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第一話


 青年が泣き叫びながら、私の名前を呼んでいた。

 もう声も枯れて息も絶え絶えなのに、青年は構うことなく声を張り上げて叫んでいた。

 必死な顔をして呼びかけていることは理解できた。けれどもう身体は力が入らなくて、感覚も無い。視界もぼやけて、耳も遠くなっていて、青年がなにを口にしているのかも分からなかった。

 指先ひとつも動かすこともできない身体を抱えて、青年は必死に私の身体を揺らす。そうしてなにかを叫んで、悲痛な表情で私を見下ろすのだ。

 ぽたぽたと青年の双眸から大粒の涙がこぼれ落ちる。止めどなく流れるそれは、見上げている私からはまるで雨のように見えて、私の頬を濡らしていく。

 子供のように青年は泣いていた。子供のように青年は泣き喚いていた。綺麗な顔を歪ませて泣き叫ぶ姿は、痛々しくて見ていられない。けれど私はその青年を見て、そっと口角を上げた。もうぼやけて青年の表情すら見えないけれど、私は確かに、それを見て笑みを零した。

 青年がそんな私を見て、また声を荒げているようだけれど、それに応える力はもう残っていないし、もうなにも聞こえない。また強く私の身体を揺さぶるけれど、その感覚すらも曖昧で、私の身体はもうなにも感じ取ることができない。

 でも満足だ。なにも後悔などしていない。悔やむことなど、一つもない。私は確かに満たされている。これ以上ないくらい、満足している。だから、そんな顔をする必要など一つもないのだ。

 そして、私は最期に見た青年の顔を胸に抱きながら――満足げに瞼を下ろした。




* * *




 カーテンの隙間から太陽の日差しが差し込んだ。閉じていた瞼に眩しい光を受けて、手放していた意識は水から引き上げられ、ぱちりと目を覚ます。まだぼうっとする頭でぱちぱちと瞬きを数度繰り返してから、徐々にはっきりしてくる頭で朝を迎えたことを理解し、そっとベッドから起きあがる。

 ふと壁に掛けてある時計に視線を向ければ、時計の針はいつも目覚める時間と同じ時間を指し示していた。そうして、ふあ、と小さく欠伸を零して、身支度を整えるために温かいベッドから抜け出す。

 毎日変わらない、いつも通りの朝だ。





「おはよう、ファウスト」

 身支度を整えてから一階のキッチンへ降りて朝食を作っていると、同じように目を覚ました同居人のファウストが一階へ降りてきた。

 おはよう、と何気ない挨拶を投げかければ、ファウストは眼鏡の暗いガラス越しにそっと視線を向けて、一瞬わずかに視線を逸らしてから、どこかほっとした様子でぎこちなく微笑んだ。


「ああ。おはよう、グリッタ」


 夜の湖に葉から伝って落ちた滴みたいに静かなそれは、清々しい朝には似つかわしくないものだったが、緩やかに時間が進む隔絶されたこの場所では、穏やかな朝を迎えたことを暗示していた。

 眉根を下げながら少し口元を緩めて微笑むファウストに、グレートヒェンもそっと微笑み返して料理をする手元に視線を下ろした。


「すぐ朝食ができるから、もう少し待っていて」
「ああ。いつもすまない、なにか手伝うよ」
「いいのよ。これぐらいしかすることがないんだもの」


 森の中に隠れるように建つこの隠れ家では、家事をするか畑の手入れをするくらいしかすることがない。一日の大半をのんびりと過ごすしかないのだ。だから限られた仕事をするこの時間は、ある意味で有意義だった。

 そう言えば、ファウストは開きかけた口を閉ざして静かに、そうか、と頷いた。それに、そうよ、と視線を手元に落としたまま頷き返して、もう出来上がってしまった朝食をお皿に盛りつけた。

 食事はお互いあまり食べたい体質だから量は少しばかりで、食べやすいヘルシーなものがいつもテーブルに並ぶ。朝食には大抵ガレットが並んで、彼の好物であるこれを作るのがいつの間にか得意になっていた。

 出来上がった朝食をテーブルに並べ、ファウストが魔法で注いだコーヒーを二つ置いて、向き合うように椅子に腰を掛けて朝食を支度を完了する。食器が擦れる音が時々小さく響く。二人の間に会話は少なく、窓の外から聞こえてくる風の音や動物の鳴き声を聞きながら黙々と二人はフォークを進めた。

