桜の花弁が彼女の頭にゆらりと乗っかる。すると彼は彼女に触れたものすらいとおしくなるような目で追いかけてそれからそれを掴んで幸せそうに笑って見せるのだ。それに対する彼女も随分と幸せそうだった。本当にまるで二人はずっと生きてきたみたいにずっと一緒にいるんだろうと勝手に思い込んでいた。誰かが邪魔をしようなんてそんなことできない二人の世界はいつも幸せにつつまれているようだった。「尽八君」とそう呼ぶのすら鈴の転がるような声で澄んでいた。いつまでも彼女の心は心をとらえさせて離さない。本当に永遠になってしまうんだろうか。ずっとずっと感じていた、もういないのならいい加減に解放してほしいと思う私はひどい奴なんだろう。でもそれでもよかった、つらそうに笑う彼がもう嫌だった。



_______________







「おはよう名無しさんさん」

いつものように微笑んでわざわざ挨拶をしてくれる東堂君。カチューシャも頭につけている、これと言って見た目に変化はない。けれども確かにある違和感ああそうだ。

「今日は桜、いいの?」

挨拶を返すよりも先にそちらの方が気になって先に聞いてしまった。東堂君はふっと笑うと「挨拶は返すものだぞ」と言った。こういうところ細かい人だったなと今更ながらに感じた「おはよう、それでもういいの」ともう一度言えば今度は難しい表情をしてみせた。一体なんなのだ、私はそんなに難しいことを聞いているだろうか。

「…もうすぐ散ってしまうからな、ところで名無しさんさん土曜日花見にいただろう?」

確か東堂君は桜が葉になるまでずっと毎日みることを続けていたのにどうしたのだろう、散ってしまうなんて理由で片づけられるほどではないと勝手に想像していた。「ああ、うんいたね」そっちのほうばかりに思考がもっていかれて随分適当に返してしまったのだが東堂君はそれを聞いてさらに顔を歪めた。

「隼人と一緒だったか」

「うん、まあ」

「なぜだ」

え、と思わず声をもらして東堂君をみる。なぜだ、と聞かれても私が新開君に聞きたいぐらいなのだ。「誘われたから」と答えれば「付き合っていないのにか」と返されて頷く。すると東堂君は突然

「ならん!!それはならんよ名無しさんさん!!」

とこちらを指差してそう言った。正直ボリュームが大きすぎたので外とはいえ声を抑えてほしい。今日の東堂君は全体的に変だ、どこがどう、とかではなくておかしいのだとにかく。

「何がダメなのかわからないけど東堂君も一緒にいたじゃない、友達と」

「…見たのなら声をかけてくれればよかっただろう」

「なんだか他校の人ぽかったしね、私人見知りだから」

新開くんの言ってたことをまだ完璧に信じているわけじゃないしむしろ信じろというほうが無理だ。二人が手をつないでたり、キスやハグをしてたら信じたかもしれないけれど東堂くんがそういったことをしているところをみたわけではない。もし本当にそうであった場合応援してあげたいと思っているだけであって確信はない。

「…東堂君ってさ、桜祭りとか行かないと思ってたんだよね。だからちょっと驚いた」

「俺だって行くぞ、しかもその日は休みだったからな。巻ちゃんの休みも調度重なってな」

おっともうすぐHRが始まるから急ごう。という東堂君の声で走ることにしたのだが先程の彼の口からでた巻ちゃんという単語。待って昨日いた人は私の目がおかしくなければ男だったのにもしかして女の人なんだろうか。顔つきで判断してしまっただけに頭の中が混乱している、本人に聞くのが一番いいのだろうけれどなんだか今はそれが怖くてHRに間に合うように走ることしかできなかった。






「やっぱり東堂君は女の子に恋をしてるよ」

「巻ちゃんは男だ」

そういえば、と思いだして今朝のことを思い出して言えば何で巻ちゃんのことだとわかったのか、新開君はさも当たり前に言うとウインクをひとつよこした。それは別にいらないんだけどな、と思いつつもなんでわかったのか尋ねれば「最初は俺たちもそうだったからな」と答えた。どうやら自転車部の面々も最初私と同じ間違いをしたらしい。そりゃ男にちゃん付けなんて今どき珍しいだろう。

