薬指にはめた指輪というのは私にとってはそれはそれは大切なものであって、たぶんこれから先も手放すことはないと思う。手にする、という言い方はおかしいが実質これが私の指におさまるようになるまでは長かったと思う。
今より前の昔、学生時代に黄瀬涼太と私は付き合っていた、もちろんお互いに好きだったし今もそれは変わらずそれが結婚まで至ったのだろう。

けれども昔の黄瀬涼太というのは今ほどとはいかないが学生でモデル、若い女性に人気ということでモテたし人気絶頂であった。
するとまあ仕事の幅は広がり高校生ながら海外とか行ってしまうこともあった、けれど会えなくなるわけではないし帰ってくれば真っ先に自分に会いに来てくれて抱きしめてくれる。だから寂しいとは思わなかった。

けれど高校を卒業したある日、大学も同じところに行くんだろうなと考えていた私に涼太はとんでもないことを言った。


「俺、しばらく仕事に集中することにしたんス」

相談も何もなくそれだけを告げられた。いつものように明るい笑顔はなく真剣な表情でそう言われたものだから何も言えず頷くことしかできなかった。
けれどその言葉を意味を私はその時まだ理解できていなかった。


私の前からいなくなったその2日後。


連絡も取れず、ずっと音信不通でみかけるのはテレビや雑誌でのみの彼。こんなこと初めてだった、わけがわからなかった。仕事に私が邪魔な存在だったのなら最初から切り捨ててくれればよかったのにと何回も泣いた。
会いに行ってどうしてと問いただしたかった。けれどそれができなかったのは自信はもうすでに消えてしまっていたから。仕事を優先しても最後には必ず私にあの笑顔を向けて帰ってきてくれた彼がもういなくなってしまっていたから。

そんな中でも月日は流れるし私も成長するわけで、大学を終えると就職した。涼太との思い出がつまった場所は離れることにした、遠い場所へどこでも良かった、忘れることができるのなら街にあふれた彼の姿を見ることができなくなればと望んで親に懇願し遠く離れた町で私は1人新しい生活をはじめることにした。


「本当に行ってしまうんですか?」

昔からの彼の友人だった黒子君にそう尋ねられたけれど私の決意は固かった。

「だって、捨てられたんだものしょうがないじゃない。私だっていつまでもひきずってなんかいられない」

「…でも別にこの街をでていかなくても」

「黒子君、離れても連絡くれる?」

どうしようもないと諦めたのか、渋々頷いてくれた彼には感謝したい。引きとめてくれて嬉しかったけれどもきっとそれじゃあ私は成長することができない。




引っ越した街はなんだか空気が綺麗に感じた。それまで私の心が暗かっため空気が澱んでいたように感じただけかもしれないが、緑が多いところというのは自然と心が落ち着いて心地良かった。畑や田んぼは多かったけれど、農業をしている高齢の方も優しく接してくれたし人の温かさも感じた。
都会から離れた町は私の心も浄化してくれるようだった。仕事もうまくいっていたしすべて意外とうまくいくもんだと少し自信もついたりした。

「こんな田舎なのによく就職しようと思ったねーしかも有能な君ならあっちでも良かっただろうに」

「男の人に捨てられちゃったんですよ」

「はあーひどいやつもいるもんだねえ、僕とかどう?」

年も離れているし冗談にしてはひどい冗談を笑い飛ばして、ほんとにひどい男だったと思った。少し前の自分ならたぶん彼のことを思うだけで泣いてしまっていた。それだけ好きだったから。少し成長できたのかもしれない。



そんな時離れても連絡をくれるという約束を律義に守っていてくれていた黒子君からの電話で私の心はまたざわつき始めた。



「黄瀬君が帰ってきてるんです」

「……私には関係ないじゃない」

「関係なくないです、黄瀬君が名無しさんを探してるんです」

「言わないで、お願い。私やっと前に進めそうなの、こっちでうまくいってるの。今更戻ろうだなんて思わないからお願い」

探しているだなんて、そっちからいきなりいなくなったのに。


「……いいんですか?」

「…いいの」

電話越しでもわかる黒子君の心配そうな声、「わかりました」と言うときれた電話。
これでいいの、いいの。私は何のためにここにいるの、進もうと思ったからここにきたのに今更揺らいでなんかいない。


「……好きじゃない」

好きじゃない、好きじゃない、はず。









黒子君からそれ以来涼太に関する電話はなくなった。ほっとしていたしそれと同時にまた仕事に戻るのだろうかと少し思ってしまった。こちらでは見かけることも少なかった涼太
に関するもの、増えてほしくないなと祈った。



「名無しさんさん、この後飲みに行かない?」

「えっ……」

お酒は苦手なほうだしできれば上司とはいえ飲みたい相手ではない。断ろうかどうか迷っているうちに肩に手を回されて「行こうよ、ね」と言われてぞわりと鳥肌がたつ。ああ気持ち悪い、でも断るとどうなるかわからない。これだから上下関係というものは厄介だ。


「はい……」

結局付き合うことになり、お酒はそんなに勧められても飲まなかった。そのうち上司のほうが一人でに酔っ払いはじめ、お酒の勢いというのかスキンシップが最初より増えたような気がした。無理に突き飛ばしたりそんなことをしてはいけないだろうと思って耐えていたけれど我慢の限界だった、トイレに行くふりをして逃げだしそのまま家に帰ることにした。
外はもう真っ暗で時間を大分無駄にしたようなそんな気持ちになった。


街灯だけが真っ暗な道を照らしていた。車はほとんど通ることはない。
都会ではつねに明るくこんな光景も目にすることは少なかった。空を見上げると星がこんなに綺麗だということもなかった。

