×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

シガレットランキライザー


※社会人設定


あ。この香り。懐かしい。
仕事終わりの金曜日。私は1人、雑居ビルの1階にひっそりと佇むバーでお酒を嗜んでいた。独身アラサー女が1人でお酒を楽しむには、こういう店がちょうど良いのだ。私は頼んだばかりのカクテルを口に含むと、微かに鼻を掠めた匂いに昔を思い出していた。


◇ ◇ ◇



それはもう2年も前のこと。私には当時、2歳年上の彼氏がいた。誰から見てもイケメンで、スタイルも良くて、仕事もできて、彼女だった私をとても大切にしてくれる、まるで漫画の中から飛び出してきたんじゃないかと思うぐらい完璧な彼氏が。
彼とは同じ会社に勤めていたけれど配属部署は違っていて、最初は噂でしか耳にしたことがなかった。だから初めて会った時は、本当にこんな完璧な人がいるんだ…と驚いたものだ。
そこから何がどうなって私のことを気に入ってくれたのかは分からないが、出会ってから半年ほどした頃、私は突然、彼に告白された。夢じゃないかと思って頬を抓ってみたけれど、夢じゃなかった。私なんかで良いのかと尋ねたら、確か彼は、名前ちゃんが良いんだよ、と微笑みながら言ってくれたっけ。
実はその時、私は彼を仕事における憧れと尊敬の対象としか見ていなかったので恋愛感情はなかった。けれど、こんなに素敵な人の告白を断るなんて恐れ多いと思ってしまった私は、その告白を受けたのだった。
それからの日々は、私が生きてきた中で1番輝いていた時間だろう。彼は私をとても大切にしてくれたし、凄くモテるはずだから浮気をされても仕方ないだろうなと思っていたのに、そんなことは一度もなかった。とても幸せだった。そして気付けば、私はいつの間にか、彼のことを好きになっていた。
まさに順風満帆。このまま幸せな時間が続くのだろうと、そう思っていた矢先、彼が海外の支社に栄転することが決まった。仕事ができる彼は将来を有望視されていたので、少し考えればそんな未来が訪れることは簡単に予想できただろう。けれど、当時の私には衝撃的なことだった。
今まで当たり前のように隣にいた彼がいなくなる。その声をきくことも容易にはできなくなる。そう思うと苦しくて、辛くて、涙が出た。けれど私は、行かないで、なんて言えるような立場ではなかったし、彼の今後のことを思えば温かく送り出すのが筋だった。日本にいつ帰ってくるかも分からない。一生帰って来ないのかもしれない。不安でいっぱいだったけれど私は、行ってらっしゃい、と。彼を笑顔で送り出した。
ちゃんと連絡もするし電話もする。だから俺のこと、待っててね。
そう言って私を抱き締めてくれた彼は、海の向こうに旅立って行った。最初の1ヶ月はメールや電話でやり取りをした。学ぶことも多くて大変だけど充実してる。名前ともいつかここで働きたい。そんな風に言ってくれて嬉しかった。
けれど、月日が経つにつれて、彼とのやり取りは減っていった。最初は忙しいんだろうから仕方ないと思っていた。迷惑をかけたり足手纏いになることだけは避けたくて、どれだけ連絡がなくても、私の方から行動を起こすことはなかった。そうして気付いた時には、彼からの連絡は1年以上途絶えていた。
これが自然消滅というやつなのか、と。身を以て思い知った。彼が海外に行ってしまうことになった時点で、薄々こんな結末になることは予測できていたのかもしれない。私は意外にもすんなりと、自分と彼の関係が終わりを迎えたことを受け入れることができた。
あんなに好きだったのに、不思議と涙は出なかった。抱き締めてくれた時の温もりも、優しい声音も、もう忘れた。ただ覚えているのは、彼がいつもつけていた香水の香りと、たった一度しか嗅いだことのない煙草の匂い。
彼が煙草を燻らせている姿を見たのは、付き合って3ヶ月ほど経った頃だっただろうか。情事後にいなくなった彼を追ってベランダに出た時、暗い夜空をバックに白い煙を棚引かせている彼に見惚れてしまった。絵画の一枚にでもなりそうなそれを見て、思わず、綺麗…と。そう呟いた私の方を見た彼は、慌てて煙草の火を揉み消した。
今日で吸うのは最後にしようと思うんだ。もう吸わなくてもよくなったから。
彼はその時、バツが悪そうにそう言った。その言葉通り、その日以降、彼が煙草を吸う姿を見ることはなかった。あんなに綺麗だったのに勿体無いなあとは思ったけれど、身体のことを考えるとやめた方が良いのは明白だったので、私から何かを言うことはなかった。ただ、たった一度しか嗅いだことのないその煙草の香りが、私はどうしても忘れられなかった。


