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藍に溶けゆく心臓


※社会人設定


初恋じゃなくたって、ドラマチックな展開じゃなくたって、忘れられない恋というのは存在する。私は過去の男にずるずると引き摺られるタイプの女ではないと自負していたけれど、実はそうでもなかったらしい。
高校時代に付き合っていた彼は、シンプルにイイ男だった。見た目もそこそこ整った顔立ちをしていたのだけれど、最も重視するべきは性格の方。しっかりしているだけではなく、優しくて、男気があって、頼りになる。笑顔はちょっぴり可愛いくせに、バレーをしている時の真剣な眼差しにはいつもドキドキさせられていた。

私にとって、彼は人生で3番目の彼氏だった。付き合い始めたキッカケも、同じクラスになって、話をするうちになんとなく仲良くなって、いいなと思い始めて、そうこうしているうちに告白されて。漫画やドラマとしてはつまらない、平凡な始まりだった。
付き合っている最中も、特別なことは何もなかったと思う。彼は基本的にバレーで忙しかったから、付き合っていると言ってもデートに行ったのは数えられるほど。メッセージのやり取りもそんなにしていなかったし、クラスではもともとそれなりに会話をしていたからそれ以上会話が増えることもなかった。
けれども私達は、確かにお互いのことが好きだったし、大切に想い合っていた。高校生の分際で、と思われるかもしれないけれど、このままずっと一緒にいられるんじゃないかと、遠い先の未来まで想像していた。それぐらい本気だった。……私は。

始まりが平凡なら終わりも平凡で、私と彼は高校卒業と同時に別れた。理由も実に平凡。プロバレーボール選手になるために海外で武者修行することを決めた彼と地元の大学に進学する私が遠距離恋愛するのは難しいだろう、という、ありきたりな理由である。
例えば彼の行き先が海外ではなく国内のどこかだったら遠距離恋愛になるとしても頑張れたのだろうか、などと考えた期間もあったけれど、ある時私は気付いてしまった。どんな進路を選択するとしても、彼は高校卒業という節目で私と別れることを決めていたのだろう、と。
このままずっと一緒にいられるんじゃないか、そうなったらいいな、なんて夢みたいなことを思って浮き足立っていた私とは違って、彼は地に足をつけて現実を見ていた。だから今となって冷静に考えてみれば、別れは必然だったのだと理解できる。
けれども当時の私は、なんで?どうして?好きなら別れなくていいじゃない、と不平不満を溜め込んでいた。彼は私のことなんてそんなに好きじゃなかったんだ。本気じゃなかったんだ。所詮、高校生。そりゃあそうだよね、と。割り切ったフリをして、実のところわりと長い期間引き摺っていた。


「夜久衛輔また拾った!」
「いやあ…粘りますねぇ…」


いつもの朝。いつもと同じ時間、いつもと同じニュース番組のいつものスポーツコーナー。普段なら聞き流すのにそれができなかったのは、忘れもしない彼の名前が聞こえてきたから。
思わず朝ご飯の後片付けをしていた手を止めてテレビに視線を向ければ、そこには少し大人びた顔をした彼が、高校時代よりも更にドキドキさせる真剣味を帯びた眼差しで、あの頃と同じようにボールを追いかけていた。
最近の試合のリプレイだったから、彼の活躍はほんの数分、数十秒程度しか映っていなかったと思う。けれども私は、その短時間だけで胸がいっぱいになっていた。
別れてから今に至るまで、全く気にかけていなかったと言えば嘘になる。しかし、考えないようにはしていた。バレーボールに関するニュースも、無意識のうちに避けていたから今の今まで現在の彼の姿を知らなかったのかもしれない。

そうか。彼はロシアという遠い遠いところで、夢に見たプロバレーボール選手になり頑張っているのか。日本にまでその名前が届くほどの活躍を見せる選手になっているのか。……良かった。
彼とはもう何の関係もないくせに、勝手に安堵して喜んでいる自分に驚く。しかし、よく考えてみたら何もおかしいことはないのだ。とうの昔に別れたとはいえ、私は彼のことが嫌いになったわけじゃない。あの頃からずっと、私は彼のファンのまま。だから、こうして応援することぐらいは許してほしい。
なんだか今日は良いことがありそうな気がする。意味もなくそんなことを思いながら支度をして、職場へ向かうために家を出た。結果的に、家を出てから仕事を終えるまで良いことはひとつもなかったけれど、人生なんてそんなもんだろう。
仕事から帰るのは大体夜の8時前後。今日は少し早めの7時半。夜ご飯は基本的に自炊を心がけているけれど、今日は金曜日だし、ちょっとぐらい手を抜いちゃってもいいかな、なんて。今年で26歳。お酒を飲むことにも慣れてきた。ビールは苦手だけれど、チューハイや梅酒、カクテル系のお酒は好きだ。1人で行けるお店もいくつかある。さて、今日はどこに行こうか。今日は気分が良いからのんびり新規開拓もありかもしれない。
スマホを取り出してお店の検索をしようと画面をタップした私は、そこで初めて見知らぬ電話番号から着信が入っていることに気付いた。フリーダイヤルからではない。着信はほんの5分前。マナーモードにしていたから気付かなかったけれど、一体誰だろう。間違い電話かな。
かけ直す勇気はなくて、もし何かあったらまたかかってくるだろうと、当初の目的である1人で飲める居酒屋検索をしようとしたところで、着信画面に切り替わった。表示されているのは、今確認したばかりの見知らぬ電話番号。私は少し悩んでから、おそるおそる通話ボタンを押した。間違い電話や身に覚えのない相手からだったらすぐに切れば良い。


