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beddy-bye


 名前は俺がいないと寝られないらしい。そのことに気付いたのは随分前のこと。「侑がいないと寝られないの」と可愛らしく申告してくれれば、どんな手を使ってでも仕事を切り上げて帰ってくるのに、そしてそれを苦痛だとか大変だとかは全然思わないのに、名前は俺に何も言ってこなかった。
 分かっている。名前の性格上、少しでも俺の負担になるかもしれない事柄は伝えるべきじゃないと判断したのだろう。そういう、良くも悪くも気遣いができる優しいところが好きだし、愛しいと思う。しかしその反面、俺は名前に小さな要望を叶えることができないような器の小さい男だと思われているのかと、俺の名前に対する気持ちはその程度だと思われているのかと、複雑な心境に陥った。
 だからといって名前との関係が微妙になったのかといえばそれは有り得ない話で、俺たちの関係は今でも良好…というか、どんどん好転していると思う。特に最近では少しずつ名前が「あそこに行きたい」「あれがほしい」「こうしてほしい」と伝えてくれるようになってきたのが嬉しい変化である。


「侑、もしかして体調悪い?」
「なんで?めっちゃ元気やけど」
「なんとなく顔色が悪いような気がして……」


 一般企業に勤めていれば、大抵の場合は月曜日と金曜日が忙しくなる。そしてそれが月末や月初、更には年度末や年度始めになると、普段とは比べものにならない目まぐるしさとなるのもセオリーだと思う。
 俺が勤めている会社は、海外の企業と取引することが多いという観点から、年度始めが1月となっている。つまり、クリスマス頃から新年明けて暫くは鬼のように忙しい。
 それでも俺はできる男だから、クリスマスはしっかり休みをもらって名前と過ごしたし、年末年始の休暇もたっぷり取得した。ただ、そのぶんの皺寄せは正直ハンパじゃない。
 年始から文字通り馬車馬のごとく働き続けて、1月後半の金曜日に差し掛かった今日。土曜日は本来なら休みのはずだが、どうしても外せない取引先との会食があるため、明日も午後から出勤予定だ。
 いつもなら週末は名前とゆっくり過ごせるはずなのにそれができないから、無意識のうちに沈んだ顔をしていたのかもしれない。そのせいで顔色が悪く見えた可能性は大いにある。
 体力には自信がある方だし、現に俺は元気だ。鼻風邪すらひいていない。しいて言うなら少し寝不足かもしれないが、気にするほどではない…と思う。


「そういえば仕事忙しいんだよね?今月ずっと朝早いし……」
「もうちょいで落ち着くと思うんやけどなあ」
「夜遅くまで仕事しなくて良いように、って、無理してるんじゃない?」
「無理ちゃうし。俺が早よ帰りたいだけやし」


 帰る時間が遅くなる日が続いたら、名前はきっと寝不足になってしまう。だから俺は、どんなに遅くなるとしても日を跨ぐまでには帰ると決めている。そうなると必然的に、この死ぬほど忙しい時期はどうしても朝早く家を出るしかないのだ。
 何度も言うように、名前のことを考えて取る行動に対して苦痛を感じることはない。むしろ俺としても名前と一緒に寝られるのは幸せだし、癒されるし、布団に入って身を寄せ合っている時に、明日も頑張ろうという活力をもらえる。つまり、お互いにとってプラスの要素しかないのだ。
 しかし名前は、納得がいかない、というより、どこか怒っているようにも見える表情で俺を睨んでいた。基本的に穏やかな名前が怒っているのだとしたら、それは相当なことだ。俺は帰って来てからの言動を瞬時に振り返る。
 帰って来てすぐはいつも通りだった。というか、ほんの数分、もしかしたら数秒前まではいつも通りだったと思う。ん?ほななんで?


