たとえ涼太が家にいようと仕事はよっぽどのことがない限りなくならないし行かなければならない。起きて最初に目に入った涼太の顔に思わず頬が緩むけれど仕事のことを考えるとまた憂鬱な気分になる。
上司が休んでくれないかな、とか急な用事が入ればいいのにとか願っても仕方がない。ベッドから起き上がろうとしたけれどぎゅうと抱きしめられていてなかなか抜け出せない。疲れているであろう涼太を本当は起こしたくはない。どうしようと悩んだけれど仕事に遅れるわけにはいかない、小さく涼太の顔をゆさぶって「涼太、涼太起きて」と呼び掛けると小さく唸ってうっすら目を開けた。

「離してくれなきゃ仕事、いけないよ」

「行かなくていいよ、どうせやめるんスから…」

さらにぎゅっと力をこめて抱きしめる涼太に嬉しくなったけれどこのままだと流されてしまう。

「でも、最後までちゃんと働きたいし…それに決定事項なの?絶対?」

「絶対、俺と暮らす」

目をこすり眠そうな表情ながらも言葉だけは力強かった。

「……今日帰ってきたらちゃんとお話しよう?朝ごはんも作っていくし早めに帰ってくるから、ね?」

少し不服そうだったけれどそういうとしぶしぶといった様子で離してくれた。小さな声でおやすみと呟いて朝ごはんの用意をするために部屋を後にした。



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朝食といってもあの様子じゃ涼太が起きるのはお昼頃になってもおかしくはない。時間もなかったし軽いものを作って家を出る、いってきますと返しても帰ってこないけれど私の帰る場所には今涼太がいる、それだけで朝の憂鬱だった気分は少しなくなった。



会社にいってまず先にすることは昨日の謝罪だろうか、黙って飲み会を抜け出したことを謝らなければならないなと思った。お酒のせいで記憶がふっとんでいたりそんなうまいことあればいいなと思ったし、会社をいずれやめるのならば謝罪なんてと考えたけれどそれは人間としてだめなような気がする。

上司に「すいませんでした、昨日急用で何も言わずにぬけてしまって…」と謝れば思ったよりも怒っておらず「ああ、いいよいいよ」と軽く流されてもしかして本当に自分の思った通りうまいことがおきたのだろうかと思ったけれど現実はそう甘くなかった、

「今日もまた付き合ってくれたら」

「え、えと…あのすいません今日は…」

笑顔を崩さないままの上司にあ、これはだめだと思った。お金も払わずに昨日帰ってきてしまったしこればっかりは自分の責任だろう。涼太に早く帰るっていったのに、これじゃあうそつきだ。また憂鬱な気分に戻る。


「……帰りたいな…」

まだはじまったばかりだけど切実にそう思った。




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「名字さんも大変だよね、あんな変なのに好かれて」

自分の席につくなり隣の子にそんなことを言われて少し驚いた、

「好かれてる、じゃないと思うよ。たぶん私がお酒に強いから飲みつぶれない人が良いんだよ」

「…えー、名字さんって案外鈍いのね…だって私そんな頻繁に誘われないしおかしいって」

「えーそうかなあ」

苦笑いを溢すしかできなかった、だって年の差を考えると20ぐらいはあるんじゃないだろうかという年齢。あっちが良くても私には無理だ、それに涼太だっているのに。
大体なぜ私なのかわからなかった、ここが田舎というのもあるけれど若い人が少ないからだろうか。

「普段は良い人だけどお酒を飲むとどうにもだめよねあの人」

全くその通りだった。



今日も今日とてお酒をたくさん飲む上司に対しいつ終わるのか時計ばかり気になって仕方がない。本当は電話をしたかったけれどもずっと前に涼太の電話番号もメアドも消してしまってもう残っていない。昨日聞くべきだったと後悔したけれどもう遅い。自分は何をしているのだろうか。

