水から見える景色は綺麗?

いつだったか誰かにそう尋ねられたことがある、答えはNOだ。必死で水をかいてただただ水が広がる景色の中もがいて全然景色なんて楽しむ余裕なんてないまま泳ぎ続ける。私にとって水とは興味を示す対象物なんかではなかった。水は水、それだけだった。なんで泳ぐのかと聞かれたらなんとなく、と答えるだけ。


「なんでさーそんなに速く泳げるのに全然楽しそうじゃないの?」

幼いころ通っていたスイミングスクールでそんなことを言われた。速かろうがなんだろうがそんなの関係なく、逆に聞きたい。疲れるまで泳いで何が楽しいのかと。

「……速くない」

「いやいや速いよ!なんだったらはるちゃんと同じくらい速いかもよ?」

はるちゃんって誰なんだ、と思ったけれど聞くのはやめた。幼いながらになんだか周りに冷めていた私はそこでその子との会話を終了し水の中へ飛び込んだ。逃げ道には一番いい。だって誰もおいかけてこようとはしないから。








そんな私にだってスランプというやつはやってくる。今まで速さにこだわりがなかったせいか相当苦しんだ、今までどうやって速く泳いでいたのかどうやってタイムを縮めていたのかさっぱりわからなくなって水が憎かった。なんで、どうして速く泳げないのか考えても考えても泳いでも全くわからなかった。
コーチに相談してアドバイスを貰ってもあまり成果は得られず初めてそのとき怖くなった。水は興味の対象物ではなかったけれど無性に苛立って、泳ぐのが嫌になる日もあった。
なんで、速く泳げない。水は地上からの唯一の逃げ場であったのに。


スイミングスクールに向かう足だって重たくなっていった、水に入るのがいやだと思う日だってあった。そんなループを繰り返している中声をかけてきたのは前に声をかけてきたあの男の子で。


「最近、前よりも楽しそうじゃないね名前ちゃん」

タイムがのびないことを知ってかそう声をかけてきたのかよくわからないけれど改めて他の人から実感させられるとなんだかもやっとした。


「僕気付いたんだけど前に名前ちゃんのこと楽しそうじゃないって言ったじゃない?あれ違ったんだね」

それはどういう意味なんだろうか彼の前の言葉はあながち間違いではないと思っていた。実際楽しいとかそういう気持ちはたぶんないと思う。


「楽しそうだったね、瞳がきらきらしてて。でも今はその瞳もなくなっちゃってる。泳げないなら、何度も挑戦すると良いよそしたらきっと大丈夫だよ」

まあ僕名前ちゃんより遅いんだけどね、と笑って付け足す彼に「ありがとう」と返せば驚いた表情をされた。


「……びっくりしちゃった、名前ちゃん御礼言えるんだね!なんだかはるちゃんみたいだと思ってたからさ」

だからはるちゃんとは誰なんだ。そしてさりげなく失礼なことを言われたような気がするけれど別に気にすることでもないのでスルーすることにした。今知ったけれど彼の名前は葉月渚というらしい。随分女っぽい名前だなあと思った。そして女っぽいのに随分説得力のある力強い言葉を彼は持っていた。







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学校までは電車通学だ、できれば徒歩でいけるような近いところに高校があれば嬉しかったなんて何度も思った。そうすれば毎朝早く起きることもないのに。
それにしても今日は珍しい夢を見たものだと思った。何年前の夢だろうあれは。かなり昔のことなのに鮮明に夢にでてくるなんて人間の記憶力も案外すごいものなのだと思った。


朝の電車はこんでいる、通学する時間帯の学生がたくさんいるからだ。半分以上はきっと自分と同じ高校の人なんだろうけど、まだ入学して一週間程度じゃ人の顔なんて覚えられない。
そして残念なことに今日は開いている席がなかった。仕方なく吊革につかまってゆられていたのだが、なぜだか、先程からじっと見つめられているような気がしてならない。なんだろう、もしかして不審者とかそこらへんのおかしい人か、と思ってちらりと見てみれば髪がふわふわしたかわいらしい男の子がこちらを見ていた。制服から同じ学校の生徒だとわかった。
私は彼に見覚えはない、もちろん知り合いじゃないはずだ。
別に見られているならそちらを見なければいいと思った、そのままゆられて早く駅についてくれればいいのにと思った。




「名前ちゃん……!」

電車から降りるとすぐに誰かに名前を呼ばれた、振り向くと先程のふわふわした男の子が立っていた。

「…なんで、名前知ってるんですか」

「え、僕だよ僕!葉月渚!覚えてない?」

まさか、と思った。こんなことってあるんだろうか朝夢に出てきた人物が今こうして目の前に現れた。すごい偶然で、もしかして予知できるのかなと少し思った。きっとそれは絶対ないだろうけど。


