Remarquer
午後の食堂で、ヒースクリフはひとりため息を落としていた。両肘をテーブルについて、顔を俯かせて、今日で何度目かの重いため息をゆっくりと吐き出す。そのまま上半身を丸めて、テーブルに突っ伏す。
ここ最近のヒースクリフなら、この時間帯は彼女が居る中庭に向かっているはずだった。けれどヒースクリフはなんだか彼女と顔を合わせづらくなって、ここ数日はぱったりと中庭へは足を運ばなくなっていた。
思い出すのは、あの夜の日のこと。彼女は自分のことを好きだと言ってくれた。それは驚くことではあったが、嫌な気はしなくて、むしろ嬉しかった。彼女に好意を抱かれていることが、ヒースクリフは心から嬉しかった。きっと、自分も彼女のことが好きだった。彼女と同じように、自分も毎日彼女に恋をしていた。だから、言いようがない歓喜がそこには確かにあった。
けど、だからこそ、ただただ悲しかった。
今までは平気だった。片想いは一方的で、自分勝手で、ただ相手を想うだけの一方通行だからだ。相手がどう思っているかは関係ない。それは自己完結しているから。でも、その一方通行の想いが交わったらどうだろう。通じてしまった以上、ひとりでは終われない。互いに想い合うことを望んでしまう。受け入れてもらえた喜びを知ってしまったから、手を取り合いたいと思ってしまう。
けれど、それは叶わなかった。
彼女の時間だけが巻き戻されてしまった。せっかく想いが重なったのに、なにもかもが無かったことになった。なにもかもが、まっさらになってしまった。
重々承知していた。ちゃんと理解していた。何度も時間が巻き戻る彼女を見ていたのだから、たとえ想いが重なっても最初からやり直しになると、わかっていた。けど、頭で理解しているのと実際で目の前で起こるのでは、全く違った。
悲しいと思ってしまった。空しいと思ってしまった。大丈夫だと高を括ってた。でも目の前でなにもかもが巻き戻されて、自分だけを置き去りにされるのがどうしようもないくらい辛くて、こんなことなら、と思ってしまう自分が酷く臆病で嫌になった。
深くため息を落とす。すると、ひとりで項垂れているヒースクリフを見つけたシノが無遠慮に近づいてきた。
「ヒース。最近あいつと一緒にいないが……なんだ、喧嘩でもしたのか」
「違うよ……」
「ふん、だろうな」
顔を上げないまま声音を落として答えれば、シノは「喧嘩しても、どうせいあいつは次の日には忘れてるだろ」と言い放った。その言葉は事実で、まさにそのことで落ち込んでいるが、どうしてもその言葉は許せなくて、俯いた顔を上げて強く睨みつけながら「シノ」と咎めれば、ふん、とシノはそっぽを向いた。
まったく、とヒースクリフは片手を額に当てて数度目のため息を落とした。
「……なんかさ」
視線をテーブルに落としたまま、ヒースクリフは独り言のように呟く。このもやもやを、誰かに打ち明けたかったのだ。
「今まではあんまり気にならなかったのに……なんだか、最近は少し辛くてさ……」
「忘れられるのが、か?」
シノの問いに「うん……」と声を落ち込ませながら頷く。するとシノは少し考えこんでから「確かに、毎日『はじめまして』は面倒かもな」と、場違いなことを答える。そう言う事じゃない、という意味を込めて「シノ……」とため息交じりにヒースクリフは再度項垂れた。
シノに相談するのは失敗だったかな、と思わず考えてしまったが、結局誰に相談しても自分でどうにかしないといけない。この胸に膨らむもどかしさを打ち明けたところで、なにも解決はしないのだ。
結局のところ、自分はどうしたいのだろう。彼女に覚えていて欲しいのだろうか。そんなの、我が侭だ。そんなことを求めてもどうしようもない。何度も何度も忘れてしまう彼女が一番、きっと覚えていたいはずなのに。あまりにも、身勝手だ。
「あ。あいつだぞ、ヒース」
「えっ!?」
思わず大きな声を出して、その勢いのままガタンッと音を立てながら立ち上がった。
彼女はいつもこの時間は中庭にいるのに。どうしてこんなところに居るんだろう。
シノが「ほら、あそこだ」と言って指さした方に視線を向ければ、きょろきょろと辺りを見渡しながら慣れない足取りで歩く彼女がいた。様子からして、なにかを探しているようだった。ふいに顔を上げた彼女と視線が合って、ヒースクリフはどきりとして身体を強張らせる。そんなヒースクリフに気づかないまま、彼女は足先をこちらに向ける。