「名無しさんさんもしぶといよな、いい加減認めれば楽になるぜ」

「だって、キスは?ハグは?手はつないだの?」

「そこまでは聞けねえさ、だって付き合ってるわけじゃないからな。名無しさんさん案外スケベだな」

「なんでよ!」

「恋人だからってすぐにそういうことするかわかんないだろ?」

言われてみればそうかもしれない、そう考えるとなんだか自分が恥ずかしくなってくる。誤魔化すために「でも、やっぱり違うんじゃい?今日の朝少し話したけど恋人とかそんなこと言ってこなかった」と早口で言った。

「世間一般にみて、普通とは言えない恋愛のことをペラペラいったりできないさ」

すとん、と納得のいく答えだった。確かに私が同性の女性と付き合ってみたらどうだろう、周りには絶対に秘密にするんだろうなと思ったし、気の許した人にしか言えない。あくまで私と東堂君は"友達"だ。


「…ううん、難しい」

「正直に言うと俺にもよくわからなくなってきてる、本当はほっとけばいいんだろうけどでもそういうわけにはいかないんだ」

「友達だから?」

「それもあるな」

大事なことをはぐらかされたような気がした。新開君との最近の会話は専ら東堂君のことについてのような気がするのはきっと気のせいじゃないはずだ。相談したのが私で本当に良かったんだろうかといまだに思うことがあるけれど、もやもやと悩むのはやめにした。これ以上悩んだら頭がパンクしそうだった。




「ねえ名無しさんさんって、東堂くんと同じ学校だよね?彼女いたって聞いたけどどんな感じだったの?」

帰ろうとしたときに呼び止められて何かと思えばそんな内容でまたか、とため息をつきたくなる。正直東堂君に人気がでてからもう何度聞かれて何度ため息をついたかわからない。人気者ってこうやっていろいろ探られて大変なんだなと最初は同情していたものの今となっては冗談じゃない。なぜこっちにこうしてとんでくるんだ。


「うん、まあ…すごい良い子だったよ…」

「へえーやっぱりかわいいんでしょ?でも死んじゃったんでしょ…、そう聞くと可哀想だね…東堂君彼女作らないって聞くけどそれが理由なのかなあ」

なんでこんな話に、しかもよく話したこともない人としゃべっているんだろう。可哀想だなんて誰も簡単に言えることば知りもしないのによくもまあそんな出てくるものだ。本当に聞きたいのは彼女のことなんかよりも後者のほうなんだろう。

「作らないのはきっと、自転車が忙しいからじゃないかな。私自転車競技部に他校何だけどやってる知り合いがいて、練習ばっかりで彼女を作る暇もなければ構ってあげることもできないって言ってたからさ。もうすぐIHもあるしきっと忙しいんだよ」

他校に知り合いなんてもちろんいないし適当に作った嘘だ、こう言えばきっと納得してくれるだろうと思ってその場を取り繕うために私はよく使う。嘘も方便だしいいかと毎回言い訳をしては東堂君に勝手なことを言って申し訳ないと謝りつつもこういうのだ。

「それにこういうのって、本人に聞くのが一番だと思うんだ。好きならぐいぐい行かなきゃ」

「そ、そうかな。ありがとうね名無しさんさん」

「うん、全然良いよ」

でも二度と聞いてこないでねという言葉は呑み込んで笑顔をはっつける。ファンクラブってどうやってなるんだろうとかどうでもいいことを考えつつも彼女がいなくなったのを確認してから

「出ておいでよ」

と声をかければ、廊下の死角になっていた部分に東堂君がいた。途中靴のすれる音が響いてまさかな、とは思っていたけれどまさかだった。

「東堂君って悪趣味だったんだね、サイテー」

「な!で、でも盗み聞きをしたのは謝ろうすまない。聞くつもりはなかったのだが自分の名前がでてきたら誰でも気になるだろう」

本気で言ったわけではないのだけれど慌てふためいて必死に言い訳をする東堂君は見ていてなんだかおもしろかった。

「いや、謝るのはこっちのほうだよごめんね。勝手にしゃべって」

「何をいう、名無しさんさんが謝ることは何もないだろう。変に言われるよりもああいう対応はありがたい」

「……ひとつ聞いてもいいかな」

「なんだ」

「東堂君今好きな人いるの?」


人通りも比較的少ない場所であるここの廊下なら聞いても大丈夫なはずだ。それにすっきりさせておきたかった、本当なのかどうか。


「………好き、と言っていいかわからないんだ」

あれ、返ってきた答えが意外で「え、なにそれ」と思わず返せば東堂君は考え込んで「どうなんだろうな」と腕を組んで暫し沈黙した。この場合私はどうすればいいんだろう、と困り果てて外にいるテニス部やらを少しの間ながめたりしていた。東堂君が再び口を開いて意識をそちらに戻したのはきっと五分程度たってからのような気がする。


