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うそつきは(恋)泥棒の始まり


 日本を離れて三年が経ったらしい。異国の地、しかも日本のほぼ裏側にあるアルゼンチンで仕事をしているなんて、いまだに現実味がない。今でこそアルゼンチンでの生活にはまあまあ慣れてきたけれど、それでも時々ホームシックに陥ることがあった。
 両親とはそこまで仲が良いわけではないものの、不仲でもない。親しい友人も片手で数えられるほどしかいないし、彼氏が待っていてくれるわけでもない。それでも無性に日本に帰りたいと思うことがあるのだから不思議なものだ。
 食べ物はいまだに口に合わない。アルゼンチンの料理も美味しいものは美味しいけれど、時々無性に白くてつやつやしたお米や温かい味噌汁が恋しくなることがある。英語やスペイン語もなんとか話せるようになった。しかしやっぱり日本語で話したいと思う。母国とは特別な場所だと再認識させられる日々である。
 これだけ不平不満があるにもかかわらず、なぜ私がアルゼンチンで仕事を続けているのか。答えはひどくシンプルで、今の仕事を途中で投げ出したくないという、ただそれだけだった。「やっぱり女は仕事ができない」「女に任せるんじゃなかった」と思われたくない。つまりほとんどは意地。私が意地っ張りで負けず嫌いな性格でなければ、早々に帰国していただろう。これが長所なのか短所なのかは微妙なところである。

 最初の一年は慣れることに精一杯で、プライベートの時間も語学の勉強や仕事の残務に追われていた。二年目になってようやくゆっくり買い物に出かけたり観光地に赴く余裕ができた。そして三年目、今の私は一人で街中をふらついて、気になる飲食店にふらりと立ち寄れるまでになっている。
 そうして見つけた路地裏の小さなお店。バーなのかと思ったら、日本でいうところの隠れ居酒屋、夜のオシャレカフェのような雰囲気で、初めて来店した時から気に入っている。料理もお酒も美味しいし、一人暮らしの寂しい女でも気兼ねなく過ごせるカウンター席があるのも魅力的で、気付いたら定期的に通うようになっていた。ご夫婦で経営しておりアットホームな雰囲気があるせいか、少し懐かしさが感じられるのもお気に入りポイントだ。

「いらっしゃい。今日は何にする?」
「エンパナーダとビノ」

 おじさんが愛想よく声をかけてきてくれたのでいつも通り注文をすませ、ぼーっとスマホの画面を眺める。SNSはやっていない。プライベートで自分の情報を発信する気もなければ知り合いの情報を受信する気もないから、私には必要ないのだ。仕事関係のやり取りは、会社から支給されたパソコンと仕事用のスマホで事足りる。プライベート用に持っているスマホなんてほとんどお飾りで、ちょっと調べ物をしたい時や暇潰しにアプリをする時ぐらいしか使わない。
 そういえばこっちに来てからはテレビもほとんどまともに見ていないなあと、今更のように思う。ニュースは毎朝なんとなくつけているけれどほぼBGMで、内容は頭に入っていない。真面目に見るのは天気予報ぐらいだ。
 私はたぶん、他人に興味がなさすぎる。これでよく社会人として成り立っているなあと自分でも感心するぐらい。そんな私に声をかけてきた物好きな男は、私と同じ日本人だった。

「日本人だよね?」
「そうですけど……」
「女の人に会ったの初めてだ! こっちに来て長いの?」
「え、と……三年目、です……」
「俺は四年目だから歳も近いのかな? 隣あいてる? 座っていい?」

 訊きながら座っているところを見ると私の返事は必要ないのだろう。日本人にしては背が高くがっしりしている。その手の仕事をしているのだろうか。何にせよ、同じ日本人だからといって見ず知らずの人間にこうも気軽に話しかけることができる社交性の高さには、驚きを通り越して警戒心が募った。
 まじまじと見ることはできないので横目でチラリと顔を確認。その一瞬だけで彼の顔が随分整っていることがわかった。社交性が高いイケメンなんて、ますます怪しい。

