Courant alternatif
魔法舎を尋ねてきたアシェンプテルが、此処魔法舎に約一ヶ月間居候として住み込むことになって、早くも数日が過ぎていた。
最初は毎日記憶がまっさらになってしまってみんなと生活するのは大変なんじゃないか、と思っていたが、実のところそんなことは無く、アシェンプテルは毎日楽しそうに魔法舎の魔法使いたちと交流を重ねていた。
事情を聞いて率先して彼女に関わろうとしたのは、やはり南と中央の魔法使いだった。フィガロとオズは遠くから様子見といった感じではあったが、とくにミチルとリケは彼女の手助けになろうと張り切っていて、時にはルチルのもとで三人で勉強会などもしているようだった。
次に西の魔法使いたちが彼女と一緒にいることが多かった。彼女の手助けをしたいというより、なんでも素直にまた新鮮な反応をしてくれる彼女が面白く、一緒にいるのが楽しいという感じだった。
双子を除いた北の魔法使いたちは、もちろん積極的に人間と関わろうとはしなかったし――くれぐれも手を出さないように双子や賢者に言いつけられていた――、他人と関わるのが苦手な東の魔法使いたちも遠くから彼女を眺めるに留めていた。そしてそれは、人見知りであるヒースクリフも同じだった。
ふと、魔法舎の中庭を通りかかったとき、ヒースクリフは視線の先にアシェンプテルの姿を見つけぴたりと足を止めた。アシェンプテルはひとりで中庭のベンチに座って、彼女がいつも持ち歩いているノートにペンを走らせていた。
ひとりでいるなんて珍しいな、とヒースクリフは思った。彼女が此処に住み始めてから、彼女の傍にはいつも誰かがいた。だから、こうしてひとりで時間を過ごしている彼女を見るのは、今日が初めてだった。
あんなにペンを走らせて、なにを書いてるんだろう。メモをしているというより、なにか必死に書き留めているように見える。けど、彼女の表情はどこか楽しそうだ。
ヒースクリフはそれが気になって、思わず立ち止まったままじっとその様子を眺めていた。けれど途中ではっと我に返り、ヒースクリフは気づかれる前に早くその場を立ち去ろうと踵を返した。
その時、パキ、と小枝が折れる音が響いた。
音としては大きくはなかった。けれど静かなこの空間ではやけに響いて、ヒースクリフは思わず冷や汗を流した。そうしてゆっくり顔を上げてみれば、やはり彼女の視線はこちらに向いていた。
「あっ、その……」
慌ててヒースクリフは首を振った。決してやましいことなどしていないし、意図的に盗み見ていたわけではない。なのにヒースクリフは、慌てて弁解をするように手をあたふたと揺らした。
ヒースクリフはこの状況をどうすれば良いのか分からなかった。自分は人見知りで、他人と対面するのが苦手だと自覚している。初対面ではなおさらだ。そしてヒースクリフは、今までアシェンプテルと全く交流をしてこなかった。今では同じ場所で生活をしている住人ではあるが、会話もまともに交わしていない彼女はヒースクリフにとって初対面と同じだった。
そんな慌てふためくヒースクリフをアシェンプテルはじっと見つめた。その視線から逃げ出したくなるのをグッと抑えて、彼女がどう切り出してくるのかを窺えば、彼女はにこりと微笑んだ。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
驚きながらもヒースクリフは、こんにちは、という言葉に同じく、こんにちは、と少し上ずった声で応えた。
とくに自分を気にしている様子は無い。いや、別になにをしていたわけでもないから気にされた様子をされても困るが、ひとまずヒースクリフはそっと安堵した。けれどそれも束の間で、それきりヒースクリフはまた黙り込んでしまい、またヒースクリフにとっては気まずい空気が流れた。
そんな彼を察してか、アシェンプテルは率先して言葉を繋いだ。
「はじめまして、私はアシェンプテルです」
「は、はじめまして。俺はヒースクリフです」
「ヒースクリフさん」
よろしくおねがいします、とアシェンプテルはにこりと柔らかく微笑んだ。
ああ、そうか……彼女は俺を覚えていないんだ。
一日が過ぎれば、彼女はすべてを忘れてしまう。彼女にとっては、今日一日に起きたことが彼女の全てで、今までに起きたことは関係が無かった。覚えているのは、彼女以外の自分たちだけ。それはどこか、気負わなくていい、という気軽さを感じた。
よければどうぞ、と彼女が自分の隣を指さした。ヒースクリフは戸惑いながらもそれに従って、そっと彼女の隣に腰を下ろした。
「えっと……なにをしてるんですか?」
「今日あったことをまとめてるんです」
「今日あったこと?」
はい、と彼女は頷いて、ペンを走らせていたノートを見せてくれた。
ノートに視線を落としてみると、そこには繊細で綺麗な文字がびっしりと並んでいて、今日起きたことやその時に思ったことなどが事細かに書かれていた。ヒースクリフは思わず、わあ、と小さく声を零した。
「全部まとめているんですか?」
