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Déclic


 次の日、ヒースクリフは彼女から預かった時計を持って、昨日と同じ時間帯に中庭へ訪れた。わざわざ時間を狙って会いに行かなくても、魔法舎で暮らしているからいつでも会えたのだが、なんだか魔法舎の住人に囲まれている彼女に話しかけに行くのは気が引けてしまった。

 こっそり顔を覗かせて中庭のベンチに視線を向けてみると、昨日と同じように彼女はベンチに座ってノートにペンを走らせていた。ヒースクリフは、よし、と心の中で意気込み、物陰から出てベンチへと歩き出した。

 近づくと、足音に気づいて彼女がぱっとノートから顔を上げてこちらに視線を向けた。それに一瞬どきっとしたが、柔らかく微笑んだ彼女を見てほっと息を零す。


「こんにちは」
「こんにちは、アーシェン」


 少し照れ臭くなりながら、彼女の愛称を呼んだ。やっぱり、ちょっとくすぐったい気持ちだ。


「あの、お名前を聞いてもいいですか?」


 昨日のことを忘れてしまった彼女が、首を傾げながら尋ねた。

 本当に忘れてしまうんだ、という気持ちと、やっぱり少し寂しいな、という気持ち改めて彼女を目の前にしてヒースクリフは感じた。けれど忘れられてしまったという悲しい気持ちは不思議と無くて、むしろ忘れられてもこうして向き合ってくれる嬉しさを感じた。


「俺はヒースクリフです。ヒースと呼んでください」
「ヒース……よろしくお願いします」


 ゆっくりと名前を反芻して、彼女はそっと目を細めた。それが、なんだか心地好かった。

 隣にいいですか、と声をかけて彼女の隣に壊しを下ろした。それからゆっくりとポケットから彼女の懐中時計を取り出して、二人で覗き込む。


「えっと、昨日貴女の時計を見てみたんですが」


 彼女は「時計……」と言葉を反復して視線を逸らし、しばらくすると「……ああ!」と思い出した、というようなリアクションをした。

 まさか覚えていたのだろうか、と思ったが、どうやら手に持つノートにそのことが書かれていたのを思い出したらしい。彼女から聞いた通り、彼女の記憶の代わりしているそのノートには事細かにあったことが記載されているようだ。

 ヒースクリフは改めて時計に視線を下ろし、続ける。


「結構古い物だったみたいで、単純に劣化が原因だと思います」
「そうですか……直せそうにありませんでしたか?」
「いえ。部品がいま手元に無いんですが、それをどうにかすれば直せそうです」


 部品が劣化したのが問題なら、新しい部品に取り換えればいい。そう伝えればアシェンプテルは、良かった、と嬉しそうに表情を綻ばせた。

 本当によく笑う人だな、と思った。記憶を忘れてしまう体質だったとしても、この世界の常識である魔法使いの存在を忘れているわけではない。魔法使いを嫌悪したり恐れたりしない人間でも、基本的には魔法使いである≠アとを注視している。けれど彼女はどこまでも対等だった。それは昨日今日の少ない関わりの中でも、嫌と言うほど理解できた。それがなんだか眩しい。


「明日、それの部品を買いに行こうと思ってます」
「あ、そこまでしていただかなくても……」
「大丈夫です、俺がやりたいんです。部品も高価な物ではなかったので、気にしないでください」


 だから、少しでも彼女の力になれた良いな、と思えた。

 遠慮する彼女に大丈夫だと笑いかければ、最後には「それじゃあ、よろしくお願いします。ヒース」と微笑んだ。それに頷いて懐中時計を改めてポケットに仕舞うと、おずおずと彼女が口を開いた。


「……あの。もしよければ、私も一緒に行ってみてもいいですか?」
「え?」


 思わず目を丸くした。すると、アシェンプテルは勘違いをしたのか残念そうに眉尻を下げた。


「だめ、でしょうか……」
「い、いえ! もちろん、大丈夫です」


 落ち込む彼女に慌てて頷けば、みるみると表情が輝いてぱっと花が満開に咲くみたいに笑顔になった。

 そんなに喜ぶことかな、とヒースクリフは正直に思った。けど、喜んでくれるなら理由がなんであっても良い、とも同時に思えた。


「えっと、多分シノもついて来ると思うけど……」
「シノさん?」
「俺の幼馴染です。それでも良ければ、一緒に行きましょう」


 シノの予定は聞いていないが、話せばきっとついて来るだろう。それでも良ければ、と付け足せば、それでも是非、と口にした。そして「ヒースの幼馴染なら、私も仲良くしたいです」と彼女は続ける。

 彼女はいろんなものを大切に出来る人なんだ。それは誰もが出来る訳じゃない。簡単なようだけど、たぶん難しい。なんだか、この世界に来たばかりなのに魔法使いを信じてくれた賢者様に似ているな、なんて思った。いや、たぶん同じ質の人間なんだろう。


「ふふ、明日が楽しみです」


 俺もです、とは恥ずかしくて言えなかった。