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2火曜日、苛々から不足感

及川が朝起きて真っ先にすることは、スマートフォンの画面をタップすることだった。時間を見るためと、誰かからメッセージが来ていないかを確認するためである。今朝もそのルーチンワークは変わらない。及川はいつも通り、そのすらりとした長い指で画面をタップした。
時刻は朝の6時8分。メッセージは3件。そのどれもが、いつ連絡先を交換したかも分からない女の子からだった。つまり、昨日付き合い始めた名前からのメッセージは来ていない。
昨日の夜、及川は自分から名前にメッセージを送った。今後のために連絡先が間違っていないか確認するつもりで「これから1週間よろしくね」と一言だけ。それに対する名前の返事は「こちらこそよろしく」という、及川よりも更にシンプルな文面。可愛らしいスタンプもなければ絵文字すらない。業務連絡のようなその画面に、及川はやっぱり不思議に思った。

好きだから俺と付き合いたいんじゃないの?もう少し媚び売ってきてもよくない?ていうかこんなに素っ気ないことってある?絵文字とかスタンプの機能知らないのかな。

それは単なる不満であった。今までの経験上、「好き」という感情をこれでもかとアピールされることに慣れすぎている及川にとって、名前のやること為すことは全て不可解に思えたのだ。
本来及川は、これぐらいの距離感が理想的だと思っていた。しかし、実際にこういう淡白な対応を取られると物足りなく感じてしまうのだから困ったものである。結局のところ、及川はただ我儘なだけなのであった。


「おはよう」
「あ、おはよう」


朝練を終えて教室に入り、自分の席に向かうまでの道のりのついでで名前に挨拶をする。名前はそれに笑顔で返して、それで、終了。及川はまたもや物足りなさを感じる。ベタベタしてほしいわけじゃない。が、自分に挨拶をした後すぐに斜め後ろの席の男子と会話を始めるのは如何なものか。そんな心の狭いことを思ったのだ。
及川と名前の席は少し離れている。名前の席は廊下側から数えて2列目の1番前。及川は一番窓側の後ろから数えて2番目。辛うじて対角線ではないが、それにほぼ近い位置関係だ。だから及川の席から名前の席はよく見えるのに対して、名前から及川の席は後ろを向かない限り全く見えない。それはつまり、及川の視界には名前が映り込むが、名前の視界に及川はほとんど映らないということだった。
それがどうした、というわけではない。今まで彼女の後姿を授業中に眺めようと思ったことは1度もないし、どんなことをしているんだろう、とか、誰とどんな会話をしているんだろう、とか、そういうことが気になったこともない。だから席の位置関係なんて自分には関係ない。そう思っていたが、そもそもそういうことをいちいち考えている時点で、及川は名前のことを明らかに意識していた。


「名前ちゃん」
「へ、」
「昼ご飯、一緒に食べよっか」
「え、そんな、」
「行こ」


今まで名字さん、としか呼ばれたことがない及川から、名前ちゃん、と呼ばれた名前は、明らかに狼狽えていた。そして及川は狼狽えている名前に爽やかな笑顔を傾けて、流れるような動作でその手を引いて教室を出る。きっと昼休憩が終わって教室に帰ったら、及川と名前が付き合っているということは噂になっているだろう。
及川は校舎裏の木陰になっている小さな空き地のようなところで名前の手を離した。夏の茹だるような暑さの中、その場所は幾分か涼しい。
及川は校舎の壁を背もたれにするように腰をおろし、突っ立ったままの名前に、座れば?と声をかけた。自分がほぼ強制的に連れてきたくせに、謝罪の一言もない。けれども名前は、文句のひとつも言わずに及川の隣に腰をおろした。ちょうど1人分ほどの間を空けて。


「あの、名前……」
「付き合ってるんだしいいかなって思ったんだけど。ダメだった?」
「ダメではないんだけど…急だったからびっくりした」
「俺のことも好きに呼んでいいよ」
「私は…今まで通り及川君で」