「…………」

みつめているうちに頬に暖かいものが伝うのがわかった。
この街にきて辛いことはそんなになかった。辛いのはただ1つ先程の出来事ぐらいかもしれない。泣くこともなくなっていたのになぜ今なのだろうと思った。



"黄瀬君が名無しさんを探しているんです"


「………知らないよ…」

ぽたりぽたりと涙はおちてくる。
歩き進める速度もしだいに遅くなっていく。そのうちもう私の足は歩き進めることをやめた。夜に道路でしゃがみこんで泣いているなんてなんて惨めなんだろう。






「こんなところに1人でどうしたんスか危ないっスよ」

後ろから声が聞こえて慌てて立ち上がる、知らない人に見られてしまった。かなり恥ずかしい。「すいません…!」と謝って立ち上がり速足に立ち去ろうとしたとき



「でも俺君のこと探してたんで」

「…え」


暗くて相手の顔はここからじゃよく見えないしたぶんだろうけど初めて会う人だ。帽子を深くかぶっていてよくわからない。


「忘れちゃったんスか、俺のこと」

帽子をとって一歩進み彼の顔が街灯に照らされた時思わず目を疑った。どうして、なんで彼がここにいるのだ。


「……っ」

気付くと逃げ出していた、こんな夜遅くにしかもどうしてここにいるはずがないのにいるのだ。もしかしたらただの似ているだけの人かもしれない、けれども今の私は彼の姿を見るだけでどうしようもなく苛立ってしまってしょうがなかった。


「に、逃げないで!!」

すぐに追いつかれて腕の中に閉じ込められる、必死におすけれど全然離れてくれなかった。


「…な、なんでいるの………」

「だから会いたくて」

「帰って!!」

「絶対帰んない、必死に探した。どこにもいないし、見つけたと思ったら泣いてるし」

「いなくなったのはそっちじゃない…!!離してもう涼太のこと好きじゃない!」

「ごめん、ほんとにごめん」

余計力をこめられて抵抗する力も失せてただ涙だけが零れてくる。
今更何をしにきたの、謝ったって許せるわけがない。いなくなってから私がどんな気持ちで生活してきたか、何のために引っ越しまでしたのか。

全部全部涼太のせいなのに。


「…お願いだから、帰ってよぉ…っ」

「………俺が勝手にいなくなったこと怒ってるっスよね」

「……かえって…ぅ…」

「ごめん、でもどうしても俺名無しに伝えたいことがあったんス」


ゆっくりと体を離してこちらを見つめる涼太、今はその姿さえにじんでしまってよく見えない。今すぐに私の前からいなくなってほしかった、現れないでほしかった。



「俺まだ若くて将来のこと全然考えてなかったんスよね。それで、一緒にいればただ幸せになれるって思ってたんスけどそれじゃあダメなんスよ、ちゃんと自分も成長しなきゃって、それと養っていけるぐらいにならなきゃこのままじゃいけないって思ったんスよ」

「……だから、なに。もうどうでもいい…」

「まあ名無しのその反応は当然の結果だと思うんス。だって勝手にいなくなったんスから、でも信じてほしいんス。名無しのこと嫌いになったわけじゃないんスよ。ほんとに、これだけは信じてほしい」


信じてと言われてすぐに信じれるほど流れた年月は埋まらない。気まずさから視線をそらす。



「……私は、もうこっちで新しい生活はじめたの。うまくいってるし、邪魔されたくないの、涼太だってほ、ほんとは違う子ができて新しい生活はじめてたんじゃないの…っ」


声が震えてしまう、溢れそうになる涙を必死にこらえる。そうだ、もしかしたら彼だって私と同じようにもう新しい生活をはじめていて、今日はもしかすると最後のお別れを言いに来た可能性だってある。


「なんで、そんなこと言うんスか…!違うって…」

「信じられないもの!」

大きな声を出した私にびっくりしたのか目を見開いている



「私、ずっと信じてたのこれから先もずっと一緒にいれるって。なのに、急に突然いなくなって…連絡もつかないし、もう私のことなんてどうでもよくなったのかな…って…」

こらえていたものがあふれだす、ちゃんと信じていた。信じていたのに


「好きだったのは、わたしだけだったのかなあって…っ」

「……っ」

ほんとはずっと感じていた、涼太がいなくなったあの日からずっと考えていた。



「もう、いいから…っわざわざこんなところまできて、早く私をふってよ…っ」

いつまでも踏ん切りがつかないのは私で、こんなところまできて忘れようとしたけど結局はできなくて、今ここにいる涼太を見るだけで、むかついてもどんなに忘れようとしてもどうしても好きだと思ってしまうから。



「…そんなの俺にはできない。俺がここに来たのはそんな理由じゃないんスよ、やっぱり後悔してるっス。勝手に決めて行動して名無しをこんなに悲しませてるのは自分だと思うとすごい腹立つけど、それでも名無し俺は、ずっと頑張ってようやく幸せにする準備ができたんス」


私の手をぎゅっと握って



「俺と新しい人生もう一回歩んでくれないスか?」



吃驚して言葉がでてこないしなにより頭がついていかない。結婚しよう?彼は今確かに私にそう言った。てっきり別れるものだと思っていたのに



「ちゃんと家族としてやっていける自信がついたから俺はここに戻ってきたんス、名無しのこと1日だって忘れたりしたことなかった」


「………りょ、涼太…」


「だから、俺のこと許せなくても嫌いでも俺は好きでいる。好きになってもらうように努力す…」

涼太が言い終わる前に抱きついて思いっきり抱きしめる。


「私を、お嫁さんに…してください…っ」

背中に手が回されて涼太のぬくもりを感じる、いつぶりだろうかすごく懐かしい。



「ありがとう、愛してる名無し」