風も耐えた夏の夜の闇が重く、そして蒸し暑くたれこめる。増してや室内で空調も意味もなさない体育館の中など蒸し風呂同様である。

「今日も今日とてあちぃな」
「田中、さり気なく扇風機の向き変えんな」

練習を終えた烏野高校バレーボール部はいつも通り体育館の掃除をしていた。
ポールやネットの片付けにモップがけ、ボールの点検等いつも通り。そう、そんな「いつも通り」の事を「いつも通り」こなす面々の中に「いつも通りでは無さそうな」人物が1人いた。


「なんか影山今日気持ち悪いんだけど」
「ツッキー、シンプルな悪口やめたげて」

うっとおしそうな顔をする月島につられて、デリカシーのない彼の発言にすかさずフォローをいれた山口も話の渦中にある人物に視線を向けた。




影山は掃除をする為に、片手にモップを持っている。

ここまではいつもの影山飛雄と言えるが問題はその表情である。
モップを持っていない方の手で携帯の画面を何やら食い入るように見ている彼は、その顔面に薄ら笑いを浮かべている。三日月型にした目元に不気味に上がる口角、どこからどう見ても仏頂面の影山はそこには居ない。

「え、ほんとだ気持ち悪」
「山口も大概辛辣じゃん」


いつもより数倍様子のおかしい影山にチームメイト達は一歩、いや百歩後退りをして距離をとる。

「おい日向、影山どうしたんだよ今日」
「いや俺も分かんねえすよ!気付いたらずっとあの顔なんすもん!」

思わず菅原が相棒である日向に声をかけるが、日向ですらその原因が分かっていないようである。

「そもそもアイツ携帯で何見てんだよ」
「覗いてこいよ田中。そういうの得意だろ」
「ノヤっさん、それ特大ブーメラン」

ミーハー男子であり烏野の特攻隊とも称される田中と西谷は影山の周りを一周してその様子を伺う。


「声掛けるタイミング難しいな、」
「あ、日向が近づいた」
「あいつまじで歩く好奇心すぎんだろ」

烏野の特攻隊ツートップが未だ入り込めていなかった領域に日向が足を踏み入れた。流石は"再び現れた小さな巨人"とも呼ばれるだけある。その肝すら巨人そのものなのだ。


「影山お前顔きもくね?」
「死にてえのか」

典型的ににやついた顔をする影山に小さな巨人は絶好調な日向節で声を掛ける。
完璧な程にも癪に触れられた王様は頭の王冠を投げ捨てるかの如くモップを地面に叩き付けいつも通りの険しい顔で応戦した。

「いや怒んなって!俺だけじゃなくてまじでみんな思ってるから!今日のお前きもいって!」
「思ってんすか!」

慌てた日向が傍観するチームメイト達に救済を求めるが、一同は「思ってません」と声を揃え小さな巨人は地面にひれ伏し狼狽えた。

「ちょっと皆、酷いっすよ!月島とか影山まじで気持ち悪すぎて胃液あがってきた吐きそう生理的に無理って言ってたじゃん!」
「どさくさに紛れて話盛るのやめてもらえる?」

醜い罪のなすり付けあいをする面々に影山は不機嫌そうにしながらも何か考える素振りを見せる。

「影山が露骨に考える人ポーズしてる」
「美術館の彫刻でしか見た事ねえぞあのポーズ」
「何かお考えになってんだろ待っててやれ」

片膝をつき拳に顎を乗せあからさまに考え込んでしまった影山に周りもザワつく。今日のこいつは本当に様子がおかしい、と。


「そんなに俺変か、日向」
「いや変としか言い表せねえだろお前のこの状況」
考える人ポーズをやめた影山は日向を見下し仁王立ちして問うた。容赦なくお前は変だ、と告げられた影山は深く息を吸って何か覚悟を決めたようだ。


「彼女ができました」














__________




「彼女ができました」
たったの一言。その9文字を言うだけで口から心臓が飛び出すくらい影山飛雄は緊張していた。
意を決して、少し大きな声で9文字を告げた彼に体育館はまるで誰もいなかったかのように静まり返る。
影山の低いその9文字の最後、たの母音だけが反響して空間を行ったり来たりしている。


