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突然連れてこられた異世界での生活にも慣れ、賢者の依頼仕事にも慣れてきた今日この頃。その日も賢者は、いつもと同じ時間に目を覚まし、朝食を食べに部屋を出た。すると、ちょうど同じく食堂に向かう途中だった三人に出くわす。
「おはようございます、カイン、ヒース、シノ」
「おはよう、賢者様」
「おはようございます、賢者様」
「おはよう、賢者」
気持ち良い挨拶を返されると、どこかほっとした気持ちになる。そんな気持ちをそっと胸に隠して、賢者はカインと握手を交わし、一言二言会話をしてから足並みをそろえて食堂へと再び歩き出した。そうして談笑をしていると、突然ぽんっと頭上にムルが現れた。ムルの神出鬼没なところも随分慣れたな、とふと感じる。
「あ、いたいた。賢者様!」
「ムル、おはようございます」
どこか自分を探していたような口ぶりに、なんですか、と首を傾げると、ムルはにやにやと笑いながら「ねえねえ、賢者様」と言葉を続けた。
「魔法舎の外に人間の女の子がうろうろしてたよ」
「え?」
賢者、カイン、ヒースクリフの声が見事に被った。思わず目を丸くして、三人は顔を見合わせる。そんななか、シノはひとり首を傾げてムルに聞き返す。
「なんだ、迷子か?」
「うーん、さあ?」
「此処に尋ねに来た人、とか?」
ヒースクリフはそう言って賢者を窺った。
魔法舎を尋ねてくる人がいないわけではない。手伝いに来てくれる人も居れば、中央の国から状況確認に来る人も居る。もちろん、依頼任務を始めてからはなにか困って魔法舎に助けを求めてくる人も居る。突然尋ねに来る人も居るが、基本的には事前に知らせてくれる人が多く、今回はそういった知らせを受けていないため、賢者は分からないと首を振った。
その様子を見て、カインが一番に口を開いた。
「とにかく、俺は様子を見に行ってくる」
カインは素早く踵を返して魔法舎の外へ向かった。そのあとを、俺も行く、と言ってシノが追いかけ、あっという間に二人の背中を見失う。行動力がある人は凄い、と賢者は改めて感心する。
そうして残された賢者とヒースクリフは再び顔を見合わせ、とりあえず扉の前で二人が帰ってくるのを待とう、と同じ方向に足先を向けた。
魔法舎を出たカインとシノは、足早に魔法舎を囲む森に入った。魔法舎には結界が貼られているから、外からは魔法舎が見えず中に入ることもできない。なら、謎の来訪者は森で立ち往生になっているだろう。そうして二人は、少し薄暗い森の中を駆け抜けた。
ムルが言っていた人物を見つけるのは早かった。『〈大いなる厄災〉の傷』で相手の姿が見えないカインでも、気配や足音で相手を見つけることはでき、その音から怪しい様子は無いと判断できた。構えていた剣の柄から手を離し、同じく構えた鎌を下ろしたシノと顔を合わせ、そっとその人物に近づく。
「おい、そこのお前」
シノの呼び声に、その人物はぴくりと肩を揺らして振り返った。
「魔法舎になんの用だ。それとも迷子か?」
自分とあまり歳が変わらなそうな少女に、シノはぶっきらぼうに投げかける。
すると、少女は目を丸くしておそるおそる口を開いた。
「あの、貴方たちは賢者様の魔法使い様ですか?」
「ああ、俺たちは賢者の魔法使いだ」
声からか弱い少女と理解したカインは、見えない姿に笑いかけながら優しく頷いた。
確かにはっきりと頷いた姿を見た少女は、大きく目を見開いて、そうして嬉しそうに口を開いた。
「私、賢者様を尋ねに来たんです」
* * *
賢者を尋ねてきた、と言うアシェンプテルと名乗る少女を、カインとシノは賢者に話を通してひとまず魔法舎に迎い入れることになった。
魔法舎に迎い入れられ、談話室に通された少女は、きょろきょろと周辺を見渡しながらも慎ましく促されたソファへ腰を下ろした。曽於様子から、見た目から窺える年齢より少しばかり幼くも見えるが、大人しく礼儀正しい子という印象を賢者は感じた。
「はじめまして、アシェンプテルさん。私が賢者の真木晶です」
「はじめまして、賢者様」
テーブルを挟んで向かいのソファに座り挨拶をすれば、アシェンプテルはぺこりと頭を下げて挨拶を返した。やっぱりいい子だ、と賢者は心の中で思った。
「それで、アシェンプテルさんはどうして此処を尋ねに来たんですか?」
