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最終話


 ――人魚。

 それは、水中に生息する生物の総称であり、上半身は美しい若い女の姿をしており、下半身は美しい鱗をした魚の足をしているとされている。

 ある一説では、それは美しい歌声を持ち、その美しい歌声で航海者を惹きつけ難破させるという恐ろしい魔物として。

 ある一説では、人間の男に恋をして、尾ひれを捨てて陸に上がり、最後は海へと帰る異類婚姻譚の物語として。

 はたまたある言い伝えでは、その血肉を食せば不老不死を得ることができるという伝承として、その存在は知られていた。

 しかしその存在の正確な輪郭を描くことはできず、どれもこれもが作り話に尾ひれがついた伝説上の生き物≠ナしかない。

 人魚という存在を、確かに見た者はいないのだから――。






 西の国の海には、数十年に一度、海に色とりどりの花が流れることがあった。

 その花々は小さくて愛らしく、青い海に鮮やかな色を彩って、ゆらゆらと波に揺れて遠く向こうへ行き、やがて海の底に沈んだ。

 その光景はほっと息が漏れるほど美しく、西の国の人々はこれを人魚の伝承になぞらえて、人魚に恋をした男が海へと消えた人魚へ花束を贈っている、と言い伝えた。





〇 ● 〇





 照りつく太陽に肌がじりじりと焼け、太陽の光が海に反射して眩しい。風は生温く、吹き付ける潮風はべっとりとしていて、少し居心地が悪い。日陰にいるというのに、熱気にあてられて思わず汗をにじませた。


「シャイロックは海に入らないの?」
「こちらはとても気持ちいいよ、シャイロック」


 賢者と賢者の魔法使いたちは、海へと出かけていた。季節は夏で、気分転換も兼ねてどこかへ涼みに出かけようと提案されたのだ。そこで、涼むなら海へ行きたいと言う多数の声により、こうして穏やかな波を打つ海へと足を運んだ。

 シャイロックは海に入ることはせず、砂浜に設置したパラソルの影で涼みながら椅子に腰を掛けて冷たいドリンクを飲んでいた。はしゃぐ若い魔法使いたちを眺めながらお酒でも飲みたいところだったが、万が一のことを考えて、お酒は控えることにした。


「私は遠慮しておきます」


 膝辺りまで海に入ったクロエとラスティカに誘われたが、シャイロックはにこりと微笑んでそれを断り、冷たいドリンクを喉に通した。

 海に入ってはしゃいでいるのは、比較的若い魔法使いたちだ。もしくは、それに付き添っているフィガロやレノックスやラスティカといった年長者たちだ。暑いのが苦手な北の国出身の魔法使いたちは、いくつか設置したパラソルの下から動こうとせず、ファウストやネロも若い魔法使いたちに気を配りながら日陰で涼んでいた。

 シャイロックはそれらを流し見したあと、ゆっくりと波打つ海を眺めた。波音は静かで、心地好い。瞼を閉じれば、海はより近くに感じられて、まるで海の中にいるような感覚になる。賑やかな声に囲まれながら、そっとその音に耳を澄ませて、シャイロックはひとり静かに身を委ねた。

 そうして、どれくらいの時間が経っただろう。ふと、賑やかな声に困惑の声が混ざった。それはだんだんと大きくなって、シャイロックは閉じていた瞼を開けた。

 目を配らせてみると、その困惑の声はリケとミチルだった。二人は近くにいたクロエとラスティカにその困惑をぶつけていて、シャイロックは椅子から腰を上げて彼らに近づいた。


「どうかしたのですか」


 後ろから声をかければ、若い魔法使いたちは眉尻を下げてこちらを見上げた。シャイロックの問いに、リケとミチルから話を聞いていたクロエが、二人の代わりに口を開いた。


「よく分からないけど……リケとミチルが、人魚を見たって言うんだ」


 その言葉に、思わず思考を止めた。

 あの美しい青が、脳裏に浮かんだ。


「――人魚」
「う、うん。それで今、探してみようって……」
「どこでですか」
「え?」
「どこで見かけたんですか」


 性急に言葉を被せて問いかけるシャイロック。その様子は普段の優雅でマイペースな姿とは違って、気圧されたクロエは戸惑いを見せていた。その様子を見ていたリケやミチルそしてラスティカも、普段のシャイロックとは違う様子に気づき、首を傾げていた。