「とおる! 久し振りじゃないか! 元気そうだな!」
「忙しくてなかなかこっちに来れなかったんだ。最近やっと落ち着いたから帰ってきちゃった。マウロも元気そうだね」
「まあな。注文は? 腹へってるだろ」
「エンパナーダ」
「昔から好きだな。待ってろよ、すぐ作ってやるから」

 とおる、と親しげに名前を呼ばれているところを見ると、どうやら彼もこのお店をいきつけにしているらしい。ご主人と流暢なスペイン語で会話をしている姿を見る限り悪い人ではなさそうだけれど、今のやりとりだけで完全に信用することはできなかった。
 勝手に隣に座られてしまったものの、今のところ何か危害を加えられたわけでも不愉快なことをされたわけでもないので、離れる理由もない。そのまま座っていると、すぐに私が注文した料理とお酒が運ばれてきた。

「ここのエンパナーダ美味しいよね」
「え、あ、はい」
「俺も好き。マタンブレは食べた?」
「はい。美味しかったです」
「だよね! 嬉しいなあ……こんなに日本語で喋るの久し振り」
「私も、です」

 急に話しかけられて戸惑いはしたけれど、ほんの少し会話をしただけなのに、悪い人ではないのかも、と思わされた。話しやすい雰囲気や朗らかな笑顔に好感をもったからだろうか。おそらく「日本人」というだけで安心していたのもあるだろう。私と同じように母国を離れて頑張っている同志なのだと思ったら、少し興味もわいてきた。滅多に他人に興味をもたない私が、だ。
 何の仕事をしているのだろう。この近くに住んでいるのだろうか。このお店に来たのは久し振りのようだったけれど、何か理由があって離れていたのかもしれない。「温かいうちにどうぞ」と言われたので遠慮なく先に料理をいただきながら、自然と彼のことを考えている自分に驚く。それだけ彼は魅力的、ということなのだろうか。
 そうしているうちに彼の前にも料理が運ばれてきた。私と同じ料理。しかしその量は私の倍ぐらいあって、思わず凝視してしまった。私が食べている量も日本だったら二人前ぐらいあっていつも食べきるのが大変なのに、彼はパクパクと美味しそうに平らげていく。
 私の手が止まっていることに気付いたのか、彼が手を止めた。「食べないの?」と指摘されて、慌てて食事を再開する。しかし、いつもはなんとか食べきれるのに、今日はどうにもお腹がいっぱいで手が止まってしまう。

「食べきれないならもらっていい?」
「まだ食べられるんですか?」
「うん。追加で別のもの注文しようか迷ってたところ」
「それならどうぞ……」

 太っているわけではない。体格はいいけれど引き締まっている。それでいてこの大食い。それだけ肉体労働に励んでいるということなのだろうか。彼の謎は深まる一方だ。
 こちらが気持ちよくなるぐらい綺麗に料理を完食した彼は、丁寧に「ごちそうさまでした」と手を合わせた。この異国の地で日本の所作を見たのは初めてで、自分もすっかり忘れかけていたことを思い出し、彼に倣って「ごちそうさまでした」と言ってみる。これだけで懐かしさを感じるなんて、私は知らずしらずのうちにアルゼンチンでの生活に染まっていたのかもしれない。彼はきっと忘れていないのだ。日本での生活を。

「ね、名前なんていうの?」
「私ですか?」
「他にいると思う?」
「知ってどうするんですか?」
「どうもしないよ。ただ知りたいだけ」
「どうして?」
「なんかこう、ビビビっときちゃったから?」
「はい?」
「あれかな。一目惚れってやつ」

 悪い人じゃないのかも、むしろ良い人なのかも、と思いかけていた思考が、一気に崩壊した。私は人付き合いが上手い方ではない。だから初対面の人にぐいぐい距離を縮められるのは苦手だ。つまり私にとって、彼は典型的な苦手タイプ。その軽口のせいで、先ほどまでは好感を持っていた笑顔が急に胡散臭く見え始め、最初に声をかけてこられた時以上に警戒心が強くなる。
 私は思いっきり怪訝そうな顔をして見せた。初対面の人にそんなことを言われても困ります、信じられません、という気持ちを込めて。しかし彼は怯むどころか、私の顔をじぃっと見つめてくるではないか。そりゃあ整った顔立ちだとは思うけれど、だからといって彼と同じように「一目惚れしちゃった」なんてことにはならない。