及川は牛乳パンに齧り付きながら、お弁当箱を広げつつそう言う名前を見つめた。トコトン欲がないというか、なんというか。
繰り返し思う。この子は本当に自分のことが好きで付き合ってほしいと言ってきたのだろうか、と。名前で呼び合うぐらい、恋人同士なら普通のことだ。それなのに名前ときたら、今まで通りの呼び方を貫くと言う。
恋人になったら誰もが特別な存在になりたがるものだと思っていた。少なくとも、今まで付き合った女の子は例外なく特別さを求めてきたように思う。その傾向が名前には全くない。だから違和感はどんどん膨らんで、やがて物足りなさに繋がる。


「名前ちゃんはどうして俺と付き合いたいと思ったの?」
「え!それは勿論……その…」
「好きだから?」
「そ、そうだよ」


お弁当箱の中のウインナーを口の中に放り込みながら会話をする名前は、完全にしどろもどろしていた。それが単純に恥ずかしくてそうなっているのか、何かを隠したくてそうなっているのか、及川には判断できない。
パンを齧る。口の中の水分がどんどん奪われて、ただでさえ暑いのに喉がカラカラになっていく。及川は紙パックのジュースにストローを突き刺して一気に吸い込んだ。小さいサイズを買ってしまったばっかりに、口の中は潤いそうもない。


「及川君は?」
「ん?何?」
「及川君はどうして私と付き合ってくれてるの?」
「それは…」
「好きだから、じゃないでしょ?」


傷付いているような素振りもなく、ただ淡々とお弁当箱の中のご飯を口に運びながら尋ねてきた名前に、及川は度肝を抜かれた。つい先ほど自分のことが「好き」だと肯定した女の子とは思えない。自分は好きなのに相手は好きだと思ってくれていない。それでも良いと思っている。そういう態度だ。
及川は何と答えようか迷っていた。こう言うと非常に性格が悪いように聞こえるかもしれないが、及川は嘘を吐くのが上手い。というか、猫を被るのが上手かった。だから、好きじゃない相手に「好きだよ」と甘く囁くことだってお手の物だし、なんならここでキスをするのも簡単なことだった。
しかしこの子にそういう対応をして意味があるだろうか。1週間だけ普通に付き合いたいと言ってきた名前。及川の気持ちが自分になくても良いと割り切っているのは、1週間だけ、と限定していることと何か関係しているのだろうか。
考える。考えても答えには辿り着かない。及川は口を開いた。


「好きだからだよ」
「……及川君は、」


優しいよね。と言われると思っていた。けれど名前の口から出てきた言葉は、及川を否定するような一言。


「嘘吐きだね」
「どうして嘘だって思うの?」
「…好きだから」
「え?」
「好きだから、分かるんだよ」


及川の前で名前が表情を曇らせたのは、これが初めてのことだった。

今俺のこと好きって言った?ほんとに?それこそ嘘じゃないの?分かるって何が?俺の何がお前に分かるわけ?ていうかなんでそんな、俺の言葉に傷付いた、みたいな顔してんの?好きだって言ってあげたのに傷付くっておかしくない?俺は優しさで…優しさで、言ってあげた、のに。

及川は自分の思考がまとまらなくなるのを感じていた。混乱している。好きだと言ってあげたら嘘吐きだと言われ表情を曇らされた。じゃあ好きじゃないよと言ったらどんな反応をしたのだろう。
分からない。この子の考えていることが。気持ちが。何もかも。


「好きじゃなくてもいいし、好きなフリをしてくれなくてもいいの。ただ、ちょっとだけ恋人ごっこに付き合って」
「……お前、変わってるね」


及川が女の子に対して「お前」と言ったのは生まれて初めてだ。思わず素の自分が出てしまった。
名前は及川の発言を聞いて数秒固まって、それからちょっと嬉しそうに笑う。つくづく変わった子だと思った。けれども少し、ほんの少し、惹かれるものがあった。


「そっちの及川君の方が好きだよ」
「……ほんと、変なの」


昼休憩は残り僅かとなっていた。及川の口の中は相変わらずカラカラで、残りのパンを口の中に入れたら益々カラカラになった。こんなにも喉が乾くのは果たしてパンと暑さだけが原因なのか。及川には分からなかった。分からないことだらけだった。