「え、えっと……二人の話だと、あそこの岩場の傍だって……」


 気圧されながらもクロエはそう言って、二人から聞いた場所を指さした。そこは海辺の近くにある岩場で、此処から遠くもない。

 それを聞いたシャイロックはすぐさま岩場へ目を向けて、海に足を踏み入れてひとり歩き進んだ。波に足元を取られながらも足早にそこを目指す。背後からクロエたちが呼んでいたが、それさえ耳に入らない。聞こえるのは、波打つ海の音と水飛沫が跳ねる音だけ。

 岩場の近くまでくれば、気付けば腰の近くまで海に浸かっていた。足元がおぼつかないなか、シャイロックは身体ごと動かして辺りを見渡した。視界に映るのは、青空に反射した真っ青な海。海が太陽の光に反射して、視界を眩ませる。そんななか、あの美しい姿を懸命に、必死に、希うように探していた。

 けれど、その姿を見つけることはできなかった。映るのは、ゆらゆらと揺れる波だけ。綺麗なあの髪も、不思議な光彩を放つあの鱗も、波ように揺れていたあの尾ひれも、そこにはなかった。


「……私らしくないことをしましたね」


 思わず、自嘲めいた笑みが零れた。肩を落として、身体の力が抜ける。

 そして、可笑しくて笑った。


「本当に、貴方はいつも、私に素敵な贈り物をくれる」


 貴方の姿を見つけられなくて、落胆してしまう自分が面白くて。自分で自覚するよりも、貴方を求めていた自分が可笑しくて。いつもいつも、貴方という存在は私に新しいものをくれる。それが嬉しくて、それが楽しくて、そのたびに貴方に想いを募らせていく。

 憂いはない。悲しいわけではない。だってこうして、貴方は私に素敵なものをくれるのだから。

 美しい海を見つめて、くすりと笑みを零した。

 後ろから心配してあとを追いかけてきたクロエたちの声がする。それに振り返って、大丈夫ですよ、と笑みを返した。そして、そのまま後ろ髪を引かれることも無く、シャイロックは陸に向かって歩き出した。


 ――視界の端で、美しい青が揺れた。


「――っ!?」


 途端、なにかに引きずられて身体を海の中に沈めた。なにかが足首を掴んで、強く引っ張ている。クロエたちの驚きや不安の声が、海に引きひきずられる瞬間に聞こえたが、それに応えることもできない。

 息ができない。酸素を奪われて、海の中に引きずり込まれて、呪文を唱える術を失くす。口を開いてみても、呪文を唱えることはできず、空気を含んだ泡が零れ落ちて浮かんでいくだけ。

 シャイロックは息苦しさを感じながら、瞼を開けた。海の中は真っ青で、神秘的だ。音はかき消されて、まるでひとりきりの世界に迷い込んだようだ。

 なにかが揺れた。

 それは、美しい青だ。


「っはあ……!」


 水中から顔を出して、肺いっぱいに酸素を取り込む。少し咳き込みながら、浅瀬に向かって、その場に座り込んだ。

 海に引きずり込まれたシャイロックに動揺して行動に移せなかったクロエたちは、すぐに海から出てきたシャイロックに安堵しながら、水飛沫をたくさん跳ねらせながらすぐさま駆け寄ろうとした。だが、その足は途中で止まった。


「……ふ、ふふ……あはは」


 全身ずぶ濡れになった状態で、シャイロックは顔を俯かせながら、声を上げて笑い出した。含むような笑みではなく、心底楽しそうに、面白そうに笑みをこぼしていた。それがこの状況に噛み合わなくて、思わずクロエたちは足を止めてしまった。

 シャイロックはひとしきり笑い終えると、なんとも言えない愛しさを詰め込んだ笑みをくしゃりと浮かべて、それ≠見つめた。


「まったく……貴方はお転婆なんですから。困ったひとですね」


 それを見た、美しい青い髪に綺麗な青い尾ひれを持った人魚は、頬を緩めて静かに、それでいて嬉しそうに微笑んだ。

 濡れた手で、そっと両頬を包み込んだ。そのままゆっくりと持ち上げて、額を触れ合わせる。視線を合わせれば、海を体現したような瞳が、じっと自分を見つめていた。


「――おかえりなさい、私の人魚姫(メルジーナ)」