すごい。ただただそう思った。今までなぜだかわからなかったけれど一度もレースを見せてくれなかった尽八さんのレースをこっそり見に行ってみると思わず感動してしまいような、素晴らしい走りだった。じんわりと胸にこみ上げるものをぐっとたえた。そしていつも話しにきく巻島さんという人もすごかった。そこで私が驚いたのは友情の美しさ意外にも、尽八さんの人気である。こんなに人気があったのかこの人はと目を疑った。女の子のファンが多くて声援もすごかった、これは予想してなくてこんなにモテる人が現実にいるんだなあと思った。
私が知らない尽八さんがそこにはいた、きっと自転車に乗っているときの彼が一番素なのだろう、なんといっても苦しそうでも楽しそうだったから。
何にも知らなかったな、ショックだった。

少し変わった関係にあった自分と東堂は幼いころから親同士の仲が良くて一緒に遊んだりすることもあったけれどお互いに成長していけばそれは自然となくなった。寮生活である尽八さんとは会う機会はめっきりなくなりたまに何かを届けたりするときに尽八さんのお母さんから話を聞くぐらいだった。そのときに耳にはさんだのがロードを始めた、ということだった。そして近々地元でレースがあるからぜひ見に言ってあげてと言われて悩んだ結果好奇心もあってか見に行くことにしたのだ。




レースが過ぎてから数週間たったある日いつものように東堂さんちの旅館へ母に頼まれたものを届けようと「すいませーん」と裏口から呼ぶと出てきたのはいつものおばさんではなかった。

「……む、名前ちゃんか…?」

あのロードレースぶりにみる、こうして近くで見るのはもう何年ぶりだったか忘れてしまいそうになる。東堂さんがそこにいた。

「え、えと…あの…」

「ああ、すまないお袋は今忙しいようでな。用事ならばこの東堂尽八が引き受けよう」

言葉につまってしまってなんだか恥ずかしい、すごく緊張して何を言えば良いかどうしようか定まらない。近くで見ると確かに整った顔立ちをしているもんなあと考えてなんだかまた恥ずかしくなった。

「それじゃあこれ渡してもらえると助かります…」

そう言って母から託された紙袋に入った荷物を渡すと受け取るには受け取ってくれたが険しい顔で何やら考えているようだった。今までの自分の動作で何かおかしいところでもあったかと不安になった。


「……なあ名前ちゃんよ、なぜそう堅苦しいのだ」

「えっ」

「俺とて久しぶりに会ったからその気持ちは分かるがな、なんだか他人行儀にされては寂しい気がするのだ」

「……ご、ごめんね」

その言葉は確かに嬉しかったけれどそれで簡単になおすことができるのならば苦労はしない。心臓はまだばくばくしているしなによりこの間のロードレースが頭から離れない。


「尽八さんは今帰省中?」

「ああ、大きなレースも終わってひと段落したからな。去年とその前もこの時期には帰ってくることができなかったから今回は来ようと思っていたんだ…」

こういうとき人見知りな自分が恨めしい。ぱっと話が思いついて自ら話をつなげられるようになりたいと切実に思った。このまま留まっていてもきっと話をつなげていけないようなきがする。尽八さんとは久しぶりにあったし話もしてみたいけれど早めに帰ろうと思っていた。


「……じゃあ、そろそろ帰ります」

「待ってくれ、その…名前ちゃんが良ければあがっていかないか」

尽八さんの思いがけない言葉に思わず目を見開く、今日はついている。戸惑いながらも首を縦にふると尽八さんは笑みをこぼした。心臓がどきりとした。




「ちょっと待っていてくれ、お茶を持ってこよう」

東堂旅館へ荷物を届けに来ることは何度かあるけれど中に入ることはあまりない、たまに家族で泊りにくることはあるけれど今日みたいに尽八さんがいる日はなんだか新鮮で何度も訪れている場所なのになぜか緊張した。
案内された和室で言われたとおりに座って待つことにしたけれど気持ちが落ち着かないどうにもそわそわしてまって部屋をながめる。窓から見える景色はとても良い。
こうしている間にも思い出すのは先程までいた彼のことで、身長が伸びたな、とかかっこよくなっていたなとか、学校でもモテているんだろうな。とかいろいろ考えているうちにお茶と温泉饅頭を持った尽八さんが戻ってきた。


