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第四話


 夜は、いつも眠れない。四百年以上経った今でもあの出来事を悪夢に見る。それを四百年ものあいだ毎日見続けていれば、夜に寝付けないのも慣れてしまった。悪夢に魘される日々が当たり前と化して、日常になって行く。そうすれば、悪夢を見ても少しばかりは眠れるようになった。

 だが、今日はとても眠れそうにない。いや、実際のところはグレートヒェンを此処に連れて来てからよく眠れていない。フィガロとの一件があってから余計に眠れなくて、夢を見るたび何度も目を覚ましている。まるで最初の頃のようだ。

 ファウストはベッドに座り込んで、片手で顔を覆った。

 夢で彼女を見るのが怖い。夢で彼女の眼差しを見つめるのが怖い。夢で彼女に見つめられるのが怖い。彼女の姿も、瞳も、声も、その温もりを思い出すだけで恐ろしい。今は目を瞑って彼女から視線を逸らしたい。けれど記憶の中の彼女は、それを許してはくれない。許して欲しいわけじゃない。ただ、それでもファウストは目を瞑っていたかった。

 ふと、ファウストは腕を下ろして窓の外に視線を向けた。空には忌々しい月が夜を照らしている。けれどその周りに浮かぶ星々は綺麗で、嵐の谷から見上げるそれとはまた違った顔をしていて美しかった。でも、昔の方がもっと星がよく見えていた気がする。

 そのとき、ふいに視界の隅でなにかが動いたのを捉えた。自然と視線をそこへ向く。すると、外に灯りを持ったグレートヒェンがそこにいた。彼女は灯りで暗い足元を照らしながら、外を徘徊する。その足先が魔法舎を覆い隠す森に向いているのに気づいて、ファウストは息を呑んだ。

 気づいた時にはもう部屋を飛び出していて、ただ必死に彼女のもとへファウストは走った。






「グリッタッ!!」


 必死に走って彼女を追った。その後姿を見つけたのは、彼女がちょうど森に入ろうとするところで、ファウストは反射的に彼女の名前を叫んで、彼女の行く手を止めた。


「……ファウスト?」


 立ち止まった彼女は振り返って、ぼんやりとこちらを見つめた。手に持った灯りがゆらゆらと揺れて、映し出した影が揺れる。見つめてくる彼女の表情は読めなくて、その瞳にどんな感情を含めているのか分からない。

 けれど今のファウストに、そんなことを気にする余裕はない。


「どこに……行く、つもりだ……」


 走ってきたせいなのか、それとも嫌な予感が働いているのか、心臓がどくどくと脈打って気持ち悪い。上がった息もなかなか落ち着かなくて、呼吸が浅くなる。汗もかいて体温も上がっているはずなのに、指先は冷えていて上手く感覚が掴めない。

 そんなファウストを目の前にしながら、彼女はひどく落ち着いた様子で何気なく空を見上げた。


「……星が、綺麗だったから」


 ――それに……星が綺麗だったから。


 はっとファウストの息が止まる。

 記憶の中にある彼女の姿とぴたりと重なる。あの頃はそばにいたのに、触れられる距離にいたのに。今はこんなにも遠い。

 見上げる彼女の姿があまりにも遠すぎて、ファウストは現実に耐え切れなかった。


「そうやって君は、また僕を置き去りにして……! 僕だけを残して……また……っ!」


 なにもかもを振り切って、ファウストは溢れ出る感情のままに声を荒げた。水でいっぱいになった花瓶から溢れ出る水のように、ひた隠して溜め込んだそれが止めどなく溢れて零れる。

 無感情の彼女の瞳に、滑稽な自分の姿が映る。それでも、なりふり構わずファウストは彼女に縋りついた。力強く彼女の両肩を掴む。彼女の身体は揺れて、手もとから灯りが落ちて、地面に転がったそれは壊れて、火は呆気なく消える。


「僕は君と生きたかったのにっ……、君と……逝きたかったのに……っ」


 ファウストは俯いて、項垂れる。

 こんなことを叫んでも、彼女にはどうしようもない。こんなことを叫んでも、今の彼女には分からない。そんなこと、とっくの前から理解している。それでもファウストは叫ばずにはいられなかった。


「……だから――私を繋ぎ止めたの?」


 一瞬なにを言われたのか、ファウストは理解できなかった。まるで時間が止まったかのようにも思えた。

 目を見開いたまま、ゆっくりと顔を上げる。彼女はじっとこちらを静かに見つめていて、そっと目を細めた眼差しと視線が交わる。その眼差しは真っ直ぐで、奥深くまで見つめてくる。

