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ジキルとハイドの化けの皮


※社会人設定


昼休憩が終わったオフィス内。ひやり肌寒いのと、じとり蒸し暑いのと、そのちょうど間。つまり私にとってこの空間は快適だった。のに、


「あっついな〜」
「あ、」


何の断りもなく空調を強にされて、オマケに設定温度まで低くされた私のテンションは、そりゃあもう当たり前のように急降下。そんなことで、って思われるかもしれないけれど、このつまらない職場という空間では、そんなことぐらいでしか感情の浮き沈みに変化がないのだ。
間も無く、ブォーンという音を立てて冷たい空気が流れ込んできた。私めがけて容赦なく。私の席は空調の風が直接流れ込んでくる位置にあって、それはそれはもう寒い。ほんの数分、数秒前までは快適だったのに最悪だ。もう帰りたい。けれど、時計の針は無情にもまだ帰りの時刻をさしてくれてはいなかった。あと数時間このままなんて、地獄も良いところだ。
そう簡単に人間は死なない。そんなことは分かっているけれど、凍死したらどうしてくれるんだ、という極端な恨みをこめて、素知らぬ顔でシャツの袖を捲り上げてパタパタと自身を扇いでいるおじさん上司を密かに睨む。そして、現状がどうにもならないことを理解している私は、仕方がなく常備している地味で安い黒色のカーディガンを羽織って、これもまた常備している可愛げがなくて薄っぺらいブラウン一色のブランケットを膝にかけた。


「これ、あげる」
「え?」


コトリと控えめな音を立てて私のデスクに置かれたのは温かいミルクティーの缶。背後から音もなく現れたその人は、ふわり、色素の薄い茶色い髪を揺らして微笑んでいた。


「間違えてあったかいの買っちゃって。もらってくれない?」
「でも、」
「いらないなら捨ててくるけど」
「……じゃあ、いただきます」


ミルクティーに罪はないし、冷えた身体にはちょうど良かったので有り難くいただくことにする。どーぞどーぞ遠慮なく、と穏やかに、柔らかく微笑んだまま言うのは、無駄に顔が整いすぎている3つ年上の先輩だ。
社内でこの人のことを知らない女はいないと思う。高学歴で仕事もできると評判。イケメンで高身長、柔らかな物腰と口調。気が効く上に優しい。こんなパーフェクト人間がいても良いのか?そもそも本当に同じ人間なのか?高性能ロボットじゃない?そんなことを考えてしまう程度には、出来すぎた人。そりゃあどんな女でも放っておかない。
勿論、一応ではあるけれど生物学的分類でいくと女である私も例外ではなかった。だから今みたいに綺麗な微笑みを向けられただけで、簡単にほわりと感情が浮き上がる。しかもミルクティーまで貰ってしまったのだ。これはもしかしたら記念に取っておいた方が良いかもしれない。いや、衛生的によくないのでさすがにそんなことはしないけれど、気持ちの問題で。
早速プルタブを開けて一口飲めば、自己中なおじさん上司のせいで一瞬にして冷えてしまった身体に、温かなミルクティーが染み渡っていく。ああ、美味しい。グッドタイミングすぎる差し入れにホッと一息ついたところで、はたと気付く。
そういえば及川さんからのこういう差し入れは今回が初めてではない。暑い夏の日に外回りから帰ってきた時に冷たいジュースを奢ってくれたり、今から残業だ…とテンションが下がりまくっている時に小さなコンビニスイーツをくれたり。些細なことではあるけれど、いつも決まってタイミングよく現れては颯爽と去って行くのだ。スマートな男というのはどんな女にも細やかな気配りができるようにインプットされているのだろうか。だとしたら、出来すぎていっそ恐ろしい。
そんなことを考えながらぼーっとしていたのがいけなかったのだろう。私はどうやら無意識のうちに彼を目で追いかけていたらしく、バッチリ目が合ってしまった。逸らすのもおかしいので、あくまでも先ほどのお礼、というつもりで会釈して誤魔化してはみたけれど、不自然だったことは間違いない。