早速本題へと賢者が尋ねると、アシェンプテルは膝の上に置いていた分厚い洋書のようなものを手に持って、あるページを開いて見せるように差し出した。
「私、これを頼りに此処まで来たんです」
そう言うアシェンプテルの言葉を聞きながら、賢者と一緒に話を聞いていたカインやシノそしてヒースクリフやムルは、差し出されたページを覗き込んだ。洋書のような本はノートだったらしく、そこには達筆な字で『賢者様を頼りなさい』と簡潔に綴られていた。
字の読めない賢者は周囲に書かれている文字の詳細を聞いてから、アシェンプテルにそれを尋ねた。
「アシェンプテルさんはなにか困ったことがあるんですか?」
『賢者様を頼りなさい』と書かれているのなら、きっとなにかに困っているに違いない。そう思いアシェンプテルに尋ねてみるが、返ってきた言葉はひどく曖昧で「たぶん……」という頼りない声だった。
「多分? 自分のことなのに曖昧だな」
「シノ」
アシェンプテルの言葉に怪訝な表情を浮かべたシノが語気を強くして言うと、隣にいたヒースクリフがそれを咎めた。すると、アシェンプテルは申し訳なさそうに眉根を下げて顔を俯かせた。
「ごめんなさい……私には、頼れるものがこれしか無くて……」
肩を落として落ち込むアシェンプテルを目の前に、賢者はすっかり困ってしまった。
助けてあげたい気持ちはあるが、彼女がどういった事情を持ちなにを助けて欲しいのか分からないのなら、手を差し出したくても差し出せない。どうにか彼女から事情や話を聞けないか、賢者は根気強くいろいろと質問をしてみるが、そのたびアシェンプテルは困った表情を浮かべて首を振る。とうとうどうすれば良いか分からなくなり、どうしたものかと思い悩んだところで、頼りがいのある人物が談話室を通りかかった。
「どうかしたのか?」
「ファウスト先生!」
談話室を覗き込んだのは、ファウストとシャイロックだった。不思議な組み合わせだが、今は此処を通りかかってくれたことが有難い。
アシェンプテルを知らない二人が不思議そうに彼女に視線を向けると、それをいち早く察したヒースクリフが彼女が此処に居る経緯を説明し、今陥っている状況を簡単に伝えた。それを聞きながら、興味は無い、と視線を流したファウストが、ふとアシェンプテルのノートに目を止めた。
「そのしおりの花……」
「しおり?」
ファウストが零した言葉に、全員がノートに挟まれたしおりに目を向けた。すると、ムルが目を輝かせた宙に浮いた。
「わあ、『ウブリの花』だ!」
ムルは「『ウブリの花』だよ、シャイロック!」と興奮気味に続けた。それにシャイロックも「まあ、珍しい」と上品に微笑みを浮かべる。
しおりは、押し花で作られていた。白い花で、賢者の世界に咲く芥子の花に似ている。これがムルの言う『ウブリの花』なのだろう。しかし、賢者はもちろんその花のことは知らず、若い魔法使いたちもなんのことだか分からない様子だった。
「あの、『ウブリの花』とはなんですか?」
「『ウブリの花』は、一時的に記憶を混濁させる効果を持つ花だ」
賢者の問いに答えたのはファウストだった。
なんでも『ウブリの花』と呼ばれる花の花粉には、一時的に記憶を混濁させる効果があり、それを吸うと記憶を忘れてしまうらしい。少量であればただの一時的な記憶の混濁で済み、使い方次第では薬にもなる花で、嫌な記憶を意図的に忘れることができると一時期流行ったようだ。しかし花の群生が増え、記憶喪失者が増え続け生活が困難になる者が増加してからは、花は燃やされ今では滅多に見ない珍しい花になっているという。
「今では貴重な素材として高く売られたりもしますね」
ファウストの説明に付け足すように、シャイロックが続けた。二人の話からして、とても押し花にして持ち歩くような花ではないことが窺えた。そこで、ふと賢者は思い至った。
「アシェンプテルさん。さっき、頼れるのが『これしかない』と言いましたよね」
申し訳なさそうに顔を俯かせるアシェンプテルにそう尋ねると、彼女はぱっと顔を上げてこくこくと頷いた。そこで賢者はある予想にたどり着いたが、それを尋ねる前に本人からそれを説明されることになった。
「はい。その花が原因なのかは分からないのですが、私は一日……二十四時間しか記憶を保持できないんです」
その言葉で、ムルやシャイロックを除く五人はわずかに表情を硬くした。
