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まずは首から君を予約 前編


※社会人設定


ガキの頃はプロ野球選手を夢見ていた。だから特に高校生の時は、明けても暮れても野球ばかりしていた。けれど、その頃から薄々分かっていたんだ。俺程度の奴じゃプロにはなれないって。
大学生になっても野球は続けていたが、プロ野球選手を目指して頑張ろうという気持ちは日に日に削られていった。大学で野球をやっている内に、現実はそんなに甘いもんじゃないってことをことごとく思い知らされたからだ。
そうして普通の平凡なサラリーマンになった俺は、窮屈で堅苦しいスーツを身に纏って、らしくもない営業ってもんをやっている。高校時代の仲間がこの姿を見たら腹を抱えて笑うだろってぐらい似合わないのは百も承知だ。そんなこと、自分が1番よく分かっているのだから。


「あの、伊佐敷さん」
「あ?」
「な…なんでもないです…!」
「はあ?」


性格や口調は昔から変わらない。だから俺は当たり前のように事務の女性社員に怖がられている。しかし、こんな俺にも物怖じせず声をかけてくる女が1人だけいる。そのことによって、俺の日常はほんの少し変化し始めた。


「伊佐敷さん。領収書の決裁の締め切り、そろそろなんですが」
「…あ?来週だろ?」
「違います。今週末です。きちんと伝達しました」
「知らねぇよ」
「では伊佐敷さんの領収書は処理できませんので自腹で良いということですね?」
「わーったよ!出しゃ良いんだろ!」
「お願いします」


このズケズケものを言ってくる女こそ、俺の日常に変化を与えた張本人である名字名前だ。わざとらしく堅苦しい敬語で伊佐敷さん、なんて呼んでくるあたり、コイツは徹底しているなと感心するが、一応俺は名前と付き合っている。
社内恋愛禁止ってわけじゃないが、お互い、別に公にするほどのことでもないし…と思っていたからだろう。付き合い始めた当初から恋人同士ということはなんとなく隠していた。仕事とプライベートをきっちり切り替えるタイプの名前はそちらの方が良いのか、仕事中はいつもナチュラルに先ほどのような感じだ。
2人きりの時はもう少し可愛げがあるくせに…と思いつつも、そんな姿を知っているのは俺だけなのかと思うと嬉しくもあったり。青春時代を野球に捧げてきたせいで恋愛なんてもんをまともにする相手は名前が初めて、なんだかむず痒い。いい大人が何言ってんだって感じだろうけれど、俺の心はこう見えて純情少年のままなのだ。


「名字さん、今週末って…」
「え、あ、その話はあっちで…!」


ふと俺の耳に聞こえたのは、名前と、確か名前と同じ部署の上司の会話。名前はなぜかちらりと俺の方を確認してから、そそくさと上司の背中を押して去って行く。まるで俺から逃げるみたいに。
今週末ってなんだ。確か名前は、今週末は予定が入っていると言っていなかっただろうか。もやもやと嫌な感情が湧き出てくるのが分かって、名前の腕を引っ掴んで問いただしたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。昔の俺なら堪えられなかっただろうけれど、社会の荒波にもまれた俺はそれなりに大人になったようで、場をわきまえることができるようになっていた。
かと言って、感情のコントロールができるほど成長できたわけではなく。俺はその日、終始イライラしっ放しで仕事を終えた。


「おい、仕事終わったか?」
「え?まだですけど…」
「あとどれぐらいで終わるんだよ」
「さぁ…?伊佐敷さん、仕事が終わったなら早く帰った方が良いですよ」


折角こちらから声をかけてやったと言うのに、名前の返事は相変わらずよそよそしい。その上、俺をさっさと帰らせようという魂胆が見え見えだ。そういえばここ最近、こんな風にあしらわれることが多くなってきたような気がする。
そこで頭を過るのは、昼間にちらりときいた会話。俺に隠れてコソコソと話している名前の上司の顔を思い出して、胸糞悪くなってきた。


「そうかよ」
「お疲れ様でした」


何の未練もなさそうに俺に軽く頭を下げる名前に、イライラは募るばかりで。俺は乱暴に出入り口のドアを閉めると、会社を後にした。
そもそも名前と付き合い始めたのは共通の知人から、お前ら両想いなんだから付き合えよと言われたことがきっかけで、告白らしい告白はお互いにしていない。確かに俺の方は好意を寄せていたし名前の方も満更ではなさそうだったから、なんとなく今の関係に落ち着いただけだ。
今更だが、もしかしたら名前は最初から俺のことなどそこまで良く思っていなかったのかもしれない。そんな考えに思い至って、イライラではなく、柄にもなく不安に押し潰されそうになった。俺、こんなに名前のこと好きだったのか、なんて。それこそ今更すぎる。
こういうむしゃくしゃする日は酒を飲んでさっさと寝てしまおう。余計なことは考えない方が自分のためだ。俺は会社近くのコンビニに立ち寄り、酒とツマミになりそうなものを幾つか放り込んでレジに並ぶ。今日はなぜかレジが混んでいて時間がかかってしまったが、会計を済ませたらあとは帰るだけだ。
そうしてコンビニを出たところで道路を挟んだ向こう側に見えたのは、名前と例の上司が並んで歩いている姿。何も今日、こんなにも情緒不安定な時に追い討ちをかけなくても良いだろうと、存在するかどうかも分からない、普段は信じたこともない神様ってやつに抗議したい衝動に駆られた。