「も、もしもし……?」
「あ。出た!名前?」
「え……、」
「ごめん。急に電話なんかしてびっくりさせて。えっと、俺、あー…分かんないか」


誇張表現なんかじゃなく、心臓が飛び跳ねた。電話越しだから面と向かって話す時とは違う声音ではあるけれど、私はこの声を知っている。忘れるはずもない。分かんない、なんてこともない。しかし電話の相手は、私が誰からの電話なのか分からず戸惑っていると勘違いしたのか、申し訳なさそうに名前を名乗った。


「俺。夜久衛輔、です」
「なんで……」
「高校ん時の奴に連絡先聞いた。どうしても、会いたくて」


高鳴る鼓動は、今にも爆発しそうなほど激しく脈を打っていて、もしかしたら私はこのまま死んでしまうのではないだろうかと思った。だって、あの夜久衛輔から、衛輔から電話がかかってくるなんて、誰が予想できただろうか。
今日ちょうどテレビで見たばかりの彼が、私に電話をしてきて「会いたい」と言っている。そんな夢みたいなこと、予想できるわけがない。ていうか会いたいって言われても、今から飛行機に乗って東京まで来るの?会いたい理由って何?私達、もう何の関係もないのに。嬉しいはずなのに手放しで喜ぶことはできなくて、複雑な心境の私は返事に困って無言を貫く。


「今こっち戻ってきてて。仕事終わったんだったら会いに行きたいんだけど」
「そんなこと急に言われても……」
「じゃあ明日は?」
「なんで急に会いたいなんて電話してきたりするの?」
「……それは、会った時に直接言いたい」
「私が会いたくないって言ったら?」


会いたいよ、すごく。会いたいけど、会ってしまったら、別れてからずっと、何年もかけて一生懸命押し込めてきたはずの感情がいともたやすく溢れ出してしまいそうで怖い。だから、会いたくない。
彼への感情を完全に断ち切れていたら良かった。お友達として、久し振りだね?どうしたの?元気だった?って、普通に会話できるような心持ちで会えるなら、彼に会うことを渋る必要はなかったのだ。けれども私にはそれができそうもなかった。電話でご覧の有様なのだから、直接会って話なんかしようものなら、どうなるか分からない。
私の意地悪でずるい言葉に、彼は暫く黙り込む。そうだよね。折角海を越えて日本に帰って来て、わざわざ友達に連絡先まで聞いて私に電話をかけてくれたっていうのに、私は元カノとして全然優しくないよね。困っちゃうよね。
自分の醜さと惨めさと大人げなさと、その他ネガティブな感情がごちゃ混ぜになって泣きそうになってきた私の耳に、彼の凛とした声が聞こえた。揺らぎのない、真っ直ぐな音色だった。


「どんなことしてでも会いに行く。伝えたいことがあるから」
「……衛輔は、変わらないね」
「今どこ?」
「言っても分かんないよ」
「分かんなくても探す。絶対に名前を見つける」
「衛輔は?」
「へ?」
「今どこ?」


変な期待をしちゃいけないって分かっていても、彼のストレートな言葉を聞くと胸が騒めく。会いたくない、という偽りの感情を流されてしまう。会いたい、という欲望だけを引っ張られる。
彼が私のところに来るより、私が彼のところに行く方が早いような気がした。だから現在地を尋ねたのだけれど、彼は私の質問に驚いているのか、なかなか返事をしてくれない。


「着いたばっかりなの?空港とか?」
「いや、違うけど」
「じゃあ、」
「俺が行きたい」
「え?」
「俺が名前の方に行きたい」
「なんで……?」
「俺が迎えに行かないと意味ないから」


迎えに来る。彼が私を。それにどれほどの意味があるのか。言葉のニュアンスから、やっぱりちょっと期待してしまう私は浅はかなのだろうか。もしかして、もしかするのかもって、胸をときめかせてしまったら、後で後悔するだろうか。もしそうだとしても、もう遅い。私のときめきは、彼の声を聞いた瞬間から始まってしまった。


「分かった。私の家の住所、言うね」


これで彼が私の元に辿り着けるのかなんて分からない。もし辿り着けるとしても、それがいつになるのかは更に分からない。けれども、これで良い。
彼との通話を終えた私は、急ぎ足で家に向かった。私より先に彼が家に辿り着くなんてことは有り得ないと分かっているけれど、それでも急ぎたかった。そうしなければ、この逸る気持ちは抑えることができそうになかったから。
藍色が深まる夏の夜。私は汗が滲むことも気にせず、家路を急いだ。