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Premier amour


 その日もヒースクリフはアシェンプテルのもとへ向かった。彼女と過ごす日々は楽しくて、気付けば彼女が魔法舎へ来てからもうすぐ一ヶ月という月日が過ぎようとしていた。時間が過ぎるのは早いな、と感じたが同時に、まだ一ヶ月も経っていないんだ、とも思った。彼女と過ごす時間が生活の一部になっていて、なんだか時間の流れに実感がない。


「はじめまして、俺はヒースクリフ。どうぞ、ヒースと呼んでください」
「はじめまして、ヒース。私のことも、アーシェンって呼んでください」


 毎日繰り返すフレーズを口にして、彼女の隣に腰を下ろして、いつものようにお互い今日あったことを話し合う。そして彼女の楽しそうに笑う表情や花が綻ぶみたいに微笑む顔を見て、ほっと息を零して眩いものを見るようにそっと目を細める。


「よかった今夜、一緒に星空を見に行きませんか?」
「星空を?」
「はい。ムルが、今日は空が澄んでてよく見えそうって言ってたから」


 本当は、今日は空が澄んでいて月がよく見えそう、と言っていたけど、それは隠して伝えた。べつに夜空に浮かぶのは月だけではないし、空が澄むなら星だって綺麗に見えるはずだ。


「……どうかな?」


 自分から誘ってみたものの、なんだか気恥ずかしくなって頬を指で掻いてそれを誤魔化した。少し断られるかもという不安もあったが、それは杞憂に終わって、彼女はぱあっと表情をきらきらとさせる。


「是非! とっても素敵な夜になりそう!」


 そう言って上半身を前のめりにさせながら目を輝かせる。

 よかった、とほっと胸を撫でおろして、ヒースクリフは思わずに緩んでしまいそうになる頬を堪えながら続けた。


「じゃあ、夜にまた此処で」


 その言葉に頷くと、彼女はノートにペンを走らせて『ヒースが夜空を見に行くのに誘ってくれた』と書き込んだ。それを緩んだ表情で見つめてから、彼女はノートで口元を隠す。


「ふふ。今日の夜が楽しみです」


 その愛らしい表情に、誘って良かった、と心から思って、今夜が待ちきれない気持ちに溢れた。







 それからあっという間に日が沈んで、約束の時間はすぐに訪れた。ついさっき話してたばかりな気がするのに、もう夜になってしまったなんて。時間はあっという間だ。

 ヒースクリフは寝間着にガウンを羽織って、約束の中庭に向かう。途中でネロに会って「これからアシェンプテルと一緒に星空を見に行くんです」と話せばネロは「ちょっと待ってろ」と言って、温かい紅茶とちょっとしたお菓子をくれた。それから「楽しんで来いよ」と笑って送り出され、ヒースクリフはますます約束の時間が楽しみになった。

 中庭のベンチに着くと、まだ彼女の姿は無かった。ヒースクリフは貰った紅茶やお菓子を傍らに置いて、ベンチに腰を下ろす。いつもは自分が彼女のもとへ通っていたから、こうして彼女が来るのを待つのは新鮮でなんだか落ち着かない。そうして少しばかり待てば、小走りで駆け寄ってくるアシェンプテルが現れた。


「お待たせ、ヒース。待たせてしまいましたか?」
「こんばんは、アーシェン。いえ、俺もいま来たところです」


 いつもは自分が今の彼女の立場にいたから、なんだか不思議だな、と思う。今までは声をかけられるのが苦手だったのに、誰かかがこうして駆け寄って来てくれるのは嬉しいと、今は思えた。

 駆け寄ってきた彼女に、どうぞ、と隣を促せば、彼女はちょこんと隣に腰を下ろした。彼女の膝の上には、いつも持ち歩いていたノートの代わりに、彼女の懐中時計があった。ノートは置いてきたのだろう。すると、ヒースクリフの傍らに置かれたそれに気づいて、目を丸くして見上げてきた。


「これは?」
「ネロに話したら、紅茶とお菓子を持たせてくれて。よかったらどうぞ」
「ありがとう、ヒース」


 お菓子と紅茶を手渡せば、彼女はお菓子を頬張って美味しそうに頬を緩まして、温かい紅茶を飲んでほっと息を零した。美味しいですね、と笑う彼女ににこりと頷く。自分も彼女に続いて紅茶を喉に流し込めば、身体の中から温まる感覚がして思わず息が零れた。芯から温まるような気持ちだ。そこではっと彼女の服装に気づく。


「寒くない? 夜は冷えるから」
「そうですね。上着を持ってくれば良かったかも……」


 アシェンプテルも自分と同じように寝間着の姿だが、上着は羽織っていなかった。ちょっと寒いかも、と言って両腕を摩る彼女。それを見てヒースクリフは急いで呪文を唱えて魔法で毛布を出した。それを、どうぞ、と渡して薄着の彼女に羽織らせる。


「魔法って素敵です」
「そうですか? たいしたことはしてないけど……でも、ありがとうございます」


 温かい毛布に身体を包んだ彼女が、子供っぽく笑いながらそんなことを口にした。

 魔法と言っても、単純に毛布を出しただけで、なにも凄いことはしていない。けれど素直に喜んで凄いと口にする彼女に、ヒースクリフは卑下せずにそれを受け入れた。そうしたこともできるようになったのも、全部彼女のおかげだ。