「侑は何も分かってない」
「は?」
「侑が私のことを大事に思ってくれてるのと同じで、私だって侑のこと大事に思ってるんだよ」
「おん……それは分かっとるつもりやけど」
「分かってるんだったらもう少し自分のことも大切にしてください」


 いまだにむむむと顔を顰めたままの名前は、まるで子どもに注意するような口調で俺にお説教を始めた。自分のことを大切にしてくれるのは嬉しいが俺が無理しているのを見るのは辛い、忙しい時期ぐらい自分のことを放っておいてもいいから仕事を優先してほしい、と。
 それに対して、無理はしていないと反論したら「それは気持ちの問題でしょう?身体は絶対無理してるよ」と的を得た切り返しをされてしまい、ぐうの音も出なかった。睡眠時間が明らかに足りないのは自分でも分かっていたが、倒れるほどじゃないから問題ないだろうと見て見ぬフリをしてきたことなんて、名前にはお見通しだったらしい。


「確かに私は侑がいないと寝付きが悪いけど全然寝られないわけじゃないし、日中昼寝だってできるんだからそんなに気にしないで」
「せやけど」
「週末も、もう少し休んでください。買い物は仕事が落ち着いてからでもできるでしょう?」
「……名前はほんまにええ奥さんやなあ」
「侑がいい旦那さんだからね」


 悪戯っぽく笑う名前は、いつもより少し幼く見えた。俺が名前のことを想っているように、名前も俺のことを想ってくれている。夫婦なら当然のことなのかもしれないが、俺にはその「当然」が特別なもののように感じた。
 職場にいる既婚者の同僚や先輩は、よく奥さんの愚痴を言っている。仕事で疲れて帰っても労いの言葉のひとつもない、とか、疲れている時に限ってぐちぐち文句を言われる、とか、休みの日はゆっくりしたいのに色んなところに連れて行ってほしいとねだられてどっと疲れる、とか。
 俺はいつもそれを「ほーん」と適当に聞き流しているが、時々「お前はそういうのないの?」と尋ねられることがある。もちろん間髪入れずに「ない」と答えるが、その度に「そんなわけないだろ」と訝しまれるのは非常に腹立たしいと思っていた。しかし最近になって気付いたのだ。世の中には色んな夫婦が存在しているが、全ての夫婦が俺達のようにお互いを思いやっているわけではないのだ、と。俺は恵まれているのだ、と。


「名前」
「何?」
「こっち」
「ビールいらないの?」
「いらん。名前がいる」


 夕食の食器洗いを済ませ、冷蔵庫の扉を開けようとしていた名前に手招きし、両手を広げて見せる。すると名前は一瞬驚いた顔をして、それからすぐ嬉しそうに顔を綻ばせて俺の胸に飛び込んできてくれた。
 疲れている時に必要なのはビールより睡眠時間より、愛しい妻の体温だ。そう言って共感してくれる人間は、おそらく社内にはいないだろう。やっぱり俺は恵まれている。


「明日の仕事、午後からやねん」
「知ってる。だから昼まではゆっくり寝てね」
「名前も一緒にな」
「私がいると邪魔じゃない?」
「はあ?そんなん言うたら怒るで」


 嘘でも冗談でも、それがたとえ名前本人の発言だとしても、名前を邪魔者扱いするのは許さない。相変わらず細い体躯を抱き締めながら低めの声で不機嫌さを露わにすると「そんなに怒らないで」と小さく苦笑された。いや、笑いごとやないけど。


「じゃあ今日は早くお布団に入って、明日の朝は寝坊しちゃおう」
「せやな」
「ちゃんと寝るんだからね?」
「んー?」
「侑?聞いてる?」


 俺の胸元から何度も「ちゃんと寝るんだよ?」と言ってくる名前に、俺は曖昧な返事しかできない。隣に名前が引っ付いて寝とって、明日の朝は寝坊してもええ状態で「ちゃんと寝る」て、そんな約束できるわけないやんか。


「今日はちゃんと寝る日!分かった?」
「んー……?」
「もう!侑、」
「俺が1番元気になれる方法、知っとるやんなあ?」
「そういうことはその目の下のクマをなくしてから言って」


 どうやら今日だけは俺の押しに流されてくれなさそうなので、渋々抱きつくだけで我慢する。ベッドに入ったらまた抱き締めて、キスをするぐらいなら許されるだろうか。
 あれやこれやと考えていたくせに、ベッドに潜り込んだらあっと言う間に眠りについてしまったから、俺は自分が思っているよりも限界だったのかもしれない。遠くの方で聞こえる「おやすみ」の音色が、ひどく心地よく響いた。