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岩泉一の場合
岩泉さん、という呼び方から、はじめさん、という呼び方に変わったのはいつ頃だっただろうか。年上の彼のことは、付き合い始めてからも暫く岩泉さんと呼んでいたはずなのに、いつの間にか名前で呼ぶようになっていた。はじめさんの方も、ごく自然な流れで名字呼びから名前呼びに変わっていたから気にかけることもなかったのだけれど、きっかけを尋ねられると首を傾げてしまう。
土曜日に時々仕事が入るはじめさんと違って私は完全に土日休みなので、土曜日の日中は割と自由時間になることが多い。今日もそうで、夜ご飯は一緒に食べようかと話をしているのだけれど、それまでは特に予定がなかった。
外食が良いかなあ。それとも家で作って待ってた方が良いかなあ。どっちにしたってはじめさんは絶対に文句を言わないのだけれど、毎回迷ってしまう。そうして結局、私はいつものようにはじめさんに連絡した。どっちが良いですか?と。きっと返事は、任せる、とか、名前の好きな方で良い、とか、そういう感じなのだけれど。


「あれ、珍しいな…」


間も無くして返事がきたことを確認した私は、思わず独り言を漏らしてしまった。いつもの返事とは違って、今日は家が良い、という明確な要望があったからだ。まあ、そういう時もあるか。
少し違和感を覚えたものの、分かりました、という返事をして夜ご飯の献立を考えていると、またもや震える携帯。やっぱり外食にしよう、と。はじめさんにしては非常に優柔不断である。不思議には思ったけれど仕事中にあれこれ尋ねるのも憚られたので、私は再び了承の返事をするのだった。


◇ ◇ ◇



夜になり、はじめさんから連絡があった。いつも適当な場所で待ち合わせて行きつけの居酒屋さんやラーメン屋さんに行くのに、今日は店を予約してあると言う。やっぱり、今日のはじめさんはいつもと違う。
予約してあるということはそれなりのお店ということなのだろうか。詳しく尋ねなかったけれど、いつも夜ご飯を食べに行く時よりも少しきちんとした格好をして家を出る。はじめさんは仕事終わりのスーツ姿で待ち合わせ場所にいて、その姿を見つけただけで自然と小走りになった。


「お疲れ様でした」
「おう。行くか」
「はじめさんが予約までするなんて珍しいですね」
「…まあ、たまにはな」


どうにも歯切れが悪かった。お店までの道中も特別な話題があるわけではなくいつも通りではあるのだけれど、なんとなく上の空というか。それはお店に着いてからも同様だった。
はじめさんは以前、堅苦しいのは苦手だ、と言っていたはず。それなのに、予約してくれていたお店はどこからどう見ても「堅苦しいお店」だ。きちんとした格好をしてきて良かったと胸を撫で下ろす反面、はじめさんの心情が読み取れなくて不安になる。
たまには、なんて気紛れでこんなお店を予約するだろうか。恭しく注文をききにきたウェイターさんにはじめさんが何かを頼むのをぼーっと見つめながら、私は不安と疑問を募らせるばかりだ。


「はじめさん…今日、何か特別な日でしたっけ?」
「え?いや。別に」
「ですよね…じゃあどうしてこんなお店に?」
「あー…それは…まあ…」


いつも言いたいことはきっちり言うはじめさんが、今日だけはやけに言葉を濁す。それが最も気がかりではあった。何か言いにくいことを隠しているのではないか、と。私に言いにくいことなんて、ろくなことが思いつかない。
タイミングよくと言うべきか悪くと言うべきか、運ばれ始めたコース料理の数々。結局、美味しいけれど慣れない料理を食べることに苦戦している間に時間は過ぎていて、デザートを食べ終えた私達はお店を後にした。


「美味しかったですね」
「そうだな…」
「どうかしました?」
「いや、なんでもねぇよ」
「そういえば今日は…」
「岩泉さん?」


今日はうちに泊まりに来ますか?と尋ねようとした私のセリフを遮って、目の前から現れた女性がはじめさんの名前を呼んだ。はじめさんも私もそちらに顔を向ける。
私は知らない人だった。けれども、呼ばれたからには知り合いだったのだろう。はじめさんは、こんな時間まで何やってんだ?と、親しげに話しかけている。口ぶりからすると会社の後輩にでもあたるのだろうか。なぜか胸がざわつく。


「あの…岩泉さんに相談したいことがあって…」
「急ぎか?」
「そういうわけではないんですけど…あの…職場では言い出しにくくて…」
「そうか…」
「はじめさん、私のことなら気にしないでください」
「え?」
「話、きいてあげてください。また連絡しますね」
「おい、名前、」