シノはこちらに来る彼女を見ると、にやりと笑って「じゃあな」と踵を返した。そのまま彼女と入れ違いになって食堂を出ていく。まるで気を遣ってやったぞ、とでも言いたげな自慢げな顔だ。そんなシノに文句を言ってやりたくても、彼女がすぐ目の前まで来てしまって、足踏みしてしまう。
「あ、えっと……」
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
すぐ目の前まで来た彼女が、いつものようににこりと微笑んでそう言った。なんだかこのやり取りは、最初の頃にもした気がする。
そうだ。最初の頃は、いつも彼女から声をかけてくれた。人と話すのが苦手で、上手く言葉を繋げられないのを気遣って、彼女がいつも話してくれていた。なんだか懐かしい、と感じた。彼女とこうして顔を合わせて話すのも、あの日の夜以来で。まともに彼女の顔を見たのも、久しぶりだ。
彼女はじっとこちらを見上げてくる。沈黙が流れると彼女は進んで口火を切ったのに、今は黙り込んでいる。まるで観察するみたいにじっと見つめてくる視線がなにを意味しているのかわからなくて、その真っ直ぐな視線を受け止めるのも苦しくなって、でも彼女を避けていた罪悪感からか逃げることはできなくて、ヒースクリフは戸惑うまま右や左に目を泳がせた。
「貴方がヒースクリフ?」
「――え」
初めての言葉に、目を大きく見張った。泳がせていた視線をもう一度彼女に向ければ、彼女はじっとこちらを見つめている。その瞳に迷いはなくて、そこに自分の姿を映しこんでいた。
驚きのあまり言葉を失くした。上手く声が出なくて、それでもどうしても聞きたくて、途切れ途切れになりながらも震えた唇を動かす。
「あ……ど、どうして……俺が、分かったの……」
彼女は、これです、とどこか嬉しそうにしながらノートを掲げて見せた。それはいつも彼女が持ち歩いているノートで、彼女の記憶代わりをしている大事な思い出。それがどう関係しているのか分からなくて、ヒースクリフは首を傾げる。
「これに、たくさんヒースクリフのことが書かれてたんです」
「俺の……?」
「はい! 最初のページから最後のページまで、たくさん」
そう言って、彼女はぱらぱらとノートを開いた。どのページもぎっしりとたくさんの文字が詰まっていて、彼女の繊細な文字で綴られている。彼女はどのページも愛おしそうに見下ろしながら、指先でなぞる。
「それを読んで、どんな人だろうなって。私も会ってみたいなって」
彼女がなぞる文字を見下ろした。するとそこには自分の名前が綴られていて、一ページに幾つもその文字があった。ぺらり、ぺらり、と彼女がページを捲るたび、その文字は何度も現れて、彼女の記憶にその名前が刻まれていた。
言い様がない感情が、胸の内から溢れた。
「それで探してたら貴方を見つけて、きっとこの人だって思って」
ノートから顔を上げた彼女が嬉しそうに笑いながら見上げてくる。目をきらきらと輝かせて、本当に嬉しそうに笑う。一緒に外へ出掛けるのに誘った時のように。星空を見に誘った時のように。
彼女はそっとノートを閉じると、改めて真っ直ぐな眼差しを向けた。
「貴方がヒースクリフですか」
ああ……なんだ、と思った。こんなにも思い悩んでいたのに、なんだかちっぽけなことに思えた。
彼女に忘れられたからなんだというのだろう。最初は、少しでも彼女の力になれたらと思った。真っ直ぐな彼女に惹かれて、彼女の笑顔に目を奪われて、彼女と過ごす穏やかな時間が幸せで。そうだ。ただ、彼女の笑顔をそばで見つめられればよかった。ただ、彼女と優しい時間を過ごせればよかった。たとえ忘れられても、自分は覚えているから。彼女が忘れても、そのぶん自分が覚えているから。それに、彼女が覚えていないからなんだ。それでも彼女は、文字でしかない知らない思い出を頼りに、こうして自分を見つけてくれた。それだけで、それだけでいい。
「……うん……うん」
込み上げる想いを噛み締めながら、しっかりと頷く。
ああ、そうだ。そんな彼女だから、自分は好きになったんだ。そんな彼女だから、自分は恋をしたんだ。たとえ彼女に忘れられても、この想いが消える訳じゃない。彼女が好きである気持ちは、自分のなかに変わらず在り続ける。
涙ぐみながら、顔を上げて真っ直ぐ彼女を見つめた。そこに、恋をした彼女がいる。
「はじめまして、俺はヒースクリフ。貴女の――貴女の友人です」
あの時は、応えられなかったけど。今はまだ、言えないけれど。でも、絶対に貴女に好きだと伝えるよ。