 すると、おもむろにアシェンプテルが身体を包んだ毛布を両腕で広げた。


「よかったらヒースも一緒に入りましょう」
「えっ」
「ほら、二人で入った方が温かいでしょう?」


 そう言って、彼女はさらに手を広げて誘い込むようにゆらゆらと小さく片腕を揺らした。

 ヒースクリフは思わず頬を赤く染めた。二人で毛布に包まれば確かに温かいだろうが、必然的に彼女との距離が近くなる。まさかそうなるとは思わず、ヒースクリフは慌てて首を横に振ろうとした。けれどあまりに純粋な眼差して彼女が見上げてくるから、ヒースクリフはぐっと気持ちを押し込んで、それを受け入れるしかなかった。


「じゃ、じゃあ……失礼します……」


 どきどきと緊張しながら、そっと彼女と距離を詰めて一緒に毛布を肩から掛けた。毛布の中は二人の体温で温まって夜に凍えることない。けどそれよりも、こつんと触れ合った肩の感触が鼓動を逸らせて、全身の体温が上がっていく感覚がした。

 こんなに近づいたら彼女に鼓動の音が聞こえるんじゃないか、と少し心配になった。でも彼女は星空を夢中で見上げていて、こちらに気づく気配はなかった。それにほっとして、誤魔化すように自分も空を見上げた。


「綺麗ですね」
「はい。普段はあまり気にしていなかったけど、こんなに綺麗だったんですね」


 普段生活をしていて、いつもそこにある夜空を改めて見上げることなんて無かった。空に浮かぶ〈大いなる厄災〉がどうしても目に入ってしまうから、自然と目を逸らしていたのかもしれない。けど、空にあるのは月だけじゃない。見上げてみれば、宝石箱を逆さまにしたように、きらきらした星屑が夜空に散らばっている。

 こんなに星空が綺麗に見えることはあっただろうか。よく澄んでいて星空がいつもより見えると言っても、空に近い場所で見ているわけでも無いし、特別な場所で見ているわけでも無い。それなのに、こんなにも綺麗に星空が見えるのは、隣に彼女がいるからだろう。


「私、幸せです」


 ふと、星空を見上げながらアシェンプテルが零した。


「一日の最後を、今の私の最後の時間を、ヒースと一緒に、こんな素敵な時間で終われて」


 それにヒースクリフは、いいえ、と首を振る。


「また一緒に見ましょう、アーシェン」


 彼女は目を丸くして星空から視線をこちらに移した。そうして瞬きを繰り返したあと、眉尻を下げて少し寂しそうに微笑んだ。そんな顔で笑う彼女は初めて見て、けどそれ以上自分には掛ける言葉を持ち合わせていなくて、ヒースクリフは言葉に念を押すように、はい、と頷いた。すると、彼女はくすりと小さく笑んで、また星空を見上げた。


「……ねえ、ヒース。貴方を困らせるようなことを言ってもいいですか」


 じっと空を見つめながら、ふいに彼女がそんなことを零した。一瞬、彼女がこんなことを言うなんて珍しいな、と驚いたものの、ヒースクリフはすぐさま頷く。


「もちろん。なんでも言ってください」


 そう言えば、彼女はまた静かに微笑んで、空を見上げたままそっと瞼を閉じた。

 しばらく、沈黙が流れた。静かな時間だけが過ぎていき、自分も彼女も微動だにしない。彼女は、なにを考えてるんだろうか。そんなにも、言いにくいことなのだろうか。そんなことを考えても、答えが出るはずも無くて、ヒースクリフはじっと彼女が口を開くのを待ち続けた。

 ふと、彼女が瞼を開けた。彼女の大きな瞳に星空が映って、きらりと輝く。その瞳に真っ直ぐと見つめられ、ヒースクリフは息をするのも忘れた。そして、そっと彼女の唇が開く。


「――好きです」


 水面にそっと滴が落ちるような、そんな静けさ。夜風が吹いて、彼女の髪が揺れる。


「貴方が好きです、ヒース」


 もう一度、彼女は言葉を指先でなぞるように続けた。幸せそうに頬を緩ませて、どこか寂しさを滲ませながら、けれど嬉しそうに彼女は微笑む。


「きっと私、毎日貴方を好きになっていたと思うんです。そして今日も、私は貴方に心から恋をしました」


 そっと胸に手を当てて、彼女は言う。まるで、いま抱いている感情を両手で抱きしめるように。宝物を、愛しいものを抱きしめるように。


「ありがとう、ヒース。大好き。きっと明日も、明後日も、貴方に出会うたび、私は貴方に恋をします」


 目一杯笑う彼女はこんなにも寂しげなのに、どうして満足げに笑うのだろう。今にも目尻に浮かんだ滴が零れ落ちそうなのに、どうして幸せそうに笑うのだろう。まだ、なにも応えられていないのに。まだ、なにもしてあげられていないのに。なのに……。


「ありがとう。ありがとう、ヒース――貴方を好きになれて、よかった」


 そして――時計の針は十二時を指した。


 彼女は涙を零すことはなく、静かに瞼を下ろした。彼女の時計の秒針が時間を刻んでいく。その音がやけに耳に付いて、まるで眠っているかのように動かない彼女に、ヒースクリフはおそるおそる声をかけた。


「……アーシェン」


 声は霞んでて、震えてた。

 そっと、声に呼応するように彼女の瞼が開かれた。彼女はぼんやりとしていて、瞬きを数度繰り返すときょろきょろと辺りを見渡した。そして最後に視線を向けられて、彼女はにこりと笑む。


「はじめまして、貴方は?」


 巻き戻された時間は、まるで本当に魔法みたいで。

 初めて――空しいと感じた。