「そんな気はしてたけど、もしかして俺のこと知らないの?」
「初対面ですよね? 知りませんけど」
「えぇ……うそでしょ……俺わりと有名人なんだけど……ほんとに知らない?」
「知りません」
「及川徹って名前、聞いたことない?」
「ないです。有名人っていうの、うそじゃないんですか?」

 あまりにも有名人アピールをしてくるのが怪しくて、うっかり失礼な物言いをしてしまった。でも本当に知らないのだから、何度も「知らない?」と確認されても困る。
 あからさまに肩を落としている彼を見て少し罪悪感が生まれたけれど、それもほんの数秒のこと。すぐに復活した彼が懐からスマホを取り出し「連絡先、交換して」と私に迫ってきたからだ。

「お断りします」
「なんで?」
「私の連絡先を教える理由がないからです」
「日本人同士仲良くしようよ」
「もう会わない確率の方が高いと思いますけど」
「だから連絡先交換するんでしょ。会う約束するために」
「どうして私とあなたが会う約束をしないといけないんですか」
「さっきも言ったでしょ、一目惚れしちゃったって。俺が会いたいだけ」

 そんな自分勝手な理由に納得して個人情報を渡すとでも思っているのだろうか。私は呆れ果てる。しかしこのまま断り続けても彼は簡単に引き下がってくれそうにない。さてどうしたものか。私は少し考えて、いい逃げ方を思いついた。

「じゃあ、もしまたどこかで会うことができたら、その時は交換します」
「ほんとに?」
「また会えたら、ですよ」
「わかった。じゃあまたね」

 またね、とはどういう意味だろうか。少し気にはなったけれど、彼が意外とすんなり了承してくれたことに安堵した私は、社交辞令のようなものだろうと思い深く考えないことにした。そうして彼は「俺そろそろ行かなきゃ」と言いながら立ち上がると、先にお会計を済ませて店を出て行った。嵐のような人だ。
 私もグラスに残ったお酒を飲み干してお金を払おうと財布を出す。しかしご主人から「お金はもうもらったよ」と言われて手が止まった。私は払っていない。じゃあ誰が?

「徹が払って行ったぞ。知り合いなんだろ?」
「知り合い……にはなったかもしれませんけど……」

 奢ってもらえるような関係になった覚えはない。しかし彼はもう帰ってしまったからお金を返す手段もなくて途方に暮れる。
 これは彼の策略なのだろうか。私がお金を返すために彼を探し、そうしてまた会うつもり、とか。残念ながら私はそこまで善人ではないので、彼を探してまでお金を返そうとは思っていなかった。そもそも彼が勝手に払ったのだ。必ずしもお金を返さなければならない状況ではない。
 ご主人に軽く挨拶をして店を出る。大通りに出ると、いつもよりやけに街の明かりがキラキラしているように見えた。
 
◇ ◇ ◇


「こんばんは」
「…………こんばんは」
「また会ったね」

 お店に入るなりにこやかに声をかけてきた彼を視界にとらえた瞬間、私の頭はフリーズした。そのせいで反応が随分遅れてしまったけれど、彼はそんなことなど微塵も気にしていない様子であいている自分の隣の席を叩き、私に座るよう促してくる。
 無視して別の席に座る選択肢もあったけれど、前回奢ってもらった(というか勝手に奢られた)経緯もあるので完全に邪険にするのは憚られ、私は促されるまま隣の席に座った。満足そうに笑みを深めて「何食べる?」と尋ねてくる声は弾んでいる。

「待ち伏せしてたんですか」
「人聞き悪い言い方するなあ。ここは俺のお気に入りの店だから通ってただけだよ」
「あの日からずっと?」
「まあね」
「二週間も?」
「そんなに経ったっけ?」
「私がここに来るの、二週間ぶりなので」
「二週間通った甲斐があったよ。で? 何食べる?」
「……ミラネサ」

 上機嫌な彼はご主人に私のぶんと、おそらく自分のぶんも注文した。ワインボトルを注文していたから一緒に飲もうと思っているのかもしれない。

「約束、覚えてるよね?」
「待ち伏せは卑怯じゃないですか?」
「待ち伏せしちゃいけないなんて言われてないもん」
「どうしてそこまでするんですか」
「好きな子に会うためなら待ち伏せぐらいするでしょ」