「名字ちゃんさ、」
「はい」
「俺のこと見てたでしょ」
「…相変わらず整った顔立ちをしていらっしゃるなあと思って、つい」
「ふーん。それだけ?」
「と言いますと?」
「それ以外の理由があるんじゃないかなって」
「例えば?」
「言っちゃっていいの?」
「…どうぞ?」


クエスチョンマークの応酬だった。尋ねて、疑問形で返されて、また疑問形で返して。彼の頭の中は全く読めない。ただ、私の方は内心ドキドキしているし上手く言葉を発することができているかどうかも分からない状態だけれど、恐らく彼の方はそんなことはないだろう、ということだけは分かる。
ふわり、柔らかな笑顔が傾けられて心拍数が上がった。この人は、自分の顔面偏差値の高さを自覚していて、わざと笑顔を振り撒いているのだと思う。なんとあざといのか。しかしそのあざとさを分かっていても勝手に心臓が反応してしまうのだから仕方がない。そして彼はきっと、私のドキドキを知って尚、更に追い討ちをかけてくるに違いないのだ。


「俺に気があるのかなあって」
「まさか。及川さんは雲の上の存在の人ですから…憧れるだけで精一杯ですよ」
「へぇ。そう」


定時をほんの数分過ぎた時間帯。周りは帰り支度をしている人や残業に勤しむ人、飲みに行くー?などと声をかけ合う人で賑やかだ。そんな中、いつもの明るいトーンとは違って冷ややかな彼の声音が耳に届いて、一瞬たじろぐ。あれ?及川さんってこんな雰囲気だったっけ?なんか、怒ってる?
座ったままの私は、ただでさえ背の高い彼の顔を見上げて様子を窺うことしかできない。何だこれ。こんなの初めてなんですけど。及川さんと話ができるのは嬉しいけれど、こんなことになるなんてきいてない。私にどうしろって言うんだ。


「名字ちゃんって鈍感なの?」
「は?」
「そうじゃなきゃ馬鹿なの?」
「え、あの、は?」
「それともそういう戦略?」
「ちょっと、及川さん、」
「結構マジメにシタタカにアプローチしてたと思うんだけど?」
「アプローチ…、って…」


鈍感で馬鹿。もしかしたらそうかもしれない。けれど、残念ながら鈍感にも馬鹿にもなりきれていない、かと言って戦略を練ることができるほどやり手でもない宙ぶらりんな脳味噌は、もしかして、という期待だけでピンク色に染まっていく。
そんなこと有り得ないって、夢見すぎだって、浅はかさを嘲笑う自分と、期待してもいいよって、今度はこっちから何か言っちゃえよって、背中を後押しする自分がせめぎ合う。私、二重人格でもなんでもないのに。ああもうどうしよう。どう、しよう。
優しいはずの及川さんは、こういう時に私を助けてはくれない。私のデスクに寄りかかって、さてこれからどうするの?とでも言わんばかりの表情で見下ろしているだけ。こんな時でも綺麗な顔しやがって。イケメンはこれだからズルい。


「及川さん、」
「なぁに?」
「…今日はもう帰りますか?」
「うん」
「何か予定は…?」
「ないよ」
「じゃあ、ご飯、行きましょうよ」
「2人で?」
「ふたり、で」
「名字ちゃんにしては頑張ったねぇ」
「…なんですか、それ」
「顔、必死だから」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「はは、俺かな」
「分かってるなら…!」
「ごめんごめん。いい加減、焦れったかったからさ」


ぽん、と頭に置かれた手。じゃあ行こっか、と笑う彼はすっかりいつもの柔らかな雰囲気に戻っていて、さっきまでのひやりとしたオーラはなりを潜めている。


「及川さんって二重人格なんですか?」
「んー?どうして?」
「さっき…いつもと違ったから」
「ああ…俺のこと、もっと知りたい?」
「知りたい、です」
「いいよ。教えてあげる…特別に、ね?」


私に顔を寄せ口元に長い指を当ててウィンクをひとつ。だから。イケメンはズルいんだってば。騙されてたっていいやって思っちゃうじゃないか。