「くそ…っ」


追いかけたい。追いかけて、引き止めて、お前は俺のモンだろ!って言ってやりたい。けれど、俺にそんなことを言う資格はあるのかと思ってしまったら足は動かなくて。俺は2人が楽しそうに会話しながら歩いて行くのを、黙って見送ることしかできなかった。


◇ ◇ ◇



それから数日。名前とは、一言も会話をしていない。明日は土曜日で、名前が予定があると言っていた日でもある。恐らく、あの上司とデートにでも行くのだろう。鈍感な俺にだって、それぐらい分かる。
いっそのことフってくれれば良いものを、宙ぶらりんな関係を続けているものだから俺も諦めるに諦めきれない。あの得体の知れない上司に名前を取られるのは癪だが、俺みたいに何をやっても中途半端な落ちこぼれに比べたら名前のことを幸せにしてやれるのかもしれないと思ったら、無理に引き止めるのは憚られた。
そういえば、と。何気なく目を向けたカレンダーを見て思い出す。明後日は確か、名前の誕生日だ。忙しかったのと最近のゴタゴタで忘れかけていたけれど、なるほど、だから週末は本当に好きなヤツと過ごしたいと思ったのだろう。俺じゃなくて、他のヤツと。


「伊佐敷さん、あの…」
「あ?……なんだよ。請求書なら回しただろ」
「いえ、そうじゃなくて…え、と…」


仕事のこと以外で名前の方から話しかけてくるのはかなり珍しい。嬉しいけれど、何やら落ち着かない様子でもじもじしている姿を見ると、言い出しにくい内容であることは一目瞭然である。
なんだよ、と。もう一度尋ねてみれば、名前の瞳が不安そうに揺らいだ。


「日曜日、何か…予定、あるかな…って」
「は?週末は予定あるんだろ?」
「それは!あの……ごめんなさい、なんでもないです…」


煮え切らない態度と、どう考えても言いかけで去って行く名前の後姿は、いつもより一回り小さく見えた。なんだよ。何が言いてぇんだよ。さっぱり分かんねぇ。
こんな時でもその手を取れない俺はとんだ意気地なしだ。日曜日…って、名前の誕生日じゃねぇか。まさか俺と一緒に過ごしたいとか思ってんのか?情けなくも自分に自信のない俺は、その僅かな期待に確信を持てなくて。うじうじするのはらしくないと開き直り、きたる日曜日、俺は名前の住むマンションを訪れていた。
エントランスに入り、少しばかり緊張しつつ部屋番号のボタンを押そうとしたところで自動ドアが開き、人が出てくる。どこかで見た顔だと思ったら、それは名前で。けれど、金曜日と明らかに違うのはその髪型。長かった髪は肩口で切り揃えられていて、かなりイメージが変わっている。
俺も相当驚いてはいるが、名前の方は俺がいるということ自体に相当驚いているようで、目を見開いたまま動かない。それにしても、一体、何があったのだろうか。


「なんで、ここに…?」
「いや、まあ…なんか言いたそうだったのが気になったから来ただけだ。それよりその髪、どうした?」
「これは…あの……失恋、しちゃったかなと思って…切ったの……」


仕事中とは違って柔らかい口調。それに安堵する暇もなく、名前の口から紡がれた言葉に、今度は俺が固まる番だった。今名前は俺と付き合っているはずで、そうなると失恋というのは、つまり俺にフラれたと思っているということになるのだろうか。
待て待て。ここ最近、俺を避けているというか、俺そっちのけで上司と仲良くしていたのは名前の方だったはずだ。どちらかというと俺の方がフラれたと思ってもおかしくないというのに、ワケがわからない。


「俺と付き合ってるんじゃねぇのか?」
「そうだよ。だけど私、伊佐敷さん…純さんに、そんなに好きって思われてないのかなって…」
「は?」
「だって!私がどんな態度とっても平気な顔してるし、ちょっと仲の良い先輩に手伝ってもらってわざと嫉妬させるようなことしたのに何も言ってこないし…今日、誕生日なのに…一緒にいてくれないみたいだったし…だから、やっぱり純さんは私のこと好きじゃないんだって思っ…!」
「お前、馬鹿だろ」


本当に馬鹿だ。名前も、俺も。それまでそんなに触れたことがなかったのに、俺は今、こんなにも容易く名前を抱き締めている。本当は随分と前からこうしたかったのにそれができなかったのは、愛す自信も愛されている自信もなかったからだ。
この上ないほど嫉妬していたし、ヘコんでいた。誰よりも先に誕生日を祝ってやりたかったし、一緒に過ごしたいと思っていた。けれど、無駄に大人になってしまった俺は素直にそれらを伝えることができなくて。きっと名前も、俺と同じだったのだろう。だから俺を試すようなことをしたのだ。


「誕生日おめでとう」
「ありがとう…」
「ちゃんと、祝いに来た」
「うん…」
「好きだ、名前」
「…うんっ、私も…!」


心を通わすのは、こんなにも簡単だった。