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bad bye


「今日、帰り遅うなるわ」
「分かった」


 朝ご飯の席でなんでもないことのように言われたセリフに、胸がチクチクと痛んだ。けれども私は、間髪いれずに平然と、了解の返事をする。いつものこと。だから、全然平気。
 必死に平静を装う私の下手くそな演技に気付かぬ彼は、茶碗に残っていた白米をパクリ、口の中に放り込んでから席を立った。そして私の顔をまともに見ることもなく、ほな、と玄関へ向かう。
 彼の背中に、行ってらっしゃい、と投げかけても、行ってきます、とは言われなくなった。それどころか、こちらを振り向いてもくれなくなった。それは恐らく3ヶ月ほど前から。その頃からちょうど、会社からの帰りの時間がどんどん遅くなっていって、今日みたいに、帰りが遅くなる、と申告されることも増えていったように思う。
 薄々は勘付いていた。彼がどうして素っ気なくなったのか。急に帰りが遅くなり始めたのか。それらの理由が、仕事じゃなくて浮気だってことに。
 結婚して2年。彼は、私に飽きてしまったのだろう。仕方のないことだと諦めるしかない。元々、彼は結婚なんて向いていない人だったのだ。あれだけ整った容姿とルックス、おまけに仕事もできて会話も上手。そんな男を、世間の女は放っておかない。例え既婚者であっても。
 そんな彼と、私みたいなごく普通のどこにでもいる女が結婚できたのは、もはや奇跡みたいなものだと思う。数多の女の中から私のことを見つけ出してくれただけでなく、どこが気に入ったのかは全く分からないけれど猛アタックしてきてくれた。だから私は、その勢いに押されて付き合い始めた。
 彼とお付き合いをする。それだけでも夢みたいな話なのに、付き合い始めてほんの数ヶ月でプロポーズまでされて。嬉しいという気持ちより、私なんかで大丈夫?っていう驚きの方が勝っていた。けれど、結婚に憧れていた私は、誰よりも好きだって、一生幸せにするって、そんな魔法の言葉を浴びせられて舞い上がっていたのだろう。不安よりも憧れを優先させた。

 そうして結婚した私達の新婚生活は、順調だったと思う。彼は毎日早めに帰宅するよう心がけてくれて、私なんかの作る平凡な食事を美味い美味いと嬉しそうに頬張ってくれていた。休日には手を繋いで買い物に出かけ、長期休暇には旅行にも行った。結婚しても幸せになれるかどうかなんて分からない。けれど、私は間違いなく幸せだった。この人と一緒に生きていけるなんてこれ以上にない幸せだって、それこそ毎日思っていた。
 けれども幸せというのはとても脆くて壊れやすくて。最初に違和感を感じたのは、出かける時に手を繋がなくなった時だった。いつもは当然の如く指を絡ませてくる彼が、いつもよりほんの少し遠くを歩いているのが珍しくて。でもその時は、そういうこともあるか、と深くは考えなかった。
 しかしそこで深く考えておけば良かったのだろう。気付いた時には、一緒に外を歩くこと自体ほとんどなくなっていた。あれだけ弾んでいた会話も、今では挨拶を交わすぐらいで、あとは一方的に連絡事項を伝えられるだけ。夜ご飯は食べてくれるけれど、食べたらさっさと寝てしまう。それが日常になってしまっていた。
 寂しかった。しかし心のどこかで、仕方ないかあ、と納得している自分もいた。きっとこれが現実で、本来あるべき姿で、今までが魔法にかけられていただけだったんだ、って。私はもう一生分の幸せを使いきっちゃったんだ、って。
 だから、ワイシャツから知らない女ものの香水の香りがしても、時に分かりやすく真っ赤な口紅なんかがついていても、帰りがどれだけ遅くなっても、彼が左手の薬指に指輪をしていないことに気付いても、私は全部気付かないフリをした。目を背けることしかできなかった。

 帰りが遅くなる。それはつまり、今日は浮気をしてきます、と言われているようなものだった。それでも私は、お仕事大変だね、って知らん顔をする。いつも、いつも。そうすることしかできないから。彼はきっと、馬鹿な妻で良かったってほくそ笑んでいることだろう。
 どうして浮気なんか、とは思わない。彼は魅力的な男性だから、こうなることは仕方がなかった。悲しいけれどそう思う。しかし分からないのは、なぜこんな状態になっているというのに、彼が別れようと言ってこないのか。私と別れて1人になった方がよっぽど自由で楽だろうに、どうして。
 私が、別れたくない、とみっともなく縋りつく勇気を持ち合わせていないことは、彼だって分かっているだろう。だからそこに躊躇いはないと思う。ということは、お互いの両親に説明するのが面倒なだけか、はたまた世間体を気にしているのか、そういった理由だろうけれど。そういうことを気にせず、自分の決めたことは意地でも押し通す人だと思っていただけに、別れを切り出さない理由に関してだけは、どうも釈然としない。