「出来る限り。これが私の記憶で、私の思い出ですから」
そう言って、彼女はそっと目を細め指先で文字をなぞった。
アシェンプテルの言う通り、彼女にとってその日のことを書き留めたそのノートは、自分の記憶の代わりだった。書き留めていれば、たとえ自分が覚えていられなくても、記録として残しておける。これが彼女の自分との向き合い方だった。
ヒースクリフは、素直にアシェンプテルのことを尊敬した。一日しか覚えていられない記憶に背を向けることもせず、しっかりと正面から自分に向き合っている姿は、とても頼もしくまた綺麗だった。少しも彼女は自分の境遇を卑下していない。それをヒースクリフは肌で感じ取れた。
ふと、彼女が顔を上げて自分を見つめてきた。
「よかったら、もっとヒースクリフさんのことを教えてくれませんか?」
「えっ! 俺、ですか?」
「はい。もっと仲良くなりたいです」
そう言って、アシェンプテルは子供みたいに頬を緩めて笑った。
ヒースクリフはなんだか恥ずかしくなって、自分の体温がわずかに上がっていくのを感じた。それを誤魔化すように視線を正面に移して、たどたどしく言葉を続ける。
「えっと、俺は東の魔法使いで……今は賢者の魔法使いをしています」
自分でももっと他になにかあったんじゃないか、と思う。それでもアシェンプテルは、うんうん、と頷いてノートに書き込んでいくのを見て、本当にこんなことでも書き残しておくんだ、とヒースクリフは心の中で呟いた。
それで、と言葉をつづけながらなにを言ったらいいか考える。けれどなかなか言葉が出てこなくて、自分のことをどう伝えていいか分からず、ヒースクリフは言葉を詰まらせた。それを助けるように、またアシェンプテルが口を開いた。
「ヒースクリフさんの好きなことはなんですか?」
「好きなこと、ですか」
「はい。例えば趣味とか、好きな食べ物だったり」
「……機械いじり、が好きです」
「機械いじり?」
首を傾げた彼女に、たとえば、と口を挟んでポケットから自分の魔道具でもある懐中時計を取り出す。それを見せるように差し出せば、彼女は目を見開いてほっと息を零した。
「とっても綺麗な模様」
「あ……これは自分で彫ったんです」
「自分で? わあ、凄い……!」
目を輝かせてじっくりと懐中時計に彫られた模様を見るアシェンプテルに、ヒースクリフはくすぐったくなってそっと指で頬を掻いた。褒められるのは恥ずかしいしあまり得意ではないけれど、不思議と彼女にそう言われたのは嫌ではなかった。
改めて話の続きを、と一度咳払いをしてから、ヒースクリフはこういった機会を直したり作ったりするのが得意だ、と話しだす。
それを聞くアシェンプテルは、すごい、と子供みたいに目を輝かせながら聞いていた。アシェンプテルにとって、機械いじりというのは未知の分野だった。そんな時、アシェンプテルはあることを思い出して、そうだ、と声を上げた。
不思議そうに首を傾げるヒースクリフに、アシェンプテルは先ほどのヒースクリフと同じようにポケットに手を入れて、あるものを差し出した。
「あの、これを直していただくことはできますか?」
ポケットから出てきたものは、同じく懐中時計だった。けれどヒースクリフが持っているものよりも古いもので、随分長いあいだ使っているのが窺えた。
ヒースクリフはアシェンプテルに許可を貰ってから、慎重にその懐中時計を拾い上げた。古くはあるが、傷は少なく大切にされていたのが分かる。時計の裏を見ると、彼女の名前が彫られているのを見つけた。きっと彼女のために与えられた物なのだろう。そうして改めて時計を見てみると、時計の針はピタリと時間を止めていた。そして不思議なことに、時計のなかにまた小さな時字と針があり、一つで二つの時計がそこにはあった。
「針が止まってますね」
「はい、今日気づいたら止まっていて」
どうやら気づいた時には針が止まっていたらしい。なんらかの故障だろう。
どうですか、と窺う彼女に、ヒースクリフは真剣に時計を見つめネジを回したりしながらそっと頷いた。
「直せると思います。少しのあいだお借りしても大丈夫ですか?」
「はい! ありがとうございます、ヒースクリフさん」
直せる、と答えれば彼女は嬉しそうに表情に花を咲かせた。そんな素直で真直ぐな反応を示す彼女がくすぐったくて、嬉しかった。
「……ヒースで良いです」
「え?」
ほぼ無意識のまま言葉を零していた。目を丸くして瞬きをする彼女に、ヒースクリフは慌てて言葉を探した。
「えっと……ほら、年齢も近いと思うし……」
「ほんと? 私、十八です」
「お、俺もです」
「まあ!」
一つか二つほど年下かと思えば、どうやら同い年だったらしい。すると彼女はふふ、とまた柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、私も是非アーシェンと呼んでください」
「アーシェン?」
「はい! よろしくね、ヒース」
花が綻びるような笑顔に、思わず自分もひかれて笑っていたのは、後になってから気づいた。