「名字さんて独身って前に言ってたよね、彼氏とかは?」

急に話しをふられて驚きつつも「あ、彼氏最近またヨリを戻したんです」と言うと少し驚かれた。
最近といっても昨日のことなのだけれど間違ってはいない。

「そ、そうなんだ……、あー残念だなあ俺君のこと気に入ってたのに」

「そうだったんですか…いや、こんな女いいとこ全然ないですしやめといて正解ですよ」

今日の朝会話したことはあながち間違っていなかった、気に入るってなんだ。私のどこが気に入ったのかわからないけれど良い気持ちではなかった。

「じゃあ、その彼に言った方がいいんじゃないかなやめといた方がいいって」

手を取られてこれは本格的にやばいなと思った、もしかすると今日の彼は酔ってなんかいないのかもしれない。帰るタイミングを完璧に逃した。周りの人たちは気付かぬふりをしているのか皆飲んだりしているしどうしたいいのだろう。

「ヨリを戻した男なんてロクでもないんだろう?やめておきなよ」

「何も知らないのに勝手なことを言わないでください…」

だんだん近づいてくる体を手で押して視線をそらし持ちこたえようとするけれど力が強い、吐き気がする。帰りたい。

するとタイミングの良いところで電話が鳴った。今は誰だろうと構わない救世主だ。

「す、すいません…でてきますね!」

呼び止めるような声が聞こえたけれど今は振り返ってられない、すぐに帰らなきゃ。帰ったら私を待ってくれる人がいるから。


店の外にでて電話にでると黒子君だった、正直すごく驚いたものの電話にでてそれから黄瀬君のこととか、黒子君が救世主になったことを夜の道電話で語って歩いた。

「ところで名字さん今何時で、どこを歩いてるんでしょう」

その一言で現実に引き戻されて帰ったらなんと言い訳しようか必死に頭を働かせた。











「お、そい」

家に帰るなりぎゅうと抱きしめられてそう言われた。ごめんねと思う気持ちはあったけれどまず先に涼太を抱きしめ返す。


「どこいってたんスか、早く帰るって思ってた」

「ごめんね、少し会社の人に誘われちゃって」

「……お酒の匂い」

「私は飲んでないんだけどね」

「………今日は、泣いてない」

そっと指でほおをなぞる涼太の手がくすぐったい、今日は、ということはまだ昨日のことを引きずっているんだろうか。聞かれたままはぐらかしていたな、とふと思った。


「……一緒に、戻ろう」

たぶんその一言をいうのをいつ言おうか涼太も図っていただろうし私自身もずっと待っていた言葉だと思う。もういいんじゃないか、ずっとこうして言われることをどこかで待っていなら素直に言ってしまえばいい。


「うん……」

そう言って頷くだけなのに、すごく遠回りして時間がかかってしまった。


「名字に断られたらどうしようってずっと思ってたんス、昨日言った時はあんまり良い反応じゃなかったしここってそんなにいいのかって思って、少し悔しかった。俺がいない間に、俺よりもこの街への思いが強かったらって思って…。でも、もうそんなの気にしないっス、再開して今日少しいなかっただけでどうしようもなく不安になってまた探さなきゃって気持ちになるんス。もう待たせないから、俺と一緒に戻ろう」

もう一度力強くしっかりと言った涼太になんだか泣きそうになる。私のことをずっと思ってくれていたことが嬉しくてどうしようもない。離れていたのに、長い間、そして私はここにきてくれた涼太に自分のことを何も伝えてないのに。


「……うん、うん…戻ろう…」

涼太と一緒ならばきっと後悔だってないのだ。






「ね、そろそろ教えてほしいんだけどもういいっスかね」

お風呂にも入ってまた夜遅い時間に二人でこうして起きてるなんてほんとはよくないんだろうけど一緒にいられる時間を削ってしまったのは私の責任だ。今日は涼太はよく練れたらしく夜でも眠そうには見えない。


「何を?」

「なんで、泣いてたかとか」

「……なんていったらいいかわからないんだけど、私今の仕事やってて良かったって思うし、どこらへんからが境界線なのかよくわからないんだけど……少しだけ、少しだけ嫌だなって思うことがあって」

