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6土曜日、回顧して空虚感

無事18歳を迎えることができた、何の変哲もない夏休み初日の朝。部活の準備を整え、幼馴染である岩泉といつも通り体育館を目指す及川の足取りは重かった。ついでに身に纏う空気までずっしり重く、岩泉は非常に鬱陶しそうに眉を顰める。
及川が鬱陶しい空気を放つのは残念ながらよくあることなのでいちいち気にしないことにしているが、今回はどうも様子がおかしい。ぎゃあぎゃあと五月蝿いのが常である及川が静かなのだ。なぜだろう。岩泉は考える。
そういえば今週の始め頃から付き合い始めたという彼女について、今回はほとんど何も聞いていない。こちらから尋ねずとも自慢気に話をしてくる男が、何も言ってこないのだ。これもまたおかしい。


「その辛気臭ぇツラどうにかしろ」
「俺、そんなに辛気臭い顔してる?」
「自覚ねぇのか」
「……彼女にフラれた」


岩泉は首を傾げた。フラれること自体はいつもと同じだ。かなり早すぎる別れではあるが、ああまたか、と思ってしまうほど、日常的な出来事。だから岩泉が首を傾げたのには別の理由がある。
及川は女の子にフラれたぐらいでヘコむ男ではない。それはもう何年も一緒にいる岩泉にとって揺るがない事実だった。しかし今回は見るからにヘコんでいる。これは一体どういうことなのか。もう別れたのか、という驚きよりも先に、なぜこんなにもダメージを受けているのだろうか、という疑問の方がはるかに大きい。それゆえに首を傾げている。


「岩ちゃんはさあ、彼女ちゃんのこと好きなんだよね?」
「は?」
「だから付き合ってるんだもんね?」
「なんだ急に」
「好きってどんな感じ?」


岩泉は元々眉間に寄っていた皺を更に深めた。彼女がいるからといって、及川が今まで岩泉に色恋の話で相談めいた内容を振ってきたことは一度もない。それは暗に、及川の方が自分よりもその手の話に敏感で詳しいからだと思っていた。が、どうやらそうでもないらしい。
今日の及川はおかしいところだらけだ。長い付き合いではあるが、こんなに弱りきった自信のなさそうな及川は見たことがない。しかもバレー関連ではなく、別の、恐らく別れた彼女とのことでこんなに思い悩むなんて。何か悪いものでも食べたか、頭でもぶつけたか。それとも別の要因か。折角の誕生日だというのに、不運な男である。岩泉はほんの少しだけ及川に同情した。


「そんなこと訊いてくるってことは、本気だったんじゃねぇのか」
「…名前ちゃんのこと?」
「知らねぇ。名前も言わなかっただろ」
「そうだっけ」
「彼女ができた、って。お前、それだけしか言わなかったじゃねぇか」


及川は火曜日の朝に話した内容を全く覚えていなかった。そうか。確かに今回は岩泉に彼女のことを話す余裕なんてなかった。名前のことで頭がいっぱいで、バレーをしている時以外はほとんど名前のことを考えていたかもしれない。改めて気付かされる。名前が今までの数多の女の子達とは明らかに違う存在だったということに。
本気だった、のかもしれない。違う。本気だった。かもしれない、なんてあやふやな表現は間違っている。

俺は名前ちゃんのことが確かに好きだった。

きっと分かっていたのだ。自分という存在を曝け出してしまったあの時から、特別であるということは分かっていた。分からない分からないと、目を背けてきただけで。本当はちゃんと分かっていた。
しかし今更それに気付いたところで何だというのだろう。何ともならない。なぜなら名前は今日、この街からいなくなる。自分の手の届く範囲外のところに行ってしまうのだ。
名前は1週間以上先の未来で自分と付き合うという選択をしなかった。好きなら遠距離恋愛だって可能だったはずだ。それがいくら現実的なものではないとしても、名前はハナからその選択肢を作っていなかったように思う。それはつまり、その程度の「好き」だったのではないか。
及川は絶望した。この期に及んで、この結末の原因を全て名前になすり付けようとしている自分に。

求めてこなかった名前ちゃんが悪い?もう少しこの関係を続けてもいいと提案したにもかかわらず、その提案を飲まなかった名前ちゃんは、俺のことが言うほど好きではなかった?
それらが問題ではない。
俺が、求めなかった。俺が、引き止めきれなかった。俺が、何も伝えなかった。俺が、恐れていた。
名前のせいではない。全ては自分が本心を曝け出せなかったせいだ。


「岩ちゃん」
「なんだ」
「俺、初めてちゃんと失恋したかもしれない」
「…そりゃ良かったな」
「良くないでしょ!全然良くない!」
「でも踏ん切りついたんだろ」
「どうかなあ…分かんない」


及川の曖昧な返事に、岩泉は溜息を吐いた。やっといつもの及川に戻ったことに安心して、やっぱりうざったいなあと思った。


◇ ◇ ◇



名前は車の中にいた。家の中の荷物は既に運び出されていて、あとは両親とともに東京に向けて出発するだけである。
昨日は教室で散々泣いた後、見すぼらしい顔を見られぬよう俯いて帰った。もう何も思い残すことはない。そう思っていたけれど、果たしてこれで良かったのだろうかというモヤモヤとした気持ちは払拭できなかった。
最後にもう1回会いたかったなあ。
名前は一瞬そう思ったが、これで会ってしまったらそれこそ思い残すことが増えてしまうだろうと思い直した。これで良い。このままこの街にも及川にも別れを告げる。今は整理ができなくても、いつか遠い未来で、こんなこともあったなあと懐かしむことができたら良い。そう自分に言い聞かせた。


「名前、本当にいいの?」
「うん。引っ越しても連絡を取り合うことはできるから」
「じゃあ行きましょう」


母親の一言で車が出発した。父親は何も言わない。受験で忙しいこの時期に引っ越すことになってすまない、と謝ってきた父親が何も悪くないことは名前も理解している。だから、「引っ越したくない!」なんて駄々をこねることはなかったし、殊の外すんなりと状況を受け入れることができた。
母親の「本当にいいの?」という問いかけは「友達にきちんと別れを告げなくて良かったのか」という意味合いだ。しんみりするのが嫌で、引っ越しのことは担任以外誰にも伝えなかった。そう、及川を除いては誰にも。

及川の連絡先は知っている。けれど名前は、自分から連絡はしないと決めていた。折角綺麗…と言えるかどうかは分からないが、それなりに覚悟を決めてきっちり別れを告げたのだ。これですぐさま連絡なんてしようものなら、あの時のやり取りは何だったんだということになってしまう。
強がっているわけではない。これが最善だと思うから、そうすると決めた。そこに迷いはなかった。

車は軽快に走っていた。慣れ親しんだ街をあっという間に通り過ぎて、見知らぬ土地に向けて進んでいる。
きっともう会うことはないであろう好きだった人。…好きな、人。いつかきちんとした思い出になる日まで、あなたも私のことを忘れないでいてくれたら良いのに。
名前の最後の我儘は及川に伝えられることなく、見知らぬ街の空気に溶けて消えていった。暑い夏の日。好きな人の誕生日の出来事だった。