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ほろほろ苦くたっぷり甘く


 彼は忙しい。私もまあまあ忙しいけれど、彼はその何十倍、もしかしたら何百倍も忙しいかもしれない。だから会えないのも連絡が疎かになるのも仕方のないことだと思う。
 私なんてちょっと残業をしただけでご飯を食べたりお風呂に入るのが億劫になるぐらいだ。企画を成功させるために世界を股にかけて駆けずり回っている彼は、朝も昼も夜もわからなくなって、時間があったら寝るしかない、みたいな生活をしていても不思議ではない。
 わかっている。彼は忙しい。しかしそれでも私は、ちょっぴり……否、かなり寂しかった。
 私が一言「会いたい」と言えば、彼はどんなに忙しくても、たとえ世界の裏側にいても、何十時間もかけて必ず会いに来てくれるだろう。そういう人なのだ。
 私はちゃんと愛してもらっている。浮気をしているかも、なんて不安になったことも疑ったこともない。それぐらい大切にされていることをちゃんと理解しているのに、この「寂しい」はどうにもならないから困っている。
 しかも私ときたら、およそ一週間ぶりに彼から連絡がきたというのに、嬉しくて飛び上がりそうなほどだったくせに、返事をせず無視していた。可愛らしく「仕事忙しいのに連絡くれてありがとう」とか、理解のある彼女っぽく「私のことはいいから仕事に集中して頑張って」とか、そんな返事をするのが理想的。そこまでできなくても「連絡なくて寂しかった」とか「少しでも声聞きたいな」とか「次いつ頃会えそう?」とか、自分の気持ちを素直に伝えてみればいいものを、無視という最悪のルートを選んでいるのだから、我ながら救いようがない。
 言わなくても察してくれ、なんて無理に決まっている。人間は基本的にエスパー能力を兼ね備えた生き物ではない。だからもし私が彼にそう言われたら「思ってることは言ってくれないとわかんないよ」と言い返すだろう。つまりその逆もしかり。彼だって「言ってくんないとわかんないよ」という気持ちを抱くに違いない。
 しかし今の私はどうだ。「連絡を無視してるのはどうしてだと思う? 考えてみなさいよ。私がどう思ってるのか察してよ」と言わんばかりの行動をとっているではないか。完全なる矛盾である。
 何度も言うように彼は忙しい。私の相手をしている暇なんて、それこそ一分、一秒もないだろう。このタイミングでフラれたっておかしくない。でも何と返事をしたらいいものかわからない。そうして迷っているうちに一日半が経過して、おぼつかない足取りでマンションの部屋の前まで帰ってきたら、なんとそこには彼が立っていた。
 私が近付くと手元のスマホから顔を上げ、壁にあずけていた背中を離してこちらに歩いてくる。忙しいんじゃないの? 海外を飛び回ってるんじゃなかったの? なんで、

「なんでいるの?」
「え? 会いたかったから?」

 私より何十倍も何百倍も忙しいはずの彼は、のこのことうちまでやって来たと思ったら私が言えなかった一言をさらりと言ってのけたのだった。疲れきってヘトヘトな顔をして、スーツもよれよれで髪もしなしなになっていたっておかしくないはずなのに、久し振りに会う彼は生き生きしていて、馬鹿みたいに整った様相をしている。
 どんな身体してんの。意味わかんない。こっちは仕事終わりで化粧も落ちて、髪もぐちゃぐちゃになってるっていうのに。ていうか、

「なんで怒ってないの」
「なんで俺が怒んないといけないの」
「連絡、無視した」
「あ、やっぱ確信犯? そんな気はしてたんだけど」
「……怒んないの」
「怒ってほしいの?」
「そうじゃなくて」
「ごめんね」
「…………なんで、謝るの」

 誰がどう見たって彼は悪くない。私が全面的に悪い。良い悪いの問題以前に、私はめちゃくちゃ面倒なことをしている。しかし彼は怒るどころか自分から謝ってきて、私の顔色を窺っていた。全然、意味がわからない。
 謝らないといけないのは私の方。ごめんね。返事しなくて。ごめんね。思いやりのある可愛い彼女じゃなくて。ごめんね。会いに来てくれたのに笑顔で嬉しいって言えなくて。ごめんね。素直じゃなくて。
 沢山のごめんねが降り積もるのに、一音も口から吐き出せない。そんな私をちっとも責めない彼は、私の代わりに言葉を紡ぐ。

「寂しかったでしょ」
「……うん」
「会いたかったでしょ」
「……うん」
「だから、ごめんねって」

 彼の声には魔法の力があると思う。その声で話しかけられたら素直になれる。優しくなれる。胸がふわりと軽くなる。みんなきっと、そんな彼の声と言葉に突き動かされているんだろうなあ。私みたいに。
 今まで頑なに守り続けていた意地が、ほろほろと崩れていく。そうだ。言わなくても察してよ、って無理難題を押し付けても、彼は平気な顔をして「はいはい」って言っちゃうんだ。そういう人だった。忘れてた。

「なんで何も言ってないのに私の気持ちわかっちゃうのぉ……鉄朗のばかぁ……!」
「そこは大好きって言うところじゃない?」

 玄関先で彼にぎゅうぎゅうしがみついて、お高そうなスーツにこれでもかとファンデーションを擦り付ける。ついでにマスカラとチークとちょっぴりの涙も。クリーニングに出さないと取れない汚れを染み込ませるなんて、私は本当に面倒で駄目な彼女だ。
 でもやっぱり彼は怒らなくて、私のことをちゃんと抱き締め返してくれた。よしよし、って頭を撫でて、背中をさすって、落ち着いた頃合いを見計らって「家入っていい?」ってナチュラルに私の家に上がり込んできて、今更のように「久し振り」って言う。私は改めて、好きだなあって、思う。

「今日どこ行ってたの?」
「イタリア。さっき帰ってきたとこ」
「マジ?」
「マジ」
「私も行ってみたいなあ」
「どこに?」
「ヨーロッパ?」
「新婚旅行で行けばいいんじゃない?」
「誰の?」
「そこは俺と名前のじゃないんですか?」
「…………えっ」
「いや、えっ、って。何その反応……えっ、ちょい待ち、まさか俺ら別れんの?」
「わ、別れないけど」
「ですよねー! あーびっくりしたー……」

 いやいや、勝手にほっと胸を撫で下ろさないでよ。こっちの方がびっくりだよ。なんでさも当然のように私と結婚すると思ってんの。今のプロポーズみたいなもんじゃん。すっごく大事な一生に一回(かもしれない)プロポーズなのに、こんなにさらっと言ってくれちゃって。どうしてくれるんだ。心が追いつかないよ。
 一生私が隣にいてもいいの? 鉄朗の未来には当たり前のように私がいるの? それで、いいの? 私でいいの? 世界を見てきたならもっといい女がいくらでもいたはずなのに、こんなちっぽけなマンションの一室のありふれた女のところに戻ってきちゃって、後悔しないの?
 沢山思うことはあるはずなのに、視界が歪んできた私は何も言えなくて、そんな私に気付いて「どした? 俺また何かやらかした?」と目元を拭ってくる彼は、とびっきり賢くて素敵な男なのに、この世で一番馬鹿かもしれない。でも、馬鹿で助かった。私を選んでくれるから。
 本日二度目のぎゅうぎゅう攻撃に、素敵なスーツはすっかりぐしゃぐしゃ。しかし彼は「大好き」と言いながら顔をぐりぐり押し付けてスーツを汚していく私に、声を弾ませて言うのだ。「俺の方が好きですー」って。