 ああ……彼女だ。

 そう理解すると、ファウストは顔を歪めて顔を伏せた。


「……そうだ。君が赦せなくてっ、君が呪わしくて、君を……手放せなくて。僕は……僕は……っ!」


 なにもかもが露呈した。なにもかもが終わった。それは嬉しくて、悲しかった。


「グリッタ……僕を呪ってくれ……君を、僕は……」


 けして許されないことをしてしまった。軽蔑され恨まれても仕方がないことをした。むしろ、そうして欲しかった。それくらいのことを犯してしまった。

 俯くファウストを見下ろす彼女はなにも言わない。ただ黙って震えるファウストを静かに見つめる。

 その静寂が辛い。沈黙が続くほど心臓を締め付けられて苦しい。彼女はなんと言うのだろうか。どんな罵倒と恨み言を言うのだろうか。それとも、もう言葉さえ掛けてはくれないのだろうか。そう思うと、すべて自分のせいで仕方がないことなのに、泣きたくなってしまった。

 けれど、彼女から零れたのは、ひどく優しい声だった。


「――いいよ、もう」


 呆然と彼女を見上げれば、彼女は柔らかくそっと微笑んでいた。その瞳があまりにも穏やかで、ファウストは思わず言葉を失くす。

 彼女がふっと笑みを零す。


「そうやって貴方が苦しんでる顔が見れたから。だから――もういいよ」


 それは全てを許す言葉で、それをファウストは受け止められなかった。


「……違う、僕は……僕は君に赦されたかったわけじゃっ……、僕は……っ!」
「なら、私≠ノどうして欲しかった? 怒って欲しかった、恨んで欲しかった? 貴方が心から望めば私≠ヘそうするよ」


 その言葉にファウストは息を呑む。身体が硬直して、彼女から目を逸らせなかった。

 彼女は淡々と続ける。


「私≠ヘ所詮グレートヒェンの幻影。貴方の魔力で、グレートヒェンの石を核にして、動いてるだけのただの幻。貴方が望んだグレートヒェンの影法師」


 胸に手を当てた彼女は、その中心を指で撫でる。そこに、身体に纏わりついたファウストの魔力とは別の僅かな魔力の塊を感じた。


「ねえ、ファウスト。分かっていたでしょう?」


 なにも言えなかった。口を開いても言葉はなにも出てこなくて、無様に黙り込むしかできない。

 分かっていた。ずっと分かっていた。目の前にいる彼女は、彼女ではない。自分が作り上げてしまった幻だと、ファウストはとっくに理解していた。


「それでも……それでも、僕は……っ、君を手放せない……!」


 それでも、ファウストは彼女の幻影に縋った。それが自分が作り上げた幻で、自分が望んだ彼女の影だとしても。ファウストはその存在に縋りついた。だから目を瞑った。気づかない振りをして、現実から目を背けた。出口を知っている。鍵も持っている。抜け出す方法も知っている。けれどファウストは、夢の中に閉じこもった。


「駄目」


 冷たい彼女の手に頬を包まれて、視線を合わせられる。


「貴方はその傷を抱えていくの。貴方は、生きているんだから」
「なら、僕を終わらせてくれッ!! 僕は生きたかったんじゃないッ!! 僕はあの時に終わって良かったんだ……ッ! あの時、君と一緒に……君と、終われたら……ッ、こんなに……」


 こんなに苦しい思いもしなかったのに。こんなに喪失を抱えて生きていくこともなかったのに。


「やさしいひと」


 そう言った彼女は眉根を下げて困ったように、でも嬉しそうに笑った。


「幻の私でさえ、貴方は穢せないのね」


 ファウストの双眸から涙が溢れて、頬を伝って落ちていく。指の腹で拭っても涙は止まらなくて、彼女はそっとファウストの頬を持ち上げる。


「幻は消えて、あるべき形に。貴方は私を置いて現実に戻るの」


 ぎゅっと目を瞑って、触れる冷たい彼女の手に自分の手を添える。最後の瞬間まで、その温もりに縋っていたかった。


「それが、生きている貴方にできることよ」


 瞼を上げれば、そっと優しく微笑む彼女の瞳が映り込む。

 ああ……こうやって、彼女に見つめられるのが好きだった。

 ファウストはふっと下手くそな笑みを浮かべた。


「君は……、意地悪だ……」
「私は陰湿な東の魔女だもの」


 そう言って笑う彼女は、記憶の中にある彼女と同じように、綺麗に微笑んでいた。


「大丈夫よ、ファウスト」


 瞼を閉じた彼女がゆっくりと近づいて、こつん、と額が触れ合う。


「貴方の思い≠ナ作られた私≠ェこう言うんだもの。貴方は私を手放せるよ」


 なにを思って彼女はそう言うのか分からなかった。現実に戻るのは苦しくて、まだ惜しい。けれどファウストは彼女に従って、ゆっくりと瞼を下ろした。


「さあ――夢から覚める時間だよ」