◇ ◇ ◇



こんな苦い過去を思い出してしまったのは、彼と同じ香水の匂いがしたからだ。どんな人がつけているんだろう。カウンターの端。席1つ分を空けたそこに現れた人の方に少しだけ顔を傾けてチラリと視線を流す。そして私は、自分の目を疑った。
ほんの少し髪型が変わっただけで、見間違えるはずもない。そこに座っていたのは、遠い異国の地にいるはずの、先ほど私の頭の中を占領していた彼だったからだ。
私が顔を傾けたまま不自然な角度で固まっていたからだろうか。彼がこちらを向く気配がして、慌てて姿勢を正す。大丈夫。きっと彼は私だってことに気付いていないはず。なんでここに?とか、仕事は?とか、なんで連絡してくれなくなったの?とか、色々ききたいことはあったけれど、あまりの急展開に頭がついていかない私は、声をかけることなどできなかった。
ここで急に立ち上がって帰るのも不自然だし、この一杯を飲んだら帰ろう。そう思って、グラスの中のお酒を一気に飲み干した時だった。


「ジンライムでございます」


そう言ってバーテンダーさんがカウンター越しに勧めてきたのは、薄いライムグリーンのお酒。私、頼んでませんけど…。戸惑いながらそう伝えると、バーテンダーさんはにこりと笑った。


「あちらのお客様から、あなたへ、と」


あちらのお客様、と手で示した方向に座っているのは、間違いなく彼で。私はどんな顔をしたらいいのか分からない。もしかして、私だって気付かれてる?いつから?
目の前に出されたお酒を穴が空くんじゃないかってほど見つめている私の元に、ゆっくりと誰かが近付いてくる気配。誰か、なんて、そんなの分かってる。


「久し振りだね、名前…元気にしてた?」


ぞわり、と。身体が震えた。忘れたはずの声が耳を通して脳に伝わって、記憶を呼び起こす。2年前と何ひとつ変わらず私の名前を大切そうに呼ぶその声音に、じわじわと視界が滲んだ。
元気にしてた?って、そんなの、どの口が言うんだ。急に現れて、私の心を掻き乱して。今更、何をしたいというのだろう。


「なんで…ここに、いるの…?」
「雰囲気良さそうな店だなーと思ったら名前に似た人が入って行くのが見えたから。まさか本当に名前だとは思わなかったけど」
「そうじゃなくて。なんで、日本に、いるの…?」
「……来月から、こっちに戻ってくるんだよ」


その言葉に、思わず彼……徹の顔を見上げてしまった。相変わらず整った顔は、またほんの少し大人びただろうか。ゆるりと微笑む表情は、あの頃のままだ。
来月から日本に戻ってくる。それをきいて、嬉しいはずなのに胸が苦しくなった。だってもう、私と徹は何の関係もない。帰ってきてくれたところで、ただの上司と部下でしかないのだ。こんな残酷なことって、きっとない。