「名無しさんさんは、同性を好きになることがあるか?」

やばい、これは。この質問ってもしかして、あれじゃないか。新開君の伏線が本当になってしまうんだろうか。心の中での動揺ははんぱなものじゃなかったけれどうわべは平然を装うことに必死だった。


「…私は普通に、えっと、女の人を好きになったことはないかなあ……?」

「……あいつがいなくなってからな、恋をするのが怖くなったんだ。誰かを愛して、急に眼の前からいなくなることが」

「…………」

「急にいなくなるんだ、目の前で、もう動かなくなって、二度とオレの前で笑うことも名前を呼んでくれることもしなくなるんだ。おかしいだろう?たった数時間前には普通に笑うことだってできてたのに。そんなことがもう一度あったら、そしてオレが彼女を愛してしまうことをやめたら、と考えると怖いんだ今でも」

東堂君の口から本音を聞けるのはこれが最初で最後になるんじゃないかと思うほどに痛々しい彼の心の内はつらいものだった。事故を目の前で体験した彼には本当につらいことなんだろう。ぎゅっと口を結んで表情も心なしか寂しそうに見える東堂君はいつものような勝気な部分は垣間見えさえしない。


「じゃあ、女の人に恋をするのが怖くて男の人を好きかもしれないってこと?」

「……それがまだよくわからないんだ」

首を横にふって曖昧な答えのままの東堂君に新開君が言っていた言葉を思い出す。勘違いしてるんだ、と彼はそう言っていた。


「…好きなら、好きでいいんじゃないかな」

「……おかしいと思わないのか」

「おかしいよ、トラウマが怖いからそっちに逃げる東堂君はおかしいよ。でも、好きになったのが、本当に好きだと思う人がたまたま性別が違ったならそれは別に仕方ないんじゃないかな」

「…でも、オレはいいのだろうか」

「あの子を差し置いて、違う人を好きになってもいいのかって考えてるならやめなよ、いつまでもそうやってずるずる過去を引きずったまんま過ごしててつらくないの。私はつらそうに見えるよ東堂君」

そう言うとはっとしたように顔をあげてから「そうかもしれない……そうだな、それもあるよ名無しさんさん」と苦笑いを溢した。


「でもな、彼女とすごしてきた日々を名無しさんさんは何も知らんだろう…、オレにとってはかけがえのないもので、とても大切で忘れたくないんだ…」

その言葉に何故かかっときてしまった私は思わず少し大きな声で、



「…じゃあもう知らないよ!そうやって、あんたがずっと過去をずるずる引きずるから前に進めないのよ…!一生そのまんまでいればいいじゃない、いない人はもうかえってこないのに!彼女に申し訳ないって思うなら、ずっとそうやって生きてけばいいじゃない!」

確かに私は何も知らないし、知ることだってできないのだ。けれどもずっと私は東堂君を見てきたのだ、好きでずっと気持ちをおさえて彼女のそばにいる東堂君を見てきたのに。知らないのはそっちのほうだろうと泣きたい気持ちになる、思わず口走る言葉というのはまともじゃない。好きな人を好きと言えない彼に、自分に腹が立ったし、なによりも東堂君の言葉はまるでお前には関係ないと突き放されたような気分になった。なんだそれ、今までの私がばかみたいだ。必死に彼をおいかけて思い続けてきた時間は全て無駄だったんだろうか。トラウマを引きずってる東堂君も、彼への思いを引きずる私も大差はないのにそれにイライラして当たってしまう自分にも嫌になった。一言ごめん、と小さな声で謝ってから私はその場に東堂君をおいて走った。いや、逃げたというべきだろうか。
東堂君はもちろん、追いかけてくることはなかった。その後彼がどんな表情をしていたのかも私にはわからない。