Parlons des rêves.
その日の夜。
どうにも眠れなくて、外へ出た。すでに夜は更けていて、とても暗い。けれど、空に浮かぶ月と星々は眩しいぐらい輝いていて、薄暗い足元を照らしてくれていた。消灯時間もとっくに過ぎているから、寮はとても静かだった。
薄い寝間着に上着を羽織って外へ出ると、木に背中を預けて芝生の上に座り込んだ。そのままぼんやりと夜空を眺めて、なにを想うことも無く、ただただ過ぎ去る時間を過ごす。
いったい外へ出てからそれくらい経ったか分からない。夜風にあてられて身体が冷えているのが分かるが、それでも帰る気に離れなくて、また夜空を見上げた。
「こんな夜更けに何してるの、マスターちゃん」
その時、ふいに隣にタバティエールが腰を掛けた。その手には温かいココアが入ったマグカップが二つあって、そのうちの一つを差し出された。
突然現れたタバティエールに驚きながらも、柔らかい笑顔を浮かべるタバティエールに、ありがとう、と微笑んでココアを受け取った。マグカップを両手で包み込んで喉に通せば、ほっと身体が温まる。
それを見て、タバティエールもココアに口を付けた。
「それで、どうしたの」
「別に。ただ、空をぼんやりと見てただけ」
たまたま寮の窓から自分の姿を見つけて、それで付いてきたのだろう。
なにかあったのではないか、とタバティエールは尋ねるが、本当に何もない。ただ空を見上げていただけだ、と答えれば、タバティエールはそれ以上追及することもなく、そっか、と笑って同じように夜空を見上げた。
二人の間に沈黙が流れた。会話も無く、ただ二人そろって眩しい夜空を見上げる。
「マスターちゃんは、頑張ってるよ」
そのとき、ふとタバティエールが口を零した。
自然と空から、隣に居るタバティエールに視線を移した。タバティエールは依然と空を見上げている。
「一人で頑張って、凄いと思うし、尊敬もする。けどさ、もっと頼って欲しいって、俺らはいつも思ってるよ」
少し困ったような笑みを浮かべて、真っ直ぐとこちらに視線を向けた。
「もちろん、俺にできることだったら、いくらでも俺に頼ってくれてもいいんだぜ」
そう言って、気前よくタバティエールはにこりと笑う。そんな彼にくすりと笑って、軽い調子で続けた。
「またそうやって、私のことを甘やかして。私をダメにするつもりかい?」
「甘やかしてなんかないさ。ただ、もっと君の力になりたいって思ってるだけだよ」
これだから、と思わず心の中でぼやいた。いつもシャスポーやグラースの世話を焼いているタバティエールは面倒見がよく、本人もとても優しい性格をしているから、こうしていつも気遣ってくれる。頼りがいもある人だから、つい甘えてしまいそうになるのだ。別に、甘えてはいけない、と自分を律しているわけではないが、余計に甘えてしまいそうになるのだ。
くすくすと二人で笑って、また静かに空を見上げた。
星にまつわる御伽噺はたくさんある。死んだ人は星になって見守ってくれているとか、私たちの道行き先を照らしてくれているとか。
「……私、別に軍人になりたかったわけじゃないんだ」
独り言のように、ぽつりと零れだした。語りたいわけでも、話したいわけでもなくて、ただ零れ落ちるように言葉を紡いだ。
「世界を平和にしたいわけでも、誰かを守りたいわけでもない」
数年前、世界は荒れていた。多くの人が悲しんで、多くの人が死んだ。大切な人を失った。それは今の世の中も変わらない。そんな世の中だから、世界がある程度平和になった今、また同じことは繰り返すまいと心に誓って、此処に来る人は多い。けれど、自分は違う。
「転がって転がって、此処まで来ただけなんだよ」
なにかを目指したわけでも無い。なにかを夢見たわけでも無い。なにかを誓ったわけでも無い。
波に揺られて、流れて流れて、波に逆らおうともせず流れて、此処にたどり着いただけだった。
タバティエールは空を見上げながら語るマスターを見つめていた。
その姿は悲観的でも、自虐的でも無くて、かといって普段通りに繕っているわけでも無くて。ありのまま素直に語るマスターが目の前にいた。それがタバティエールにとっては、少し寂しくて、少し悲しかった。
「マスターちゃんは、なにがしたい?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
空を見上げていたマスターの視線がまたこちらに向いて、無邪気な少女のように目を丸くしていた。
「深く考えないでさ。甘いお菓子が食べたいとか、花屋をやってみたいとか」
「はは、なにそれ。夢物語りでもさせる気かい」
「語るだけならタダだろ?」
笑い飛ばす彼女に乗っかって、自分も笑い話をするみたいに言った。そうすればきっと、素直に吐き出せると思った。
彼女は少し黙って、考え込むように視線を逸らした。そして少しだけ冷めてしまったココアに口を付けて、そっと瞼を閉じた。
「……小さな白い家に、色とりどりの花畑」
ぽつり、ぽつり。彼女は言葉を零す。
「周りには人も、賑わう市場も街もない。緑の草原だけが広がる、自然に囲まれた場所」
瞼を閉じる彼女は、ほんのりと頬を緩めていて、少し楽しげだった。
「静かで、穏やかで」
その姿は、小さな夢を語る小さな少女そのもので。そこに、士官候補生である堂々とした姿も、マスターとして戦場に立つ凛々しい姿も無くて。
「そんな楽園みたいなところで、暮らしてみたい」
ただの、夢見る普通の女の子だった。
「いい夢だな」
そう言って頷けば、彼女は少しばかり照れ臭そうにはにかんで、誤魔化すようにまたココアを飲み込んだ。
その夢が叶えばいいのに。その夢を叶えられればいいのに。
そう思わずにはいられなかった。だって、どう頑張っても目の前にいる彼女はただの女の子で、銃を持って戦場を駆ける姿なんて似合わなくて。彼女が語る夢のように、花畑に囲まれて平穏に暮らす姿の方が似合っていた。そんな穏やかな暮らしをしてほしいと、願ってしまった。
「いつかマスターちゃんがその夢を叶えられるように、俺は応援するよ」
君がいつか素直に生きられるように。
君がいつか心から幸せだと思えるように。
そこに、もしも自分がそばに居られたらと願って。
「ありがとう、タバティエール」
彼女はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。