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アニュレール・スクレ


※社会人設定


私にはずっと気になっている人がいた。入社してから1年。彼を目で追うことが習慣化しているあたり、かなり重症だという自覚はある。漫画の世界から出てきたと言っても過言ではないほど理想的な見た目とスペック。彼に憧れている人や心を奪われている人は私以外にも腐るほどいるだろう。
けれども、誰1人として彼に深入りする女性はいなかった。少なくとも、表立って彼に言い寄る勇気がある人はいないと確信を持って言うことができる。それはなぜか。


「名字さん、お疲れ」
「及川さん…お疲れ様です」
「仕事、終わりそう?」
「もう少しですかね…お気遣いありがとうございます」


彼は、及川さんは、見た目だけでなく性格も柔和で、そんなところも人気の理由だった。今だって私のようなどこにでもいる平社員の1人に労いの言葉をかけてくれる。そんな優しさが、私の心臓を締め付けているとも知らないで。
どーぞ、と机の上に置かれたのはカフェオレ。カフェオレに視線を送った時に嫌でも目に入るのはキラリと光る薬指の指輪。そう、及川さんの左手の薬指には指輪がしっかりと嵌められている。これではどんなにステキな人であろうとも、及川さんに言い寄ることはできない。
そりゃあこれだけのハイスペックな人だから彼女の1人や2人いてもおかしくはないのだけれど、左手の薬指に指輪を嵌めているということは結婚しているのだろうか、なんて詮索したところで、傷を抉るだけなので誰も深追いはしないのだ。


「仕事終わったらさ、ご飯行かない?」
「えっ」
「そんなに驚くこと?」
「他に誰か誘ってるんですよね?」
「俺と名字さんの2人だけど」


何か問題でも?と言わんばかりに大きな瞳を私に向けて小首を傾げる及川さんに目眩がした。問題大アリだ。先にも述べたように、及川さんには恐らく特定の相手がいる。にもかかわらず、一応は異性にあたる私が及川さんと2人きりで食事なんて、相手の人にバレたら大変なことになってしまう。
本当は、社交辞令だとしてもただの気紛れだとしても、誘われたこと自体は飛び跳ねるほど嬉しかった。うっかり、行きたいです、と素直に言ってしまいそうになったけれど、ギリギリのところで踏み止まることができて良かった。


「お気持ちは嬉しいですけど、遠慮しておきます」
「なんで?」
「え…なんでって…」
「俺、結構人気あると思ってたんだけどなあ」


はい。そりゃあもう大人気ですよ。ですけどね。モテる人というのは、こうして軽々しく浮気紛いな行動を取る習性があるのだろうか。及川さんのお相手に少しだけ同情する。


「食事なら彼女さんと行けば良いじゃないですか」


なんとなく苛々してしまって、刺々しい口調になったことは認める。けれども、私は間違ったことは言っていない。
実は仕事はほとんど終わっているのでいつでも帰ることができる状態だ。しかし、及川さんが先に帰ってくれなければ気不味い雰囲気になることは間違いない。既に気不味さで溢れかえっている現状でごちゃごちゃ考えても仕方ないのだけれど、この期に及んで、私はまだ及川さんに少しでも嫌われない方法を模索している。


「俺、彼女なんていないけど」
「え?でも、指輪…彼女じゃなくて奥さんですか…?」
「まさか!俺は独身だし今はフリーなの」


まさかの返答に開いた口が塞がらない。そんな私を見てケラケラと笑っている及川さんは非常に楽しそうだ。そうしてひとしきり笑った後、及川さんは自分の薬指からするりと指輪を外してニコリと笑った。


「これは女避け」
「女避け…」
「名字さんみたいに勘違いしてくれると変な人が寄り付かなくて楽だから」
「はあ…そうだったんですか…」


言われてみれば納得だけれど、騙されていたという事実を知った私は複雑な心境だ。あれ、でも待てよ。それを私にカミングアウトして良かったのだろうか。言いふらしたりはしないけれど、こんなにもあっさりとそこそこ大切な秘密を暴露したりして。
戸惑ったまま呆然としている私に、及川さんは相変わらず綺麗な笑顔を傾けてくる。どくり。心臓が大きく跳ねた。


「…で、どうする?」
「へ…?」
「夜ご飯。付き合ってくれますか?」


俺と2人きりでも良ければ。
きっと確信犯だと思う。私が動揺していることも、好意を寄せていることも分かった上で、及川さんは尋ねてきている。それこそ、弄ばれているのかもしれない。本当に気紛れなのかもしれない。そもそも、本当は彼女がいるのに嘘を吐いている可能性だって捨てきれない。
可能性の話をし始めたら無限にあってキリがないのだけれど、結局のところどんな可能性があろうとも私が選ぶ答えは決まっていた。そして及川さんは、もうその答えを知っているに違いない。


「私で良ければ…ぜひ」
「そう言ってくれると思ってたよ」


じゃあ行こうか、と言った及川さんは、いつから私の仕事が終わっていることに気付いていたのだろうか。私なんかより一枚も二枚も上手な及川さんに、胸はドキドキしっぱなしだ。
及川さんの指輪の意味を知っている女性が私以外でどれほどいるのかは分からないけれど。今は及川さんの言う、名字さんだけだよ、という甘ったるいセリフを鵜呑みにしても良いかもしれない。