 どくり。心臓が跳ねた。
 またこの人は、照れる素振りも見せずに軽口を叩く。「好き」なんて異性に対して軽々しく口にするものではないという私の考えは堅すぎるのだろうか。アルゼンチンに限らず外国ではそれぐらい挨拶程度に言うものなのかもしれないけれど、私は何年ここに住んでいようとも日本人としての堅物な思考のままだから、理解に苦しむ。彼は四年をかけて外国文化に染まった人間なのかもしれない。日本人としての所作も忘れていないくせに。
 とはいえ、彼の言うことが本当なら、二週間このお店に通い詰めて私が来るのを待っていたということらしいから、彼の言う「好き」が本気という可能性もある……いや、見た目が整っているから、この手の軽いナンパ的なことには慣れているのだろうし、やっぱりお遊びかな。

「連絡先。教えてくれるよね?」
「…………わかりました」
「ちゃんと返事してね」
「それは約束できません」
「あとその敬語、やめない?」
「どうして?」
「距離感じるから。まずはオトモダチからよろしく」

 彼と私がオトモダチ。会って二回目で。彼の距離感がおかしいと思うのは私が堅物人間だからだろうか。常にニコニコしている彼の顔を見て真意を確かめようと思ったけれど、整いすぎているがゆえに胡散臭さばかりが増していく。
 約束は約束なので連絡先は交換した。その後、普通にご飯を一緒に食べた。お酒も飲んだ。話もした。ほぼ彼の質問に私が簡潔に答えるだけのやりとりだったけれど、不快ではなかった。むしろ楽しかった。日本語でどうでもいい会話ができることが。そうして私はいつのまにか、彼に敬語を使うことを忘れていた。

「また一緒にご飯食べよう。このお店以外でも。待ち合わせしてさ」
「気が向いたら」
「えぇ……俺こう見えてまあまあ忙しいけど時間つくるから」
「忙しい人は二週間もこのお店に通ったりしないでしょ」
「名前に会うために必死だったんだってば!」
「はい、うそ」

 彼が当然のように私の名前を呼ぶことも気にならなくなっていた。まだ会って二回目なのに。彼の隣は、なぜか居心地がいい。同じ日本人だからだろうか。それとも……それとも、何だろう。わかるようでわからない。
 お会計の時になって、前回勝手に支払われていた私のぶんの飲食代を返さなければならないことを思い出し、彼にお金を差し出した。しかし(なんとなくそんな気はしていたけれど)受け取ってもらえず、挙げ句の果てには今日のぶんの支払いまでされる始末。これで彼への借金は二回分に増えてしまった。

「勝手に払うのやめて」
「なんで?」
「自分が食べた分ぐらい自分で払いたいから」
「じゃあ次からはそうしよう」
「次って、」
「また連絡するね」
「返事しないかもよ」
「してくれるまで待つよ」

 言いながら席を立って帰るのかと思いきや、彼は店を出て行こうとしない。なぜだろう。私が不思議そうに見ると、彼にキョトンとされた。

「名前は帰らないの?」
「帰るけど……」
「じゃあ一緒に行こうよ。家まで送ろうか?」
「いい」
「そう言うと思った」

 残念、と言いつつ、彼はちっとも残念そうじゃなかった。店を出たらすぐに別れて各々で帰ったし、私は一度だけ彼の方を振り返ったけれど彼はスタスタ歩いて行っていた。だからやっぱり彼の「好き」は本気じゃないんだろうと思う。本当に好きな相手なら、もっと名残惜しそうにしたり、振り返って様子を見たくなったりするはずだもの。
 ほらやっぱりね、と納得している自分と、がっかりしている自分がいることに驚く。がっかりってなんだ。それじゃあまるで私が、彼が本気だったらいいなって期待していたみたいじゃないか。
 一人じゃなかったせいで、今日はちょっと飲みすぎてしまった。だからこんな変な思考になっているのだ。そうに違いない。そうじゃないと困る。だって私たちはただのオトモダチなのだから。