「夜ご飯、何にしよっかな」


 ああ、そうそう。それからもうひとつ分からないことがあった。それは、どれだけ帰りが遅くなる日でも、夜ご飯は絶対に家で食べるということ。今日みたいな「浮気デー」でも、彼は必ず家でご飯を食べる。飲み会があった日でさえ、お茶漬けとかスープとか、そういった簡単なものを必ず食べるのだ。
 私の料理が特別美味しいってわけじゃないと思うから、ただ単に、夜中になったらお腹がすくからという理由なのだろうか。それとも、専業主婦の身分で夜ご飯も用意せずにグータラされるのは気にくわないとか、そういうことを思ってのことだろうか。何にせよ、私には彼の考えていることがさっぱり分からなかった。でも、分からなくて良い。分かったら、もっと傷付くかもしれないから。
 そうして私はまた何にも気付かないフリをして、夜ご飯の献立を考え始めた。


◇ ◇ ◇



 ガチャン…バタン。鍵が開いて扉が閉まる音で目を覚ます。ッドの中から手を伸ばし、携帯で時刻を確認。1時か。いつもより早いな。普段は気付けば隣に寝ていることが多くていつ帰ってきたのか分からないのだけれど、今日は眠りが浅かったのか目が覚めてしまった。寝たフリをすることもできるけれど、ここは一応妻として夜ご飯を温め直すぐらいのことはした方が良いだろう。
 もぞもぞとベッドから抜け出してキッチンに行った私は、ネクタイを緩めている彼に、おかえりなさい、と声をかけた。すると、私が起きてきたことが相当珍しかったのか、彼は少し驚いた様子で、ただいま、と。久し振りのフレーズを口にした。いってきます。ただいま。どちらも、最近ほとんど聞かなくなった言葉だ。


「先にお風呂入る?」
「いや…飯食う」
「じゃあ温めるね」
「なんで起きてきたん?」
「たまたま、目が覚めただけ」


 着替えを終えた彼がキッチンの椅子に腰掛けて、小さく溜息を吐いた。色々とお疲れで帰ってきたところで私の顔なんか見たくもなかったのだろうか。ちくりちくり。胸の痛みはいつもと同じ。だから、いつも通り気付かないフリをして、私は温め直した夜ご飯をテーブルに並べていく。
 そうして全てを並べ終えて、じゃあ私は寝るね、と。その場を離れようとしたのだけれど、それは叶わなかった。今日な、と。彼が唐突に話を始めたからだ。


「女と会っとった」
「…そう」
「今日だけちゃう」
「……、」
「何ヶ月も前から、色んな女と会っとる」
「そう、なんだ、」
「気付いとったやろ。……俺が、浮気しとんの」


 ついに言われてしまった。目を逸らしてきた事実を。彼の口から。つまりそれは、もうお前とは終わりだ、と。別れを切り出す準備が整ったということなのだろう。こんなことなら起きてこなければ良かった。下手くそでも寝たフリをしておけば良かった。声をかけられても無視して寝室に逃げ込めば良かった。そんなことを思っても、もう遅いのだけれど。
 ここでは、へぇそうなんだ知らなかった、と。いつも通り知らないフリをして毅然とした態度を取るのが正解なのだろう。けれども私は、そこまで強くなかった。終わりを告げられると分かって平然としていられるほど、私は、強くない。


「知ってた、よ」
「せやろな。名前はアレで気付かんようなアホちゃうもんな」
「なんで自分から言ってきたの?」
「逆にきくわ。なんで、言ってこぉへんかったん?」


 まるで私を責めるかのような口調に、今まで平静を装い続けてきた私にも、さすがに怒りの感情が沸き起こった。非があるのはどう考えたって彼の方なのに、どうして私が追い詰められなければならないのだ。
 例えば、浮気してるでしょ、って彼に詰め寄ったとして。その事実を認められたとして。その後、どうなるっていうんだ。お前に飽きた、だから浮気した、別れよう。私にはそう言われる未来しか見えなかった。だから、何も言わなかった。苦しくても辛くても、彼がこの家に帰って来てくれるならそれだけで良いと思っていた。例え私のことを、好きじゃなくなってしまったとしても。それぐらい1人で苦しんでいたのに、最後の最後で彼に責められなければならないなんて、あまりにも理不尽すぎる。
 分かっていた。いつかはこんな日がくるんだろう、って。いつまでも現実から目を背けていることはできない、って。魔法が解けてしまった時点で、この茶番は既に終わりへ向けて進んでいた。全部分かっていた。分かっているからこそ、彼に詰め寄ることはできなかった。終わりに、したくなかったから。


