああ、だからオレが責任持って、エドガーの手伝いをしてやるよ」
「…は?」
「自分で自分を慰めるのは、はしたなくて嫌なんだろう?だったらオレがしてあげる」
「ば、馬鹿なことを言うな…貴様はアメリカにいるだろう」
「離れていても声が聞こえる。君はオレが言ったとおり手を動かすんだ。これは君の意志じゃなくてオレの意志だから、はしたないと君が気に病む必要はない。いいか?今からエドガーの手はオレの手だからな…」
「……」
「さぁ、まずは全体を揉んでみようか…」


 独り善がりで馬鹿馬鹿しい提案だと思うのに、マークに言われたとおりエドガーは、右手で性器を揉み始めていた。着信により快感を遮られた身体が、熱を持て余していたのも事実である。
 些か萎えたとはいえ半勃ちの状態のまま放置されていたそこは、加えられた圧力に反応してあっという間に芯が通る。楽しそうにマークが尋ねる。
「どう?しっかり勃起した?」
「…ん、ぁあ……」
 素直に返事をするのは悔しくて、適当に相槌を打つつもりだったのに、媚びるような鼻に抜けた声が出た。性器への愛撫に慣れないエドガーは、自慰を始めるとその他のことが疎かになる。耳元でマークの囁きを聞く。
「扱いたら駄目だぞ…まだ揉むだけだからな」
「…うん…」
 手の中で反り返る肉棒を擦りたくなるのを我慢して、エドガーはあくまで握るように揉むに留める。いつもなら幹を扱いて終わりになるのに、こんな決定打のない刺激では達しようにも達せない。
 中途半端な快感が下肢に澱のように溜まってくる。エドガーは両脚を摺り合わせて生殺しのような気持ちよさを堪えた。
「どうかな?もどかしいだろう…?」
「…ん、あ…は…っ」
「いつもはどんなふうにしてるんだ?」
「…親指と人差し指で…輪を作って…」
「前にオレがしてあげたやつの真似?」
「……っ…」
 マークの指摘するとおりだった。今まで自慰などしたことのなかったエドガーは、マークがしてくれた方法以外に自身を高める術を知らない。マークにされた愛撫を手本にエドガーは毎夜自慰をしていたのだ。
「エドガーは可愛いな…うん、いいよ…輪にしてしごいて構わない」
 エドガーの沈黙を肯定と受け取ったマークは、ご褒美と言わんばかりに、強い刺激を与える許可をエドガーに出した。羞恥もまだ覚めやらぬのに、エドガーの右手は独りでに動き出す。
「…んっ…ぁ…は…っ…」
 二本の指の間に性器を嵌めて上下に動かす。先走りに濡れた手で棹を擦り上げると、肉棒はますます硬くなる。自分の身体の一部とは思えない硬い感触に煽られた。
「もっと気持ちよくするには、右手で擦りながら左手で先端をこねるんだ」
「…ひっ、くうぅ…あ…はぁっ…」
「先走りをすくうように…尿道に爪を立てるのも気持ちがいいよ」
 それにマークに言われたとおりに手を使うと本当に気持ちが良かった。マークの手付きの真似をしてひとりでしていた頃よりも、各段に強い刺激がエドガーを襲う。
「うぅ…はぁ…ぁあ…んっ…」
 肉棒を右手撫でながら亀頭を左手で弄ると、次から次へと先走りが溢れ出す。そのぬるぬるを指に絡めて窪みに押し込む。少し痛いくらいにした方がエドガーは強く感じた。
「あっ、あぁ…もう…っ、はぁあっ…!」
 マークの的確な指示のためにあっという間に高まったエドガーは、性器を両手で握り締めて達してしまった。


「…はぁ…あ…ぁ…」
 普段とは段違いの絶頂の快感にエドガーは胸を上下させた。このまま目を閉じたらさぞかしよく眠れることだろう。しかしそうはマークが許さない。
「…まだ休んだら駄目だぞエドガー…今出したものを指に取って、よく後ろに塗り込めるんだ…」
「…後ろ…?」
「忘れたのか?…あんなに情熱的にオレを締め付けてくれた場所じゃないか…」
 一気に目の覚めたエドガーはかっと赤面した。マークが言っているのはエドガーの後孔のことで、自分の精液を使って蕾を解せと言っているようなものだった。
 エドガーにとってそこは未だに嫌悪の対象である。マークの要求は受け入れ難かった。
「ふざけるな!誰がそんなこと…」
「拒否するのか?エドガーの手はオレの手だって言っただろ…オレの言うとおりにしろよ」
「いやだ…貴様の言うことなど…」
「そうしたらもっと気持ちよくしてあげるよ」