◇ ◇ ◇


「何回も言ってるけどさあ、俺名前のこと好きだよ」
「はいはい、うそでしょ」
「本気だから!」
「このやりとりそろそろ飽きない?」
「ネタじゃないんだけど?」

 定番と化した会話。彼の「好き」に狼狽えることはもう二度とないのではないかと思う。彼だって本気にされないことがわかっているから安心してうそを吐くことができるのだ。私たちは、そういう関係。今までも、これからも。
 彼によって仕組まれた二度目の再会以降、本当は連絡がきても返事をするつもりはなかったし、待ち合わせをしてまで食事に行くなんてデートみたいなことをするつもりもなかった。けれど、一人で食べるご飯より二人で食べるご飯の方が美味しいと感じてしまったから。あの日、彼と一緒に過ごした時間が楽しかったことは事実だから。私は気まぐれに彼と二人で食事に行くことを習慣化させてしまっていた。
 週に一回、もしくは二回。それを一ヶ月続けた。それでも彼は私の家の場所を知らないまま。つまり私たちは、男女の関係にはならないのだろう。きっと、それでいい。

「そういえばいい加減テレビ見てくれた?」
「見てない」
「じゃあ検索してみてよ。及川徹で」
「あとでね」
「それ何回目だと思ってんの!」

 これもまた定期的に繰り返される会話のひとつだった。
 私は相変わらずテレビを見ない生活を続けていて、彼が本当に有名人なのかどうか確認していない。正直なところ、有名人だったら私なんかと頻繁に会っている時間はないだろうし、例えば芸能人とかモデルとか、そういう仕事をしていたらもっとお店や道端で声をかけられるだろうから、本人が思っているほど有名じゃないのだろうと思っている。彼に言うとうるさそうだから何も言っていないけれど。
 私が適当にあしらうと、彼はいつもわかりやすく拗ねた。最初の時より随分と子どもっぽいというか、そこまで大人の男じゃないことがわかって面白い。実年齢は私の二つ上らしいけれど、精神年齢は私より五つぐらい低そうだ。

 そんなことを思っていた二週間後のこと。仕事で少しトラブルがあり、私は自分のせいではないのに責任を押し付けられて落ち込んでいた。こういう時は一人で塞ぎ込みたくない。誰かと一緒に馬鹿な話をして、このネガティブな感情をリセットしたい。誰か、って、この地で私に付き合ってくれるのは彼しかいなくて、精神年齢が低いとかそういうことはどうでもよかった。今の私には彼が必要だ。勝手にそんなことを思った。
 そうして、初めて自分から彼を誘った。待ち合わせはお気に入りのあのお店。ご主人が用意してくれるのは、カウンター席から店の奥のテーブル席になった。

「ごめんね、忙しいんだっけ?」
「名前のためなら忙しくても時間つくるよ」
「好きだから?」
「うん」
「はは、またそうやってうそ吐いて」
「……どしたの。何かあったから俺を呼んだんでしょ? 元気ないもん」

 自分ではちゃんといつも通りにしているつもりだった。いつもと同じようにどうでもいい話をしている最中に仕事の愚痴を吐き出して、すっきりして、また明日から頑張ろうって。そう思っていたのに、彼がストレートにぶつかってくるものだから予定が狂ってしまう。
 素直に言えばいいのかもしれない。仕事で嫌なことがあって一人でいるのが嫌だった、誰かと一緒にいたかった、話を聞いてほしかった、だから徹を呼んだの、って。けれどもそれはできなかった。
 ただのオトモダチに、そこまでメンタルフォローさせさせようとしている自分が急に情けなくなってしまったのだ。それに、たとえ冗談でも「好き」と言ってくれている相手に、こういう時だけ頼ろうとしている都合のいい女だと思われたくない。それら全ての気持ちを飲み込んだ結果、私の口から出てきたのは「べつに」という、最悪の三文字だけだった。
 逆の立場だったら、他に言い方があるだろうと思ってしまう。そもそも心配してくれている相手にこの反応は人として最低だ。怒って帰られてしまっても文句は言えない。しかし彼は席を立つことも怒りを露わにして言い返してくることもせず「うそなのバレバレだよ」と、ただ眉尻を下げて笑った。