「好きだったろう、温泉饅頭。なんせ東堂旅館の饅頭だからな」

「ご、ごめんね。私何も持ってきてないんだけど…」

「気にすることはない、呼び止めたのはオレだからな。少し話がしたかったのだ」

テーブルを挟んで向かい合わせに座った尽八さんに緊張する。気遣いができるところもモテる要素のひとつなんだろうな、と思った。いつの間にか尽八さんはきちんとした一人の男の人に成長していたんだなとレースを見たあの日と同じような感覚を覚えた。


「名前ちゃんはどんな感じだ?学校でうまくやれているか?部活は?オレは自転車を始めた、まあお袋あたりがしゃべってきっと知っていると思うがな。いつか名前ちゃんにも見に来てほしい…とはいっても三年生としての大舞台は終わってしまったけれどな」

実はこないだ見に行きました、と言おうかどうしようか迷った。結果も知っている尽八さんの通う学校は優勝はできなかった。けれどもそのことを言ってどうするのだろう、慰めてそれが相手にとってどう受け取るかは個人次第なのだ。余計なことは自転車のことを何も知らない私からは言えないなと思った。学校についてはまあまあだと返せばそうか、と言ってその後も尽八さんが自転車について詳しく教えてくれた。もう少し気の利いたことを返せないのだろうかと何度叱咤したことだろう。


「じゃあ尽八さんは山を登るの?」

「…そうだ!オレは山神だからな!」

なんでも聞いていると尽八さんはクライマーと言われ山登りを得意としているようだった。レースでもそういえば山を登っていた。


「すごいね尽八さん、私だったらすぐ疲れちゃうから」

「……それだ」

「え?」

「先程から何か違和感を感じていたんだ、その"尽八さん"というのは何なんだ!さん付けだとなかなか距離を感じるぞ!!」

自分では気にしていなかったけれど彼からすれば結構重要なことらしく綺麗な顔をゆがませてこちらをじっとみていた。尽八さんがときどき言葉につまっていたりしたのはもしかするとこれを気にしていたからなのかもしれない。


「いや、すまない。その、あれだ…昔はそうではなかったから……」

気まずそうに視線をそらした尽八さんに少し悪いことをしたなと思った。昔は確かに彼のことを尽八さんではなく尽八と普通に呼んでいた、けれども成長するにつれて距離も開いた彼のことを馴れ馴れしく呼ぶのはなんだか気が引けたからあえてそう呼んでいたけれど今思えば自分からも距離を作ってしまっていた。


「……尽八…」

名前をそう呼ぶだけで顔をばっとあげて嬉しそうにする彼の顔をみたらそんな考え吹き飛んだ。尽八は尽八である。


「ごめんね尽八」

「い、いやいいのだ!!やっぱりそっちのほうがしっくりくるな!」

顔に嬉しさをにじませる尽八を見ているとこっちまで嬉しくなった。


「…長い間離れていたしな、仕方のないことだと思っていた。しかしなまるで初めて会った人のように敬語とさんづけで返された時はへこんでいたんだ。こうして話す機会がもらえてオレは今日ついていた」

「私も嬉しいよ」

「本当か!!ならば良かった!」

いつもの調子を取り戻したのか昔のようにすらすらと会話をつなげて自分の自慢話を時折混ぜながらも話してくれる尽八の話は聞いていて面白かったし飽きなかった。中でも圧倒的登場回数一位の巻ちゃん、という人の話は長かった。最初は女の人かと思ったけれどどうやら違ったらしく同じクライマーでライバルの人だとわかった。特徴を聞く限りレースを見に行ったあの日尽八と一緒に走って争っていた人らしかった。