「連絡…できなくてごめんね」
「…もう、2年も前のことでしょ。気にしてないよ…」
「俺はずっと、気にしてたよ」
「え」
「名前のこと…ずっと、考えてた」


なんと愚かな嘘を吐くのだろう。そんなはずないじゃないか。だって、連絡をしてこなくなったのは徹の方だ。私がどんな思いで連絡を待ち侘びていたかも知らないくせに、なんで今になってそんなことを言ってくるのか。
悔しくて、堪えていた涙が頬を伝った。慌てて俯いて目元を拭うが、一度流れ始めてしまった涙は止まらない。


「ごめん…試してたんだ。俺ばっかり名前のこと好きなんじゃないかって不安で…」
「え…?」
「俺が海外赴任が決まった時も寂しそうな顔ひとつせずに送り出してくれた。むこうに行ってからも俺が連絡したらすぐに返事してくれたし、俺がなかなか返事できなくても黙って待っててくれた。全部俺のためにしてくれたことなんだろうなって、分かってた。でも、」


お前は一度も、俺を求めてくれなかったよね。


ぴたりと。涙が止まった。
徹の海外赴任が決まってから、私は1人になると決まって泣いていた。けれど、徹の前では努めて笑顔で振る舞った。寂しいとか行かないでほしいとか、そんなことを言うと重荷になりそうで怖かったから、決して言わないようにしていた。
むこうに行ってしまってからも、もっと連絡がほしいとか、声が聞きたいから電話したいとか、何度思ったか分からない。私の方から連絡しようとしたことも何度もあった。けれどその度に、重たい女だと思われたくないという心理が働いて、結局行動に移すことはできなかった。
全部、徹のために、徹のことを思ってしているつもりだった。けれどそれは、全部、自分を守るためだったのかもしれない。私はこんなに我慢していたのに、と。悲劇のヒロインにでもなろうとしていたのかもしれない。いつかは訪れるであろう別れの時に、自分が惨めな思いをしなくて済むように。


「俺から連絡しなかったら、名前から連絡してきてくれるんじゃないかって期待してた。でも、名前は連絡してきてくれなかった。俺ってその程度だったのかなあ、ってさ。結構ヘコんだんだよ?」


徹はどんな顔をしているのだろう。俯いたままの私には、分からない。その表情を窺う勇気もない。だってそれは、2年前の話だ。今更どうやって謝ればいいというのだろう。何を伝えれば許してもらえるというのだろう。
徹はただ、優しいばかりだった。何ひとつ悪くない。私のせいで、終わってしまったのだ。彼との、全てが。


「ジンライムのカクテル言葉って知ってる?」
「…カクテル、言葉?」
「うん。花言葉みたいにね、意味があるんだよ」


唐突にそんなことを言われて、私は不思議に思いながらも首を横に振った。急にカクテル言葉なんて言われても、花言葉ですら知らない私が、そんなの知っているわけがない。


「色褪せぬ恋」
「……え、」
「俺、諦め悪くてさあ…もう2年も経つのに名前のことが忘れられないんだよね。未練がましいでしょ」
「そんな、こと…!」


私は何かに弾かれたように顔を上げた。するとそこには、泣きそうなくせに笑っている徹の顔があって息が詰まる。
未練がましいのはどっちだ。この2年、徹のことを忘れようとして必死にもがいた。新しい彼氏を作ろうとして、合コンにも行った。けれど結局、私はいつも心のどこかで徹と比べてしまう。徹だったらこうしてくれるのに。徹だったらああ言ってくれるのに。何度そんなことを思っただろう。
だからこの2年、私には彼氏ができなかった。このまま一生、1人なんだろうなあ。それも気楽で良いかもなあ。そんな風に、自分で自分に言い訳をし続けていた。