「言いたくないならいいよ。飲もう」
「……ごめん」
「何が?」
「急に呼び出したくせに態度悪くて」
「……許さない。これでも俺、怒ってるから」

 言葉とは裏腹に優しい口調だったから、そのセリフがうそだということは明白だった。彼もきっと、わざとわかりやすく戯けて言ってくれているのだろう。
 優しい人だと思った。私なんかの相手をしてくれるには勿体ないぐらい。

「でも、明日テレビ見てくれたら許す」
「なにそれ」
「元気になれるよ。絶対」

 そんなに面白いバラエティー番組でもあるのだろうか。時間とチャンネル番号だけ伝えられてその話はそこで終わってしまったので番組名を聞くことはできなかったけれど、そもそも見るかどうかもわからないので確認はしなかった。
 それからは、いつも通り。愚痴をほどほどに吐き出せたお陰で、私の心はすっかり軽くなった。彼は話し上手だし聞き上手なのだと思う。だから一緒に過ごす時間がこんなにも心地良いのだ。

「じゃあ明日、絶対見てよね」
「覚えてたらね」

 私の冷ややかな返事に、彼は何も言わなかった。きっと確信していたのだろう。私がちゃんと覚えてるって。忘れるはずがないって。

 そんな彼の予想通りに動いている自分が腹立たしい。翌日、私は彼に言われた通りの時間帯にテレビの前に座っていた。
 彼に言われたからじゃない、たまたま珍しくテレビが見てみたくなっただけ、と自分自身に無意味な言い訳をしながら、ぱちり。テレビをつけて、彼に言われたチャンネルの番号を押す。そして、

「うそでしょ……」

 私は固まってしまった。テレビ画面いっぱいに見慣れた彼の顔が映ったからだ。しかも、てっきりバラエティー番組だとばかり思っていたのに、始まったのはバレーボールの試合。コートの中で彼がボールをふわりと美しく上げている。
 バレーボールなんて学生時代に体育でほんの少しやったぐらいで、ルールがギリギリわかる程度の知識しかない。それでも彼がすごい選手だということは、会場の歓声を聞けば一目瞭然だった。今までバレーボールに興味がなかったどころか、その存在を意識してすらいなかった私でも引き込まれる。
 彼は確かに有名人だった。それも、とびっきりのスーパースター。それを認識してしまうと、より一層、彼の「好き」が疑わしくなってくる。
 こんなに活躍している彼が、どうして街の片隅で寂しく食事をしている私に興味をもってくれるというのだろう。周りにいくらでも綺麗で魅力的な人がいるはずなのに私に一目惚れしたなんて、やっぱり信じられない。
 そんなことを考えながら私がぼうっと呆けている間に、試合は終わっていた。ヒーローインタビューで呼ばれたのは、鮮やかな勝利をおさめたチームで大活躍していた彼。画面に映る彼の額には汗が光っていて、爽やかな笑顔を見せるたびに会場内から黄色い声が聞こえる。女性人気が凄いのだろう。なんだか急に、彼がひどく遠い存在に感じられてきた。
 彼は自分がプロバレーボール選手として活躍している姿を見せることで、私に現実を突きつけたかったのだろうか。こんなに有名で凄い人間に好意を寄せてもらえているのだから有り難く思え、と。そういうことが言いたかったのだろうか。 

「お疲れ様でした! 本日はいつも以上に大活躍でしたね!」
「はい! 無事にかっこいいところを見せることができてよかったです! 今日は活躍している俺の姿を見て元気になってもらいたい人がいたので!」
「それはご家族ですか?」
「いえ。でも、家族と同じぐらい大切に想っている人です」

 画面越しなのにじっと見つめられているような感覚に陥って、思わずテレビから目を逸らす。心臓がやけにうるさい。
 さっき言っていた大切に想っている人って私のこと? まさかそんなはずないか。でもタイミング的に「元気になってもらいたい人」って私のことじゃ……いやいや、自意識過剰すぎる。
 自分かも、そんなはずない、でもやっぱり自分かも、都合が良すぎる。この押し問答を一人で何回も繰り返して、最終的に、自分のことだったらいいのに、で落ち着いてしまった。それはつまり、そういうこと。私は彼のことが「」なのだ。