 綺麗に平らげた皿にそっとフォークを置いて、傍らに置いたマグカップを手に持つ。そうしてゆっくりとコーヒーを喉に流し込んで、ほっと息を零す。


「ファウスト、今日はなにか予定でも?」
「いや、特にすることは無いよ」


 ファウストはこの隠れ家で呪い屋として生業を立てていた。文字通り呪いを専門として扱う仕事で、時々他所の魔法使いや人間が此処を訪ねにきた。けれど今日はその予定も無いらしい。とは言っても、此処を訪ねに来る人なんていうのは珍しいことで、基本的には閉ざされた場所で静かに過ごしていた。

 畑の様子でも見るか、とすることが無く呟いたファウストに頷いて、グレートヒェンは空になった皿やマグカップを持ってキッチンに向かった。その時、キッチンのところにある窓に視線を向けてみると、外に見慣れない人影が歩いてくるのを見つけた。


「ファウスト、人が来る」
「なに?」


 グレートヒェンがそう言うと、ファウストはぴくりと眉をひそめてじっと窓の外に視線を向けた。歩いてくるのは人間のようで、彼は真っ直ぐとこの隠れ家を目指していた。その様子から、よく迷い込む人間ではないことが窺える。


「お客さんみたいね」
「まったく……こんな時期に呑気なものだ」


 はあ、と忌々しげにため息を吐く。

 こんな時期というのは、年に一度この世界に降り注ぐ〈大いなる厄災〉がそろそろ近いことを言っている。ファウストはその〈大いなる厄災〉である月と戦う役目を負った賢者の魔法使いの一人で、その証であるユリの紋章が左肩の後ろに大きく刻まれていた。賢者の魔法使いは他にもいて、彼らは〈大いなる厄災〉が襲ってくるその日に集結していた。


「グリッタ」
「わかってる。私は裏の畑の様子でも見てくるよ」
「ああ、すまない」
「いいのよ」


 ファウストは仕事の内容を聞かれるのが嫌なのか、はたまた存在を知られるのを嫌っているのか、こうしてグレートヒェンを遠ざけていた。グレートヒェンはその理由を尋ねることはなく素直に従って、いつも二階の自室へ引きこもるか裏庭にある畑に退散していた。

 洗い終わった食器を片付けて、ファウストが玄関から出ていくのを視界の端で確認してから、グレートヒェンは裏庭に続く扉へ足先を向けた。

 裏の畑ではいろいろなものを自家栽培しているが、一番多いのはハーブだ。ハーブは薬にもなるし、食事の味付けにも役立って、ハーブティーを作ることもできる。役立つ場面が多いからこそ、とても便利な食品だ。

 ハーブの他にも、苺や野菜なども栽培している。それらの様子をじっくり確かめながら手を動かしていれば、聞き慣れた声がふいに降ってきた。


「グリッタ」


 視線を向ければ、扉のドアノブに手を掛けながらこちらを見つめているファウストと目が合った。それを見てグレートヒェンは、汚れた手袋を仕舞いスカートの汚れをはたき落としてから、ファウストのもとに向かった。


「もう帰ったから、家に入りなさい」
「早かったのね。もう終わったの?」
「下らない話だったから追い返したよ」


 やれやれ、と呆れるファウストにグレートヒェンは小さく笑みを零した。

 呪い屋なんて言うが、そのじつファウストは本当の意味で誰かを呪ったことは無かった。人間が嫌いだと言うくせに、そう言う目的の人間はすぐに追い返して、基本的には呪いの解呪法や害の無いおまじない程度の魔除けなどを請け負っているのが事実だ。

 ふと、ファウストの手が持ち上がって指先が頬に触れた。そのままぐいっと親指で頬を擦られる。


「《サティルクナート・ムルクリード 》」


 呪文を唱えられれば、汚れてしまっていた服は一瞬で新品のように綺麗になって、頬に触れていた手が遠ざかった。どうやら土いじりをしていた時に汚れてしまっていたみたいだ。


「ありがとう、ファウスト」


 そうすると、ファウストはスッと一瞬目を細めた。けれど誤魔化すようにそっと微笑みを浮かべて、視線を逸らす。


「ハーブティーでも淹れるよ。君が好きなやつ」
「それは良いね。貴方が淹れるハーブティーはとても美味しいから」
「ふ……、そう」


 ファウストはふっと笑みを零して、扉を開け放ちながら身体を逸らした。


「さあ、家に戻りなさい」
「うん」


 グレートヒェンは頷いて、身体を逸らしたファウストの横を通り過ぎて家の中へ入って行った。

 その後姿を見つめ家の中へ入った彼女を確認すると、ファウストは扉を閉めようと再度扉に振り返った。ふと、扉を閉めようとした腕を止めて、中途半端に開いた扉から外を見つめる。生温い風が吹いて、隙間から入った風に優しく頬を撫でられる。そうしてファウストは瞼を伏せると、振り返ったままパタンと静かに扉を閉めた。