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心より先に掴むのは


※大学生設定


飲食店でバイトをする利点はただひとつ。賄いが食べられるということ。それに尽きる。賄いがなかったら、飲食店でバイトなんかしていない。俺の中で賄いは、それほどまでに重要な役割を担っていた。


「治君はほんまよう食べるねぇ」
「おばちゃんの飯美味いから」
「作り甲斐あるわぁ」


俺のバイト先であるお店は、個人経営のこじんまりとした居酒屋である。地元の人が集まるアットホームな雰囲気がウリで、毎日結構繁盛しているようだ。大学と最寄り駅の中間地点にあるということもあって、学生達の間でもちょっとした人気があるらしい。
一人暮らしを始めてから、温かい飯をたらふく食べられる実家の有難みを実感した。美味いと思える食事を思う存分胃袋に押し込めるのは、当たり前のことではなかったのだ。頭では理解していたが、実際にその状況に陥ってみると予想以上の大打撃。そんなわけで俺は、大学一年生の春、かなりのホームシックになっていた。
そんな窮地を救ってくれたのがこのバイト先のおばちゃんである。大学からの帰り道、腹がへりすぎてふらりと立ち寄ったのが今のバイト先。白飯を炊く気力すらなかったその日、俺の前に出されたほかほかご飯と肉じゃがは、大袈裟でもなんでもなく天からの恵みに思えた。


「そこの大学通っとるん?」
「俺ですか?」
「そう。一人暮らしなん?大変やろ」
「今ちょうど、飯が腹いっぱい食べられることの有難みを痛感しとったとこです」
「男の子は特に食べ盛りやもんなぁ」
「ここの飯、めっちゃ美味いです。毎日でも食いたいぐらい」


その一言がきっかけで、まさか賄い付きで雇ってくれることになろうとは夢にも思っていなかったけれど、お陰で俺は今無事に生き延びることができている。運が良かったと言うべきか。今日も相変わらず、おばちゃんの作る料理は美味かった。


「ごっそーさんでした」
「はい。残りの仕事も頼むよ」


食事を終えた俺には、閉店までの時間、後片付けを手伝うという仕事が与えられている。今日は金曜日の夜なので少しお客さんが多い。それに伴って洗わなければならない食器の数も増えているようだけれど、美味い賄いを食べた後ならいくらでも頑張れる。
俺はひたすらじゃばじゃばと食器洗いに勤しんだ。途中で厨房の手伝いをしたり、飲み物や料理をホールスタッフに渡すまでの仕事を請け負ったり、今日はいつになく忙しいなあと思いながらも閉店まではフル稼働。忙しかった分、時間が過ぎるのはあっと言う間だった。


「治君、お疲れ」
「おん」
「これ、良かったらどうぞ」
「おにぎりやん!」
「今日忙しかったけど沢山手伝ってもらって助かったから」
「ちょうど腹へっとったとこやねん」


全ての仕事を終えたところで俺に声をかけてきたのは、同じバイトスタッフである名字さんだ。バイトスタッフと言っても、名字さんはおばちゃんの娘で、主にホール業務を一任されている。裏で働いている俺と仕事中に関わることはあまりないけれど、休憩が被ったり仕事終わりにこうして話したりしているうちにそこそこ仲良くなった。
おにぎりは、名字さんの手作りらしい。中身は鮭と昆布と梅。ありきたりで申し訳ないと言われたけれど、塩むすびでも十分美味いと思える俺からしたら豪華なラインナップである。
綺麗に片付いたお店の隅っこの席に座り、おにぎりを齧る。さりげなくお茶を持って来てくれるあたり、名字さんは気が利くタイプだと思う。仕事ぶりを見ていても、細かいことによく気が付くし、フォローが早い。本人は、昔から手伝っているから慣れただけだと言っていたけれど、慣れだけであんなに動くことはできないような気がする。
ぱくぱくとおにぎりを頬張る俺を、名字さんはにこにこと見つめていた。俺だけ食べているけれど、名字さんは食べないのだろうか。俺は梅と昆布のおにぎりを食べ終えてお茶を飲んだところで、名字さんに尋ねてみる。