後輩らしき女性からの縋り付くような視線に気付いて咄嗟に口走っていた。はじめさんはきっと、後輩の面倒見も良いのだろう。だからこうして頼られることは少なくないはず。人望も信頼もあって、そんなはじめさんのことを彼女として誇りに思う。
けれども、プライベートでは迷わず私と一緒にいる時間を選んでほしかったなあ、なんて、1人で帰路につきながら思ってしまう私は我儘だ。自分から、私は大丈夫だから話をきいてあげて、と突っ撥ねたくせに。それでも、もしかしたら追いかけて来てくれるんじゃないかとほんの少しでも期待していたのは事実で。
わざと少しゆっくりとした歩調で歩いていた私だったけれど、背後から人の気配がすることはないまま家に到着。その日、はじめさんからの連絡は何もないままだった。


◇ ◇ ◇



喧嘩をしたわけではない。けれどもなんとなく気まずい空気が流れているような気はする。今までが穏やかで順調すぎただけかもしれないけれど、あの日を境に私とはじめさんの間には不穏な空気が立ち込めていた。
元々そこまで連絡を取り合ったりしていたわけではないから、何がどう変わったのかと尋ねられると返答に困る。ただ、確実に今までとは違うのだ。あの日のはじめさんの不可解な行動の意味も分からないままだし、あの女性とどうなったのかも勿論知らないし。
はじめさんに限って、まさか浮気とかそういうことは絶対にないと思う。信じている。けれども、相談に乗っているうちに、もしかしたら親密な関係になったりしていないか、などと思い始めている自分もいる。ああ、もう、駄目だ。仕事中なのに何を考えているのか。
そんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま迎えた金曜日の夜。はじめさんが私の家に来ることになった。飯食いに行っていいか?と。断る理由もないので了承したけれど、さて、何を作ろうか。何を作っても美味いとしか言わないはじめさんのことを思い浮かべながら、私は久し振りに気持ちが軽くなっているのを感じた。


「美味かった」
「それは良かったです」


和食でまとめた夜ご飯を、はじめさんは案の定すべて平らげておかわりまでしてくれた。お互いの家を行き来しているため、うちに置いているスウェット姿で寛いでいるはじめさんは、いつものはじめさんだ。先週のアレは何だったのだろうか。疑問を抱いたままじーっと見つめていたせいで視線に気付いたらしいはじめさんが、なんだよ、と眉を顰める。


「先週のはじめさん、ちょっと様子がおかしかったなと思って…」
「あー…そうか?」
「そうですよ。何かありました?」
「いや、何もねぇけど…」


そっぽを向かれた。そしてまた歯切れが悪い。さすがの私だって、これだけ態度が違えば不信感を抱いてしまう。


「私には言いにくいことですか?」
「……あー!くそっ!もうやめた!」
「え…やめたって、何を…?」


頭をガシガシと豪快に掻き毟ったはじめさんは、勢いよく座っていた椅子から立ち上がると私に近づいてきた。その眼光は今まで見たことがないぐらい真剣で硬直してしまう。


「色々考えたけど、今言うことにした」
「はあ…」
「俺と結婚してほしい」
「………は?」


何がどうなって今に至るのか、さっぱり分からない。ただ、こんな大切なことを冗談で言う人ではないということは明らかだったので、言われた言葉の内容を理解した瞬間、私は息をするのも忘れて固まってしまった。
何も言えずに目を丸くさせて立ち尽くしている私に、はじめさんはバツが悪そうに言う。プロポーズのことを友人達に相談したら、シチュエーションが大切だと言われたこと。だから気合いを入れてそれらしいお店を予約したけれどプロポーズのタイミングを逃してしまったこと。また近いうちにリベンジしようと思ったけれど私に上手く隠しきれなくて今伝えてしまったこと。
きけばきくほど、はじめさんらしいなと思った。私のことを思って考えてくれていたことなのに、当の本人である私は何も知らずに不安になっていて、今となっては面白くすら感じる。ほんの少しでも浮気されたんじゃないかと考えた自分が馬鹿馬鹿しい。


「俺には名前しかいねぇと思ってる」
「…はい」
「幸せにしてやれるかは分かんねぇけど、名前と一緒なら俺は幸せになれると思う」
「ふふ…私も、はじめさんと一緒なら幸せですよ」
「こんなプロポーズの仕方で悪ぃ…」
「はじめさんらしくて嬉しいです」


これからも宜しくお願いします。満面の笑みで伝えれば、はじめさんもつられたようにキラキラした笑顔を返してくれた。
夜景の見えるレストラン。指輪を花束とともに渡されてプロポーズ。そんなドラマみたいなシチュエーションもありかもしれないけれど。どこで、どんなシチュエーションでされたって、答えは決まっている。相手がはじめさんだったら、私は幸せになれるって知っているのだから。

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