「一日だけ……」
「それは……大変だな」
思わずヒースクリフやカインが口を開くが、なんて言葉を続けるべきか分からず、口を閉ざした。まるで想像もできないのだから、当然の反応だ。
彼女が一日しか記憶を保持できないのであれば、彼女の言葉にも納得がいく。記憶が無いのだから、今手に持っているものしか頼れるものが無いのだ。だから彼女はノートに書かれた言葉に従って、魔法舎へ来たのだろう。
「……アシェンプテルさんは、それをどうにかしてほしくて此処へ来たということでしょうか」
賢者が改めて尋ねると、アシェンプテルはまた困ったように顔を俯かせて「たぶん……そうです」と頷いた。おそらくアシェンプテル自身にも分からないのだろう。
最後に記憶していることを聞くと、今日の明け方に中央の国の宿屋で目を覚ました、とアシェンプテルは答えた。そこで自分が持ち歩いていたノートを見つけ、賢者を尋ねるために魔法舎へ足を運んだらしい。それ以外に手掛かりになることは書いてなく、自分がどこから来たのかも分からないと彼女は話した。
また記憶はなにもかもを忘れるわけではないらしい。この世界にとっての常識である、人間と魔法使いが共存していて〈大いなる厄災〉が一年に一度降りかかることや、生活をするうえで必要な知識などは覚えていられるらしい。とは言っても、一日しか記憶が保持できないのは生活していくうえで大変だ。
「なにか良い方法はないでしょうか」
話を聞いた賢者は、ファウストやシャイロックに尋ねた。しかしファウストも眉根を寄せて目を逸らすしかできず、シャイロックも首を振るしかできなかった。
「……仮に花の影響だとしても、ここまで症状が悪化するのは初めて知る」
「花の影響ではないにしろ、記憶の問題は複雑ですからね」
二人の言う通り、まず前提として花の影響であるのかもまだ分からないし、脳の問題は複雑で難関だ。再び難しい表情を浮かべる賢者に「こういうのは医者のフィガロが適任かと」とシャイロックが提案し、まずは医者であるフィガロの意見を聞こうと賢者はフィガロを探しに腰を上げた。
「どうですか?」
「そう言われてもね」
事情を説明してフィガロを連れてきた賢者は、まずアシェンプテルの診察を頼んだ。体調などの診察や最近の事柄についてなど様々な質問を繰り返したあと、賢者がそう尋ねるとフィガロは難しい顔をして「まずは経過観察してみないと」と続けた。
記憶の問題は、一度や二度の診察や処置で終わるようなものではない。それに加えて、アシェンプテルの記憶に関する問題は難関かつ重症だ。まずは経過観察を通して、その都度アプローチを変えていくなど回復の見込みを見ていくしかない。こればかりは、魔法でどうにかできることでもない。
今の状況では力になれそうにない、と賢者が頭を下げると、アシェンプテルは慌てて首を振って、親切にありがとうございます、と笑顔を浮かべた。
アシェンプテルとしては、記憶が無いことに困っているわけではなかった。ただ、自分が頼りにできるものがノートしかなく、それに『賢者様を頼りなさい』と書かれていたから、それに従っただけだ。もちろん、記憶の問題がどうにかできるのであれば、治したいとは思う。しかしそれができないからといって落ち込むことでは無かった。
一方で、賢者はせっかく自分を尋ねに来たアシェンプテルの力に少しでもなりたいと思っていた。そこで、賢者はある提案をアシェンプテルに言った。
「アシェンプテルさん、もしよかったらしばらく此処で暮らしてみませんか?」
「此処に、ですか?」
アシェンプテルは目を丸くして聞き返した。それは話を聞いていたカインやシノそしてヒースクリフやファウストも同じだった。
「療養生活と言いますか……フィガロの言う通りすぐに解決する問題でもありませんし、アシェンプテルさんも行くあてが無いようですし……もしかしたら回復の手掛かりを見つけられるかもしれません」
なにもしないまま帰すのは忍びない。自分にできる範囲でできることはしたい。賢者はそう伝えて、此処にいる魔法使いたちの賛同に感謝しながら、もう一度アシェンプテルに目を向けた。
「どうでしょうか?」
「……はい! 是非お願いいたします、賢者様!」
よろしくお願いします、と賢者は嬉しそうに笑うアシェンプテルの手をぎゅっと握った。
こうして、一ヶ月間の少女アシェンプテルの魔法舎居候生活は始まった。