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100億回の転生


俺は事故に遭った、らしい。らしい、という言い方をしたのは、俺にその時の記憶がないからだ。
目を覚ましたら病院のベッドの上だった。身体が自分のものではないかのように動かず状況が把握できていなかった俺の隣で、心配そうに、今にも泣きそうな顔をして手を握っていたのは、1人の女性。見たことがあるような、どこかで出会ったことがあるような懐かしさを覚えたが、やはり記憶にはなかった。しかし俺はその女性に、一瞬で心を奪われたのだった。
恋愛事に疎いという自覚はある。だから学生時代も大人になってからも、異性を好きになる、というのがどういうことなのか分からなかった。そんな俺が、唐突に「好き」という感情を理解した。その相手が他ならぬ彼女だ。
名前も知らないのに、会話だって全くしたことがないのに、俺は彼女にプロポーズをした。後に高校時代の友人(だと聞いた人物)と会って話をした時「そういう時は普通お付き合いから始めるもんでしょー!若利君は相変わらずだねー!」と言われて、初めて恋愛の進め方を知った。
しかし、たとえ恋愛の進め方を先に教えてもらっていたとしても、俺の取った行動も言ったセリフも変わらなかったと思う。それぐらい、彼女に惹かれていたのだ。
そんな相手と出会えただけでも幸運なことに違いないのに、彼女は突拍子もなくプロポーズをした俺を訝しむことなく結婚してくれた。幸運以上の何かがあるとしたら、俺はそれに当たるのだろう。現在進行形で。


「若利さん、ご飯とお風呂どっちからにしますか?」
「冷めないうちに飯を食べたい」
「じゃあ準備しますね」


事故から1年。季節は秋から冬、冬から春、そして春からまた夏になっていた。彼女は今日も当然のように俺のために飯を作り、風呂の準備をしてくれている。
記憶を失うほどの大きな事故に遭ったにもかかわらず、俺は1ヶ月弱で退院し普通の生活に戻ることができた。親や祖父母のことは断片的な記憶が残っていたし、日常生活で困ることは意外と少なかった。
退院する間際になって、俺は既に彼女…名前と結婚しているという事実を聞かされた。全く驚かなかったと言えば嘘になるが、どこかで納得している自分がいたのもまた事実だ。
一目惚れできる相手なんてそうそういない。だから俺が名前に惹かれるのは、必然だったのだと思う。記憶がなくなっていようとも、俺が俺であることに変わりはない。つまり、好みの女性のタイプも変わることはないのだ。
 俺の前に並べられていく料理。今日は俺の好物のハヤシライス。サラダやスープ、小さなグラタンのようなものまであり、普段より豪華に見える食卓に、今日は何か特別な日だっただろうかと首を捻る。


「やけに豪華だな」
「そりゃあそうですよ。今日は若利さんの誕生日じゃないですか」


 俺の誕生日。そうか。そういえばそうだった。事故に遭ってもさすがに自分の誕生日を忘れることはなかったのだが、そもそもあまり興味がないせいか、言われるまですっかり頭から抜け落ちていた。
 俺の反応を見て忘れていたことを悟ったのだろう。名前は苦笑しながら俺の正面の席に腰を下ろした。2人揃って「いただきます」と手を合わせるのは、暗黙のルールとなっている。


「誕生日、忘れてました?」
「ああ。すっかり」
「じゃあサプライズ成功ですね」


そんなに面白いことでもないだろうに、名前はコロコロと鈴を鳴らすように笑った。
どうやっても記憶を取り戻さない俺の傍にいるのは辛いと思う。残酷なことをさせているとも思う。しかしだからといって、名前に自分から離れても良いとは言えなかった。これは完全に俺のエゴだ。
俺が事故に遭った瞬間、俺達にとって2度目の人生が始まったと言っても過言はない。それほどの転機だったと思う。だから名前は、たとえ事故に遭うまで俺の妻として生きていたとしても、その分岐点において俺を選ばなければならないというわけではなかった。
事故以前の記憶がない以上、俺が名前にどんな風に接していたのかは分からない。しかし、自分の性格上、豊かな愛情表現をしていたとは到底思えなかった。
俺より優しい男なんて、この世界には5万といるだろう。その中には、愛情表現豊かな者もいるに違いない。名前が安心して暮らせるような、毎日心穏やかに愛を育めるような、そんな相手がきっと存在するはずなのだ。
それなのに名前は、2度目の人生でも俺を選んでくれた。しかも迷いもせず、静かに喜びを滲ませて。


「なぜ俺を選んだ」
「はい?なんです?」
「違うな。なぜ俺を受け入れた」


ハヤシライスをあっと言う間にたいらげた俺におかわりを用意して席に戻ってきた名前は、きょとんとして目を瞬かせた。その顔は、質問の意味が分かりません、と言っている。


「病院で俺がプロポーズした時、断る選択肢もあっただろう」
「……どうしてそんなことを?」
「それまでの記憶が一切ない俺といるのは苦痛じゃないか」


俺はいい。事故に遭う前も後も、自分が好いた女と一緒にいられる。ただの幸せ者だ。
しかし名前は違う。事故に遭う以前の思い出が共有できないものだから、それまでと同じことを繰り返す日々が続いていたかもしれない。一緒に行った場所も、食べた物も、見た景色も、自分は「懐かしい」と思うのに俺は「初めてだ」と言う。そのちぐはぐさに、人知れず心を痛めているのではないか。俺はこの1年で、そんなことを考えるようになった。だから尋ねてみたのだ。自分といるのは苦痛ではないか、と。
名前は問い掛けを聞き目を見開いて固まり、それから俺を睨みつけるように見つめてきた。そんな視線を送られたのは初めてで、俺は内心驚く。恐らく表情に驚きの色は出ていなかったと思うが、悟られたところで困ることでもない。
俺を責めているというより、嘆いているような瞳は、僅かに揺らいでいた。しかしその揺らぎは、それ以上潤むことなく俺を射抜く。どこまでも真っ直ぐに。


「断る選択肢なんてありません」
「そんなことはないだろう」
「ありますよ。だって私は若利さんと出会ってから、一緒じゃないと幸せだと思えなくなってしまったんですもの。責任を取ってくれないと困ります」


まるで俺を追い詰めるかのような発言なのに、柔らかく優しい声音。以前の俺がどれだけ名前を大切にしてきたのか、今、漸く分かったような気がする。これほどまでに想ってもらえるほど、俺はきちんと愛情を注ぐことができていたのだろう。それならば、これからの俺がするべきことはひとつだけだ。
少し冷めたハヤシライスを口に運ぶ。慣れた味に心まで暖かくなるのを感じて自然と「美味いな」という呟きが漏れた。


「一生かけて幸せにする」
「……プロポーズ、みたい、ですね、」
「そうか?」
「これでプロポーズされるのは4度目」
「4度目?」


1度目は名前と初めて出会って正真正銘のプロポーズをした時。2度目は記憶を失ってから病院で。そして今が3度目のはずだが、4度目?
首を捻る俺に、ふっと微笑んだ名前は、それはそれは美しかった。


「事故に遭う前、私の誕生日の時にも同じことを言ってくれました」
「そうか。俺は進歩していないということだな」
「違います。出会ってからずっと、若利さんは私を幸せにする天才だということです」


それは俺のセリフではないだろうか。柔らかくも凛とした響きをもつ言葉が身体に染み込んでいく。こんなにも満ち足りた誕生日は初めてだ。記憶があろうがなかろうが、俺はきっとそう思う。
そしてこうも思う。何度記憶を失っても、何度生まれ変わっても、俺は名前を好きになる。