◇ ◇ ◇


「やっと会えた」
「なんで、」
「なかなか会ってくれないから会いに来ちゃった」
「……忙しいんじゃないの?」
「テレビ見てくれたんだね。ありがとう」

 何を、なんて野暮なことを訊く余裕はなかった。以前のように上手く軽口を叩くこともできない。
 あの試合を見た日からなんとなく彼に会いづらくて、無意識に……ではなく、意識的に、避けていた。会って、どんな顔をしてどんな話をしたらいいかわからなくて、自分の中でいつも通りに振る舞える自信がついてから会えたらいいな、と。そう思っていた。だからあのお店には行かないようにしていたのに。
 どういうわけか、彼は私の家の前にいた。もしかしたら私の家の場所を知っているあのお店のご主人にきいたのかもしれない。「私の家、このお店から近いんですよ」なんて世間話をしたのが仇となったのか。今反省しても後の祭りだ。

「み、てない、」
「うそ。名前はわかりやすいからすぐにバレちゃうよ」
「……何しに来たの」
「俺がそこそこ有名人だって、ちゃんとわかってもらった上で伝えたかったんだ」

 そこそこ、じゃなくて、かなり、の間違いでしょ。……と、言い返すことは愚か、まともに視線を合わせることも顔を上げることもできない。彼が今まで聞いたことがないようなピリッとした声音で話すものだから余計に。
 それにしても、わざわざ人の家に押しかけてきてまで改まって伝えたいことって何だろう。どくどく。心臓が忙しなく脈打つ。

「好きです。俺と付き合ってください」
「え」
「もし俺と付き合い始めたらテレビの取材とかあるかもしれないし、プライベートで迷惑かけちゃうこともあるかもしれないけど、名前が嫌な思いをしなくてすむようにちゃんと配慮するよ」
「え、いや、あの、」
「俺の好きって気持ちはまだ信じられない?」

 頭上から降ってくる声は真剣だとわかるのに優しくて、今彼がどんな顔をしているのか見たくなって、おそるおそる顔を上げた。そうして交わった視線は、私を真っ直ぐに射抜く。
 最初に出会った時から思っていた。彼の目はうそをつかない。綺麗で濁りがない、澄んだ瞳だと。

「……私、有名人と付き合えるようないい女じゃないし」
「名前はいい女だよ」
「うそ」
「いい女だから一目惚れして好きになっちゃったんだもん。これからもずっと好きだよ」
「うそ、」
「ねぇ名前。俺がうそつかないって、一番わかってるのはお前じゃないの?」

 そうだよ。徹は本当のことしか言わない。だから惹かれてしまった。でも私は素直じゃないから、不器用だから、怖がりだから、意地っ張りだから、本当のことが言えない。うそつきは、私だ。
 私も徹みたいに本当のことが言えるようになりたい。偽らず、真っ直ぐに、堂々と。伝えてもいいだろうか。受け止めてもらえるだろうか。こわい、けど、徹なら大丈夫って思ってしまったから。

「徹」
「うん?」
「私も、徹が好きだよ」
「……うそじゃないよね?」
「本当だと困る?」
「全然!」

 ありったけの勇気を振り絞って紡いだ私の陳腐な愛の告白は、彼が上手に抱き締めてくれた。彼より小さな私の身体とともに。
 徹のことを好きになったのはいつだろう。最初の出会いの時から惹かれてはいたのかもしれない。少なくとも興味はもっていた。でも「好き」ではなかった。じゃあいつ?
 彼の大きな身体にすっぽり包まれながら振り返る。ああ、そうだ。二回目の再会で「好き」ってフレーズを聞いた時、私の胸は確かに高鳴っていた。気づかないフリをしていたけれど、「どうせうそだから」で片付けようとしていたけれど、きっとあの時にはもう、彼に心を奪われていたのだ。

「キスしていい?」
「だめ」
「この流れで?」
「うそ」

 彼は僅かに目を見開いて、それからたっぷり幸せそうに笑って言った。「うそって言うの好きだね」って。だって私たちの関係には「うそ」が必要でしょ? もちろん、好きって気持ちにうそはないけど。