第二話
グレートヒェンが魔法舎に来てから、彼女の行動範囲はほぼ自室と食堂そして図書室の三つだけだった。彼女はもともと読書が趣味で、ファウストと二人暮らしをしている時も、大抵は本を読んでいた。本の内容はさまざまで、専門書から娯楽までなんでも読む。その内容に好き嫌いはなく、彼女は純粋に本という形態と活字を愛していた。
そんな彼女が魔法舎の図書室に籠るのは道理だ。グレートヒェンは広い部屋に大量に詰め込まれた本を適当に数冊抜き取って、テーブルに本を積み上げながら黙々と活字を追っていく。そんな毎日を、彼女は此処へ来てからずっと繰り返していた。そして彼女がこうして一人で本に読みふけっていると、必ずある男がやってくる。
「やあ、グリッタ」
ちらりと本から視線を外して、声を掛けてきた人物を見やる。
声を掛けてきたのはフィガロだ。フィガロはグレートヒェンが魔法舎に来てから、なにかと彼女に声をかけた。それは世間話であったり、彼女を探るような話題であったり、内容は様々であったが、ともかくフィガロはグレートヒェンの姿を見つけるとすぐに足先を向けた。
「やっぱり此処に居たね。君がいるとしたら、此処だと思ったよ」
フィガロはそう言って、グレートヒェンが座っている向かいの席に腰を下ろした。
先ほども言った通り、フィガロはグレートヒェンの姿を見つけるとすぐに声を掛けてくる。けれど大抵はそばにファウストがいるから、フィガロはグレートヒェンに近づけないでいた。しかし今日のようにファウストが任務や予定でグレートヒェンの傍を離れていると、それを狙っていたかのようにフィガロはグレートヒェンの目の前に現れる。遭遇率が高い場所としては、此処の図書室だ。
「あれ、無視? 酷いなあ」
フィガロの独り言に反応を一切示さず、グレートヒェンは視線を本へと戻した。
そんな冷たい態度を取られてもフィガロは一切気にすることなく、軽い調子で独り言を続け、じっと本を読むグレートヒェンの様子を窺った。
「ねえ、俺のこと全然覚えてないの? レノことも、さっぱり?」
ちらり、グレートヒェンがもう一度フィガロを見やった。
フィガロは必ずこれを彼女に尋ねる。飽きもせず、変わらない返答しか返ってこないのに、フィガロは毎日顔を合わせるたびにこう言うのだ。
それにグレートヒェンがうんざりしないわけがない。毎日繰り返される問いにグレートヒェンははあ、とため息を落とす。
「人違いでは」
「そんなことしないよ」
「同姓同名の他人の空似とか」
「きみは正真正銘、俺の知るグレートヒェンだよ」
なによりファストと一緒にいるのが証拠だ、とフィガロは確信しながら続ける。
しかしグレートヒェンからしてみれば、そんなことを言われてもどうしようもない。自分はフィガロたちのことは知らないし、ファウストと隠れ家で暮らしていた日々が彼女にとっての全てだ。知らないことを、知っているだろう、と尋ねられても、首を振るしかないのだ。
「ねえ、本当になにもかも覚えていないの?」
じっとこちらを探るような眼差しが向けられる。
「そんなことを言われても。知らないのだから、それ以上も以下もないよ」
「本当に?」
何度も繰り返されるそれに、グレートヒェンはムッと唇を尖らせ、睨むように眉を吊り上げた。
「しつこいのね。なぜそんなに、過去にこだわるの」
「だってきみは……」
反射的に声をあげたフィガロは、最後まで言わずに言葉を飲み込んだ。口をそっと閉ざして、視線を落とす。
「きみは、ファウストにとってきみは……」
再び口が開かれ言葉は続けられたが、結局最後まで言葉が紡がれることはなかった。
言葉をぐっと飲みこむフィガロをグレートヒェンはじっと見つめる。すると視線を落としたフィガロがふと顔を上げた。そうしてグレートヒェンをしばらく見つめると、フィガロは眉根を下げてどこか寂しそうにしながら続ける。
「今のきみにとって、ファウストはどんな存在だい?」
その問いに、グレートヒェンは迷いなくはっきりと口にした。
「彼は彼よ」