「いいなあ尽八、とっても楽しそう。今度その人達皆見てみたいな」

「…それは、ならんな」

しばし悩んだ後に尽八がそう言った。どうして、と尋ねる前に

「オレの登りはすごい、だから名前ちゃんにはオレだけ見ていてほしい」

と言われて。心臓が高鳴る。そういうことは私じゃない子に言ってあげればいいのに思わせぶりなそんな言葉気軽に使っちゃあこっちにとっては心臓に悪い。


「…尽八は彼女いないの?」

「む、急にどうした。モテる男というのもつらいものでな。ファンはたくさんいたが一人だけの気持ちに応えてやることはできないからな!」

一人だけの気持ちにこたえられない、ああやっぱり優しいんだなあ尽八は。



「じゃあ、探してみるのも良いと思う。尽八だけを見てくれる人、私にそんなこと軽々しく言わないことだよ。そういうのは本当に尽八だけを見てくれる人に伝えるべきだよ」


私が知らない尽八がいてショックなのも、尽八が一人の思いだけにこたえられないと行ったことに少なからず胸を痛めている理由をそこまで鈍くない自分はもうわかっている。わかっているからこそもうそんなこと言ってほしくはない。





「……名前ちゃんは、オレを見てはくれないのだろうか」

「だからね…」

先程の意味がもしかすると伝わっていないのだろうか、


「名前ちゃんはファンではないだろう、今だってそうだ。オレをきちんと一人の人間をして捕えてくれただろう。その言葉もきっとオレのことを考えて助言してくれたのだろうな。だがな名前ちゃん、昔からもう決めているんだ。一人だけ、オレのことだけを見てほしいと願う人がもうすでに。それが名前ちゃんなんだ。だからオレは他の者を名前ちゃんに見てほしいとは思わない」


好きなんだ、

真っ直ぐにこちらを見つめる尽八から目がそらせない。こんなことってあるのだろうか、都合の良すぎる幻覚だろうか。尽八から言われたこととかどうしてこういう流れになったんだろうとか、尽八が私のことを好きだとか消化しきれないことがいっぺんにおきて部屋の静けさが時を止めているような感覚になった。


「…なん…で。だって、私たち…ついさっき、まともに会話したような仲なのに…」

やっぱり自分は尽八のようにこんな時でさえうまい返しが思いつかなくて、思ったことをそのまま述べると驚いたような表情をしてから口角をあげて笑った。



「なぜ小さい頃親しいきりの奴を好きだと言えるのか、とそう言いたいんだろう?理由などない、好きだと思った。それだけだな。成長しても名前ちゃんはそのまま、オレの好きな名前ちゃんのままだった」

それだけなんだ、とまたつけ加えて綺麗に笑った。



「…私、実はこの間レースみていたの」

「……ほう」

少し驚いているようだったけれどそれきり何も言わなかったので私の言うことを聞いてくれるんだろう


「尽八を見たのも、最後にあったのももうずっと前で私の中で尽八は幼いままだった…でも、自転車に乗ってる尽八は全然違った…。私がまるで知らなかった人みたいですごい遠くの人になってしまったようだった。だから、私どうすればいいかわからなかった。今日尽八にあって、成長した尽八とどう接すればいいのかわからなくなってた。…でも、話してると中身は変わらないまま…」

言いたいことがうまくまとまらなくて自分でも何を言ってるんだろうと思った、簡単に言える言葉じゃないか。どうしてためらっているんだ。


「…なら、いいじゃないか。遠くに行ったってオレはここに戻ってくる」

尽八が立ちあがって私の座る場所の隣へきて座った。


「ここに帰ってきたらなずっと好きだと、言おうと思っていた。成長すれば人は変わるさ見た目はもちろん。だがな、誰かを想っている気持ちというのはなかなか変わらないものだな。一人の気持ちに応えられない、それもあるんだがお前ほど好きだと、会いたいと思う人には巡り合えなかったというのがあるかもしれん」

何と返せばいいかいまだに迷っていた、恥ずかしさの方が勝ってしまっていいたいことがうまく言えない。こんなにも気持ちを真っ直ぐ伝えてくれた彼に何か言わなければならなないのに。


「…ありがとう」

「それは良い方の意味で受け取って良いのだな?」

笑う尽八にはもうすでに私の気持ちが分かっているだろう。