「そんな顔しないでよ」
「ごめ、なさ…っ、私、ずっと怖くて、」


堰を切ったように溢れ出した涙を拭いながら、私は徹に全てを打ち明けた。
徹と過ごす時間が何より幸せだったこと。海外赴任が決まった時、本当は離れたくないと思ったこと。寂しくて1人で泣いていたこと。行かないでと言いたかったこと。むこうに行ってからも連絡が待ち遠しくて仕方なかったこと。もっと頻繁に連絡してほしいと思っていたこと。自分から何度も連絡しようとしたけれどできなかったこと。この2年、徹のことを忘れようとしたけれどちっとも忘れられなかったこと。
徹は黙って、時に私の背中を優しく撫でながら話をきいてくれた。薄暗い店内には、いつの間にか私達だけになっている。バーテンダーさんは店の奥にあるテーブルのところで後片付けをしていて、私達の周りには誰もいない。
全ての話を聞き終えた徹は、ふう、と息を吐いた。話している間に冷静になってきたのか、私の涙は止まっている。あの、さ。徹が口を開いた。


「まだ俺のこと、好きって思ってくれてるってことで良いのかな?」
「…うん」
「そっか…嬉しい」
「徹は?徹は…どう思ってるの?」
「そりゃ勿論、大好きだよ。ずっと、ね?」


徹は幸せそうに笑って、私の身体を抱き締めた。温かくて落ち着く。鼻から吸い込んだ香りは、あの頃と同じ香水の匂い。……と、微かに、煙草の匂い。
あれ?やめるって言ってなかったっけ?私は抱き締められたままの状態で徹を見上げる。


「煙草、また吸ってる?」
「え。あー……、うん……むこうに行ってから、また吸い出した」
「ふーん…もう吸わなくてもよくなったって言ってたのに」
「……責めるつもりはないけど、また吸い始めたのって名前が原因だから」


え?私が原因?首を傾げる私に、徹は苦笑いを浮かべている。


「名前にフられたと思ったらムシャクシャしちゃって…おかげで日本にいる時より吸う本数増えちゃったし」
「じゃあ、あの時、吸わなくてもよくなった理由って、もしかして…」
「煙草よりも優秀な精神安定剤を手に入れたと思ったから」


ふふ、と。悪戯が成功した子どもみたいに笑った徹は、胸ポケットから煙草の入った箱を取り出すと、カウンターの上に置いた。


「今度こそ、もうやめるよ。その代わり、」


もう名前のこと離さない。
強く、けれど優しく。再び私を抱き締めた徹は、耳元で甘ったるい告白をしてくれた。


◇ ◇ ◇



その日の帰り道、私は、えー?と渋る徹にお願いして、最後にもう一度だけ煙草を吸ってもらった。どうしてもあの煙草の煙を燻らす姿を見納めておきたかったのだ。
カウンターの上に置きっぱなしにしていた煙草をこっそり回収していた私は、その中の1本を渡す。なんでそんなに見たいかなあ…とぼやきつつも、人気のない公園の遊具に背を預けてライターで煙草に火を点けた徹は、それを口に咥えて大きく息を吸った後、ふーっと白い煙を吐き出した。
あ。やっぱり、綺麗。真っ暗な背景に白い煙。長い指で煙草を挟んで遠くを見つめるシルエット。これで最後になるならしっかり目に焼き付けておこう。


「やっぱり綺麗だよ。様になるね」
「そう?じゃあたまには吸おうか?」
「…ううん。もう十分」


揺らぐ煙と煙草の香り。懐かしいけれど、これからは徹の香りだけでいいや。私は徹が携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消したことを確認してから腰にぎゅうっと抱き着くと、香水と煙草の香りに混じる徹の匂いを大きく吸い込んだ。


「私、徹の匂い好き。落ち着く」
「名前、いつから匂いフェチになったの?」
「んー…徹に再会してから?」
「それってさっきじゃん。ていうか、好きなのって匂いだけ?」
「全部好きだよ。……ずっと、ね」


言った直後、見上げた徹の顔がゆっくり近付いてきたので、目を瞑る。唇と唇が重なってそれだけで溶けてしまいそうだ。
この2年間、悩んだり後悔してばかりだったけれど、またこうして徹と出会えて、一緒にいられることになって良かった。
キスに酔いしれる中、口の中に広がっていたのは、あの幸せだった日と同じ少し苦い煙草の味だった。