「……同じ学校だったんだね」

それでも学校へと行く道を歩きださなければ遅刻してしまうことになる。私が歩き出せば彼も隣によってきて歩き出した。


「びっくりした!まさか名前ちゃんも岩鳶高校に入ったなんて、すごいねえ偶然って。あ!岩鳶にはねはるちゃんもまこちゃんもいるんだよ!」

にこにこと嬉しそうに話しかける彼の顔を見ていたら申し訳なくなったけど、今回は気にしない方向で行くのはよくなさそうだ


「ごめん、私はるちゃんさんもまこちゃんさんも知らない」

「えええ!そうなの?同じスイミングスクールだったのに?なんか…ほんとにはるちゃんそっくりだね」

そのはるちゃんさんと言う人を私は知らないけれど彼が一方的に話してくれる内容からするとかなり変わった人らしい。だとすると私も変わった人に見られているんだろうか。



「まだ泳ぐことは続けてるの?」

「もう泳いでない…」

泳ぐことを続けなかったのはスイミングスクールに行かなくなったことと受験やらで忙しかったことと泳ぐ環境がなかったことだろうか。海などにいけば泳げるけれどあの泳いだ後の潮がまとわりついて決して気持ちのいいものではない泳いだ後が好きじゃなかった。



「そっかあ!でもまだきっと泳げるよね!」

「……どうかな…」

ブランクがあるし泳げたとしてもきっとあの頃みたいには泳げないだろう、筋肉もおちたし体力も衰えた。


「最近水泳部作ったんだ!入らない?」

なかったものを入学してたった数日で作るなんてすごいなと思ったけれど首をふって「ごめん」と断ると明らかに不満そうな声をもらした。


「ええーなんで?夏休みになると泳ぎ放題だしいいじゃん!泳ぐことは嫌いじゃないんでしょ?」

「…きっと、渚君が求めてる泳ぎはもうできない」

そう言うときょとんとした顔をして「別に僕速いとかそういうの求めてないよ」と言った。


「ただ名前ちゃん小さい頃綺麗に泳いでたじゃない、あれがもう一回みたいんだ」

にっこりと彼は笑ってそう言った、綺麗な泳ぎ、と今も変わらず彼には人の心に届く力強い言葉を持っていた。きっと入部させるためのうまい言葉なんだろうけど何故か嬉しかった。ただ泳いでいたあの頃自分の泳ぎにさえあまり興味はなくて、綺麗などと言われたのは初めてかもしれない。


「スランプ、一回あったよね。笹部コーチとかにもあの名前ちゃんが相談してたから少し意外だった。いつも自分の泳ぎを持ってる名前ちゃんが他の人に自分から相談するなんて今までなかったから。その後、もっといきいきとして泳ぐようになったよね」

「……そう、かな…」

あまり覚えていない、スランプは終わったことは覚えている。そして、その後普通に泳げるようになったことも覚えている。けれど自分の泳ぎに関してはやっぱりあやふやで。


「もう一回、一緒に泳いでみようよ、きっと水の中の景色は綺麗だよ」

どうしてこうも昔から彼はこうして私が求めている言葉を投げかけてくるのだろうか、特別仲が良いわけでもなければ幼馴染でもない。私のことを深く知っている人物でもない。ただ昔一緒のスイミングスクールにいたというだけ、たったそれだけなのだ。
けれどももう一度泳ぐのは悪くないかもしれないと思った。


「…綺麗に、見えるといいけど」

ぽそりと呟くと「大丈夫だよ!絶対!」と言って笑った。

どうしてあまり知らない彼のことを自分は気にかけているのだろう、それはもう夢にまで出てくるくらい。
彼の笑顔を見たときにそれはすとんと落ちて蟠りがほどけた。彼のことは嫌いではない、好きと聞かれたら返答に困る曖昧なところにある。きっと少なからず惹かれていたのかもしれない。ならばこの巡り合わせは運命ととらえてもいいのだろうか。昔からロマンチックなものにはこれっぽっちも興味はなかったけれど今回ばかりは少し、そう思いたい。彼との巡り合わせはただの偶然なんかじゃなかったと。

少し前からきっともうすでに私は彼の虜であったのだ。



「渚君、私も君の泳ぎが好きだったよ」

その後に続く彼の言葉に驚くまで後少し、正直に言うと私は彼の性格も何もしらないでここまできた。


「好きなのは泳ぎだけ?」

かわいい顔してさらりとそういってのける彼は確信犯なんだろうきっと。