 電話口で紡がれるマークの言葉は、思考を溶かす麻薬のようだ。心の底から拒絶していた行為であるのに、エドガーの後孔には自身の人差し指と中指が、纏めて二本押し込まれている。マークに促されてここまでの辱めを受け入れてしまった。いつしかエドガーは正常な思考ができなくなっていた。
「んっ…はぁ…あぁ…」
「…どんな感じだい?」
「…ぅ…違う…っ」
「違うの?」
 野外でマークに貫かれたときとは全然違う。痛みもなければ熱くも苦しくもない。慣れない違和感だけがある。あの訳もわからず身悶えた夜の感覚は、指程度の質量ではよみがえらない。
「指だけじゃ物足りないんだ?」
 物足りない。言われてみればそうなのかも知れない。自身の飢えを意識した瞬間、入り口が二本の指をキュッと締め付けた。エドガーの身体が侵入者を拒んでいない証拠だった。
「よく…わからない…」
 しかし満ち足りた状態が何であるかもわからないのに、不足を訴えるのはおこがましい気がした。わからない。それでもエドガーは突き入れた指を、無意識の内に根元まで埋め込んでいた。
 指を包み込む内壁は狭くて湿っていて人肌よりも温度が高い。この場所にマークの猛る性器を受け入れたのだと思うと不思議な気持ちになる。
「お腹の側を探ってごらん、前立腺を見つけるんだ…」
「前立腺…?」
 聞き覚えのある器官の名称は、マークに犯されたあの夜に、痛がってばかりのエドガーをとろけさせた場所の名前だった。
「エドガーの指は長いからきっと届くよ」
「…ふ…ぅ、ん…」
 おそるおそる腸内の指を動かすと、くちゅくちゅと卑猥な音がして恥ずかしかった。エドガーは目を固く閉じながら、マークのいう前立腺の位置を探す。
「ん…んぅ…あ!」
 腹側の肉壁を丹念に弄っているとき、ある場所を指先が掠めた瞬間に、エドガーの身体に電流のような痺れが走った。
「ああっ…!これっ…やっ!あん!」
「気持ちいいよな?そこが前立腺だよ」
「やぁっ!あっ…はぁあっ…!」
 まともに話せなくなるほど追い詰められるのに、エドガーは指を動かすことをやめられない。自らの手で後孔を掻き回して暴力的な快楽に耽っていく。


「はぁあっ…ぁんっ…あぁ…!」
「…くっ、エドガー…はっ…あ…」
 マークの息も荒いことに、ふとエドガーは気がついた。もしかしたら電話口の向こうでマークも、自身を慰めているのかもしれない。
 そう思うとエドガーは屈辱的な行為をしている最中にも関わらず、勝ち誇ったような気持ちになった。このところ損なわれてばかりだった自尊心が久々に首をもたげる。やられっぱなしは嫌なのだ。
 どうすればマークにやり返すことができるだろうか、と考えたエドガーは、携帯に顔を寄せて飛びっきりのいい声で囁いた。
「…マーク…」
「…っ!エドガー…!」
「…ぁあ…マーク…マークッ…」
 ファミリーネームで呼んでいるマークを、意識的にファーストネームで呼ぶ。以前名前で呼んでくれと請われたのを思い出したのだ。後ろを弄る指はそのままだったから、エドガーの声は当然艶めいている。
 マークへの効果は覿面のようだった。吐息の熱さすら伝わってくるような呼吸音が聞こえて、エドガーを呼ぶ声にも切羽詰まったような必死さが現れている。余裕のないマークをエドガーは思わず可愛いと思った。
「エドガー…オレも足りないよ、こんな遊びじゃなくて…君を抱きたい…」
 情欲を隠さない男の声にエドガーの思考が甘く痺れた。熱を孕んだマークの声は酷く色っぽかった。男の低い声に興味などないと言い切れるのに、マークの言葉に劣情を煽られている自分がいる。
 エドガーは自らの内面の変化に気づいて驚愕した。あんなに嫌っていたマークなのに、これではまるで…。
「…はぁっ、そんな…いやだっ…マーク…!やあああ…っ!」
 脳内を掻き回されるような混乱した気持ちのまま、エドガーは前立腺を使った自慰二度目の絶頂を極めたのだった。



「エドガーの今のイキ声、すごくいやらしかった…でもオレまだなんだ、もう一回お願いできるかな」
「知るものか!」
 一方的に電話を切り、電源も落とした携帯を、エドガーはベッドサイドに放り投げた。火照った顔を枕に押し付ける。
「…貴様が嫌いではないなんて、そんなこと知るものか…」
 悩めるエドガーの呟きは真夜中の暗闇に沈んでいった。

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