「言っても、どうしようもないじゃない……」
「なんで」
「侑の気持ちが離れていっても、私にはどうしようもないでしょ?」


 折角温めた夜ご飯は全く手をつけられておらず、もう微温くなりつつあるだろう。でも大丈夫。ご飯はレンジですぐに温まるから。しかし人の心は違う。レンジでチンしても温まったりはしない。冷えたら冷えっぱなし。そう、今の私達のことだ。
 なんも分かってへんな、と。彼が静かに呟いた。何も分かっていない?私が?何も、って何?何を分かれって言うの?浮気する男の気持ちとか?だとしたらそんなの、分かりたくもない。そっちだって何も分かってないじゃないか。ふつふつ。抑え込んできた感情が今にも爆発しそうになる。


「そうやって俺と別れよう思うとる?」
「別れたいのは侑の方でしょ……」
「は?」
「だって浮気してるってそういうことじゃない」
「…ちゃう」
「え?」
「別れたいんは名前の方やろ?」
「どういう意味?」
「何も言ってこぉへんかったんは、名前が俺のこと最初から好きやなかった、いうことで、」
「まって、なんで、」
「手繋がんくなっても、帰りが遅うなっても、浮気しても、どうでもえかったんやんな?」
「そんな、」
「結婚しても、幸せやなかったんやろ」
「違うっ!」


 生まれて初めてこんなに大きな声を出した。自分でもびっくりするぐらい。だから彼も勿論びっくりしていて、お互い口を噤んだ。
 なんでそうなるんだ。私がどれだけ彼の帰りを待ち侘びていたかも知らないで。どんな気持ちでむせ返るような香水の匂いや真っ赤な口紅のついたワイシャツを洗っていたかも知らないで。別れたい?そんなの、1度も思ったことない。考えたこともない。


「なんでそんなこと言うの……っ」
「好き、て」
「…え?」
「好き、て。思うとる?俺のこと」
「そんなのッ……!」


 当たり前でしょ、と言おうとして、止まる。好きって思ってる。ずっと。でも信じられないことに、私はそれを彼に伝えたことがないということに気付いてしまった。今更。そう、本当に今更すぎる。
 散々言ってもらった。態度でも示してもらった。好きだって。それに対して私はどうだろう。もらうばっかりで、与えることができていなかった。だから、愛想を尽かされた?私のことを嫌いになった?違う。彼は、侑は、ずっと待っていたのだ。私からの「好き」を。
 少しずつ距離を取って、私が彼を求めやすいようにしていた。好きだから離れないでって、言いやすいように。その手を掴みやすいように。でも私はそのサインに気づかないフリをした。だから距離はどんどん離れていって、侑はきっと取り返しのつかないところまで離れるしかなくなったのだ。
 自分ばかりが傷付いていると思っていた。私はこんなに想っているのに、って悲劇のヒロインぶって。侑だって傷付いていたのに。不安だったのに。やり方は間違っていたかもしれないけれど、でも、そういう風にしか確かめられないようにしたのは、私だ。
 どれだけ離れていっても別れようと言ってこなかったのは、私のことをまだ想ってくれているから。どんなに帰りが遅くなる日でも夜ご飯を食べてくれていたのは、平凡な私の料理を今でも美味しいと思ってくれているから。そんなことに気付きもしなくて、気付こうともしていなくて、私はずっと目を逸らしてきた。


「ごめんなさい、」
「何が?」
「好きだって、ちゃんと、伝えてなくて」
「思うてないならしゃーないやん」
「違うの!私、言ったつもりになってた。分かってくれてると思ってた。甘えてたの、侑に。ごめんなさい…手を繋いでくれなくなったのも、帰りが遅くなるのも、浮気されたのも、全部嫌だった。寂しかった。でもそういうこと、ひとつひとつ求めるのが怖かった。鬱陶しいって思われたくなかったの。嫌われたくなかったの。侑のことが、どうしようもなく好きだから……っ、」


 溢れ出す感情を抑えようともせず捲し立てるように言葉を吐き出していた私を、侑は抱き締めることで黙らせた。心地良い温度。触れ合ったところから、また、好きが染み込んでいくみたいだ。
 遅いわ、と呟いた侑の声はほんの少しだけ震えていて、続けて、良かった、と。好きでおってくれて良かった、と。やっぱりちょっぴり震えた声で言った。私の身体を抱き締める力は強くて、痛くて。今はそれが、途轍もなく愛おしかった。