「自分も腹へっとるんちゃう?」
「ううん。全然」
「俺が食うとるとこ見とっても楽しないやろ」
「自分が作ったもんを美味しそうに食べてくれとるところを見るんは楽しいよ」
「そういうとこ、おばちゃんそっくりやな」


俺は残っている鮭おにぎりに齧り付いた。うん、相変わらず美味い。
おにぎりなんて誰が作っても美味くなるものだと思われがちだけれど、実はそうでもない。白飯が美味いから不味くはならないけれど、美味さに違いがあるのだ。塩加減や握る強さによって、口の中に入れた時の広がり方が全く違う。寿司を握る職人の腕次第で味が変わるように、おにぎりも握る人の手腕によって味が異なるのである。
そして名字さんの握ったおにぎりはかなり美味い。たぶん、俺が今まで生きてきた中で3本の指には入るんじゃないだろうか。オカンと、おばちゃんと、名字さん。ああ、ばあちゃんのおにぎりも美味いんだった。兎に角、俺と同い年の誰かが作ったおにぎりの中で1番美味いことは確かだ。
名字さんが作った料理はおにぎり以外も美味い。恐らく母親であるおばちゃんの手伝いをしているからだろう。美味い飯を作れるというのは、俺にとってポイントが高い。必須条件ではないにしろ、彼女にするならできれば料理が上手い子が良いなあと思う程度には重要なポイントなのだ。


「そういえば治君、明日誕生日なんやってな」
「そうやけど、そんなん誰から聞いたん?」
「お母さん」
「おばちゃんに言うたかなあ」
「もうちょっとで日付け変わるよ」
「ほんまや」


ちょうどおにぎりを全て平らげてお茶を飲み終わったところで時計を見ると、確かに明日になる5分前だった。この調子だと、俺は帰り道で1人、めでたく誕生日を迎えることになりそうだ。
そういえば1人で迎える誕生日は初めてである。去年までは自分の片割れと一緒に家族に祝われていた。部活で同級生や先輩後輩におめでとうと言われ、クラスでもあまり話したことがないクラスメイトにまで祝われる。そんな日常が、今年はないのだ。
できることなら御馳走やケーキは食べたいと思うけれど、盛大に祝ってもらいたいというわけではない。しかし、明日はちょうど土曜日で大学は休みだし、バイトも休み。つまり、誰からも直接祝ってもらえないというのは、なんだかちょっと変な気分だった。


「おにぎり美味かった」
「良かった」
「ほな、俺帰るわ」
「あ、治君」
「ん?」
「誕生日、おめでとう」
「……ありがとう」
「明日バイト休みみたいやけど、何か予定あるん?」
「なんもない。家でゴロゴロしとく」


我ながら寂しい過ごし方だなと思った。名字さんも、きっと同じ感想をもったのではないだろうか。俺を見る目が憐みを含んでいるように見えないこともない。


「名字さん以外、おめでとうって言ってくれる人おらんと思うわ」
「私だけ?」
「たぶん」
「それは、」


寂しいなあ。と、言われるかと思った。けれど、名字さんの口から出てきたのは、嬉しいなあ、という、俺の予想とは正反対とも言える形容詞。そしてその顔も、確かに嬉しそうに綻んでいる。


「なんで嬉しいん?」
「治君の特別な日を祝うのが私だけって、なんかすごいやん」
「名字さんって面白いこと言うんやな」
「治君、明日暇なんやったら私がお祝いしてあげようか?」
「お祝い?」
「御馳走作って食べるだけのお祝いやけど」
「最高やんか」
「私、今料理の勉強中やねん。お祝いついでに私の勉強に付き合ってくれへん?」
「一石二鳥やな」


名字さんはただのバイト先の雇い主の娘というだけで、それ以上の関りはない。けれど、この数分間のやり取りだけでぐっと距離が縮まったと感じているのは俺だけだろうか。
初めて1人で過ごす予定だった誕生日は、どうやら名字さんのお陰で、初めて家族以外の誰かと過ごす誕生日になりそうだ。今からどんなご馳走が食べられるか楽しみである。