きっと、今の私が言った言葉だけでは主語が足りず涼太には何を言っているかわからないかもしれない、けれどもそれで良かった。もしも、それでわかってくれるのならそれはそれでありがたいし、むしろ今日あったことを自分から結婚する相手に言うのは少しの躊躇があった。きっと涼太は知りたがっているだろうしできることなら伝えたい、けれどももしかするとただの上司のスキンシップかもしれないことが私の勘違いだってこともあるかもしれない。


「……明日一緒にいこ、そんで今日はもう遅いから寝よう」

しばらくしてから涼太が言ったのはそれだけ。私の気持ちを察してくれたのかどうかはわからないけれどどうこう言われて問いただされるよりはずっと良かった。


そして大好きな人のぬくもりに包まれて、私は今日も眠ることができる。











「…ほ、ほんとに来るの?」

「何を今更もうここまで来ちゃったじゃないスか」

にこにこ笑いながら隣で笑う涼太に苦笑いしかできなかっった。てっきり昨日のこというのは私が思うに会社まで送っていってあげる、的なことだと思っていたのにまさかついてくるなんて。


「あ、でも俺少しやることあるから先に会社いって大丈夫っス」

「え、ここまで来たのに?」

さっきと同じようにオウム返しで返せば少し笑って「いってらっしゃい」と額にひとつキスを落とした。
一瞬何がおきたのかわからなかったけれど、すぐさま状況を理解した。ここは会社のすぐ近くでしかも外なのに、嬉しかったけれど、けれどもなんてことを。


「な、な…」

「顔真っ赤っスよ、もう結婚したら毎日してもらいたいのに!」

ふわりと頭を柔らかく撫でてから涼太は行くべきところへ向かって行った。暫くその場で呆けていたけれどはっとしてあわてて会社へと向かった。






「あ、おはよう名字昨日も大変だったでしょう」

同僚の人が昨日上司に誘われたことを言っているのか気を使ってそう声をかけてくれた。


「…あー、それなんだけど、昨日途中で逃げ出しちゃったんだよね」

「あらま、でもそれが正解よね。あんなのに毎回毎回誘われてそりゃ逃げたくもなるよ」

途中からは普通の声量での会話ではなく、小声になったもしも聞かれていたらまずいからだ。あくまで上司だし私たちよりは権力というものを持っている。もしやめさせられても私は構わないのだけれど、同僚の子が困ってしまうだろう。



「名字さん、おはよう」

突然の声に吃驚しておそるおそる振り向けばそこには先程まで会話の中心人物であったひとがそこにいた。


「お、おはようございます……」

どうして私だけに、非常に気まずくて逃げたくて仕方がなかった。


「昨日はね俺も少し悪かったなって思ってる、でもね名字さん嘘はいってないんだ。不自由な思いはさせないし、ね考えてみてよ」

「………あ、あの……」

「もーやだ私が目の前にいるのに堂々と口説くっていどういうことなんですか」

同僚の子が気を利かせてそう言ってくれたけれどあまり効果がなくそれでもなお私にだけ向けられる言葉に好意を向けられていたということはあながち間違いではなかったのかもしれないなんて思った。


「ね、名字さん……」

手を握られれば思わず喉まででかかった悲鳴をぐっと耐える。


「あ、あの…離して…」


「すいません、離していただけませんかね」

私の前にかばってくれるように立つ人物に思わず目を見開く、


「りょ、涼太……」

「遅くなってごめんね、大丈夫…じゃなかったっスね」

眼鏡をかけて髪型もいつもより真面目にきめて、スーツを着ている涼太を見てもしかしてこの準備をしていたのだろうかと思った。


「え、やだちょっと黄瀬涼太なの?」
「本物?」
「うそうそ!なんでいるの!?」

こんな田舎だろうとやはり涼太の知名度は高いらしく会社の中が少しずつざわついてきている。



「すいません、少しあんたのこと聞いたんスけど人の婚約者にセクハラじみたことしてたらしいっスね。それも今日限りで終わりなんスけどね、残念。ずっと前から名前は俺のものなんスよ、少しでも可能性があるって思ってた?そんなわけないっしょ、名前がしゃべってくれないし何かあることはわかってたんスけど、まさかこんな嫌がらせだったとは…今日限りで名字名前は会社やめるんでよろしくっス、それとまあほんとはあんたのこと許せないけどとりあえず、ショックでたまらないって表情が見れたんでまあいいっスわ