「は、」
「だから彼女ができましたって言ってんだよ!もっとなんか反応しろや!いっその事笑えよ!」
声にならず空気のような音を漏らした日向に、畳み掛けるように影山は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。


「おま、影山彼女出来たのか?」
「田中さん、すんません」
「謝んなよ虚しくなんだろ」

影山に彼女ができた、その事実が烏野高校バレーボール部に与える影響は思ったよりも大きかったようだ。
いつもは元気よく居残り練をする面々ももぬけの殻のように意識をどこかへ飛ばしたまま直帰した。
更に「くだらない」とだけ言ってのけた月島を追いかけるように、ようやく意識を取り戻した山口は明後日の方向へと視線を向けたまま部室へと向かっていった。


「冷静に彼女持ち第1号影山って世界終わってね?」
「菅原、強く生きろ」
「影山も案外コートの外じゃそれなりにや、」
「東峰、やめろ」
主将らしく、今日の練習をお開きにした澤村は震える手で菅原と東峰の背中を支えながら体育館を後にする。


「えっと影山君、おめでとう」
「ありがとう、谷地さん」
「おえ、おま、おえおま」
「日向落ち着いて!」

体育館に残された谷地仁花は兎に角、衝撃的カミングアウトをした影山に祝福の言葉をかけねばと混乱する頭で漸く声を絞り出した。さらに横で腰を抜かす日向の介抱までもれなくついてくる、谷地はこの場をシンプルに"地獄"と呼んだ。

「だ、誰とだよ誰とだよおえ!」
「日向本当に落ち着いて嗚咽が凄くて心配!」
「誰、とは言えねえ」

泣き咽びながら影山の足にしがみつく日向の背中を谷地は優しくさすってやる。今にも相棒の足元に先程食べたバナナを戻してしまいそうな勢いの日向に、その足元の持ち主は慣れた手つきで袋を用意した。


「バレー関係のやつ、ていうのは言えるけど。練習とかに支障きたすの嫌だから誰とまでは言えない」
「あっじゃあバレー部の子なの?」
「バレー部」
「男バレのマネージャー?」
「まあそうだな」

ここまできたらもう持ち合わせているものは好奇心しかない境地の谷地は、少し嬉しそうに顔を赤らめる影山に次々と質問をかます。
誰とは言わない、とは言っているが純粋で単純な影山の事だ。探りをいれたい訳でもないがお相手は一体誰なのか気になるものは気になる。さり気なく遠回りして少しずつ聞き出せば一つ一つのピースが合致して正解に辿り着けるはずである。こんな堅物と付き合える女性は一体どんな人なんだろう苦労するだろうな、と八割失礼な思考回路で質問を放出する谷地に日向は遠のく意識の中、感心していた。


「じゃあ烏野じゃないんだね。私達の知ってる人?」
「まだ知らねえと思う。これから知るかも」
「これから、?」

詮索を始めた谷地に危機感をもった影山は、取り敢えず彼女ができたってことは言っとこうと思って、と言い残し足早に体育館を後にしようとする。

「おい待てよ影山」
「なんだよ」
大粒の涙と涎を垂らしながら、吐き気を抑えていた日向が影山の足を瞬時に掴む。

「さっきのニヤつきはなんだったんだよ!」
「さっきメール来て。来週宮城親交試合の時、練習後一緒に飯食い行こうってなったからそれで」
「嬉しかったんだな!」
「ああそうだよ悪ぃかよ!」
「悪くねえよそりゃ良かったな!?」


テンポの良い掛け合いをする日向と影山を前に、平常心を取り戻し始めた谷地は情報の整理を始めた。
尊敬する先輩である清水の姿を見て培った情報整理の方法をバレー以外で活用する日が来るとは思わなかった、と後に谷地は語る。

「バレー部、マネージャー、私たちはまだ知らないけどこれから知るかもしれない人物、来週の宮城県内ので練習試合後に約束」

谷地はいくつかの選択肢をバレー部用のノートの端っこにメモして、体育館の電気を消した。













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