名前だけは絶対に譲れないんスわ、さようなら」



私が言いたかったことを全て代弁していってのけた涼太はどこかすっきりした表情で「さ、かえろ」と手を握った。
かっこいい、悔しいけど私はどうしようもなくこの人に惚れてしまっている。

ぎゅっと手を握り締めてる間も心臓がうるさくって仕方ない。




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「なんで変装してるの?」

「会社員に紛れ込んで名前が教えてくれないことを会社の人に教えてもらおうかなって」

帰りどっかに寄って行こうかという話になり、涼太とふらり二人で歩きながら会話をする、もちろん手は握ったままだ。


「……そっか」

「ごめんね、言いたくなさそうだったから、これしかないかなって思ったんスよ。それに手っ取り早く会社を辞める理由が必要だったし。ま、変装の効果はあったようでなかったようなものなんスけどねー。すぐばれてたしまあ仕方ないっスよね、簡単なものしか用意できなかったし」

なんだか今日の涼太はいつもよりしゃべるような気がする、別に困ることはないけれどおかしい。


「……言ってくれたらよかったのに、実際に現場みたりしてないけどさあ誰かに名前が触れるってことがもう嫌っスわ、こんなことで嫉妬する俺すごいかっこ悪いなって思うけどやっぱり今度からはちゃんと、言ってほしい」

「…ごめんね……」

「できるだけ、俺が守ってあげたいけど今みたいにいつでも傍にいれることだってないかもしれないんスよ。俺が探してる間だって……くそ…」

涼太が苛立ってしまうのも仕方がないなと思った、私がきちんといえなかったことにも問題がある。自分じゃどうしようもできなくて結局涼太に頼ったのに、


「…ごめんね」

「怒ってるのは自分にだから、気にしないでほしいっス。俺こそごめん…焦ってる気持ちも少しあるんスかね自分の中で、誰かにとられちゃうんじゃないかって思っちゃうんスよ。ずっとあってなくて俺が一緒にいない間ここにいる人間のほうがずっと近くにいてって考えると…ほんと、おかしいんスよね」

苦笑いを浮かべる涼太に胸が苦しくなる。



「ご、ごめ…」

「だーからー、謝るのだめ!もうこのお話はやめようっス、ずっと嫉妬でもやもやするから。今日の夜ごはんのことでも考えようっス」

ね、と柔らかい笑みを浮かべて微笑む涼太に、この人の隣でよかったと思った。


「ありがとう…」

「うん、その言葉のほうがききたかった」


ぎゅっと強く手をつないで帰る道はいつも通るはずなのに景色が少し違うようなそんな感じがした。






黒子君には感謝してもしきれないので一応これまでのことを報告すれば『やっとですか、君たち、ばかなんですかほんと。お互い好きなくせに無理しちゃって。とはいえ、おめでとうございます、結婚するんですよね?』
と言われた。

「い、いや結婚、はまだ…」

「結婚するっスよ!もちろん黒子っちも招待するから楽しみにしてて!」

後ろから少し重みがかかって携帯をとられ、すぐそばでそう言われた。一緒に暮らすといえど結婚はもう少し先だと考えていたので少し驚いた。

「するの…?」

「えっしないの?」

暫し見つめ合ってから


『うざったいんでさっさとして爆発したらどうなんですか』

とため息とともに聞こえてきた声に二人で笑った。


「黒子っちひどいっス、……しよっか結婚」

「そうだね」


電話の向こうで黒子君がまたため息を吐いたのはいうまでもない。