繰る切片

あたりには何の物音もない。
なんだかまるでシエスタの時間みたいだなと安室透は村上春樹の一文を思い出した。
何もかもが眠り耽ってしまったような昼下がり、時計は午後2時を過ぎている。

客の出入りも少なくなり、扉のカウベルは一切音を立てなくなった。
現在店内に居る客は2人。そのうちの1人を見て安室は首を少し傾げた。
何処かで見たことがあるような、そんな既視感を覚える女が居たからだ。

店に入って一番奥の2人席で小さな文庫本をパラパラとめくり、偶に顔を上げたと思ったらロイヤルミルクティーに口を付ける。
彼女がそれを繰り返して軽く1時間は経った。
誰かと待ち合わせをして、時間を潰しているのだろうか。社会人特有の慌たださは感じられず、只本当に喫茶店で過ごす時間を楽しんでいるような雰囲気だ。そんな彼女の顔を盗み見てもやはり頭の隅っこの方で「会ったことがある」という可能性を孕んでいる。払拭しきれない違和感に、安室は焦りを感じた。潜入捜査官として既視感のある人物は、イコール要注意人物であり危険な存在である。

しっかり思い出さなくては。
もし彼女が潜入先の組織で会ったことがある人物だとしたらこの状況は非常にまずい。
ノンオフィシャルカバーが流出しかけた時点で、疑いを掛けられているのだから、組織の人間に監視されていてもおかしくない立場なのである。

榎本梓に頼まれた珈琲豆を抽き出すという作業と並行して安室は女の観察を始めた。
まずは容姿の特徴をしっかり捉えよう。
後に、風見あたりに調査して貰うように頼もうか、と部下の顔を数人思い浮かべる。

仮にこの女が変装している可能性も勿論視野には入れていたが、その辺りは心配しなくて良さそうだ。注文の飲み物を机に置く際、間近で彼女の首筋を見たが怪しげな繋ぎ目が無かったからである。
実際に自分も変装を経験した事があるのだから見極める力はある。

陶器のようになだらかで真っ白な肌はまるで現実感がない。偶像、その言葉に違わぬ秋草のような美しさ。本を読むのに夢中になっているからか、つんと澄ました表情は昔何処かの店で見た日本人形のようだ。手入れがされた真っ黒な黒髪の光に反射するその様は正に天使の輪である。手足はすらりと伸び、頭部とは反対色である白の仕立ての良さそうなワンピースに身を包んでいる。

素で人を褒める事はあまりしないが、彼女の外見はここまで形容するに相応しい。
なのに、だ。一際目立つ見た目をした彼女に既視感を抱くも思い出せないのだ。そんなに昔の記憶なのだろうか。

今はどんなに頭を働かせようが答えが出ない、そう諦めかけていた時いつぶりかのカウベルが人の訪れを知らせた。

「いらっしゃいませ」
いつもの笑顔を取り戻し、開かれたドアの先を見ればそこには見慣れた少年の姿があった。江戸川コナンだ。

「コナン君いらっしゃい、今日は1人?」
「安室さんこんにちは。ううん、あのね今日は待ち合わせを、」
安室の姿に一瞬たじろいだコナンは何かを言いかけたと思いきや、あっと声を出して先程の偶像元い今正にロイヤルミルクティーに口を付けようとしている例の女の元へと駆け寄っていった。

女は声を掛けてきた少年の姿を見ると、一瞬ビー玉のようなまん丸な瞳を更に大きくし、椅子から立ち上がった。
かと思えば2人ともどこか余所余所しく頭を下げ、何やら挨拶をしている。初対面を思わせるその行為に、安室はまた首を傾けた。
調査対象となりつつある女が、更に重要人物である江戸川コナンと接触しているというこの状況は如何なものか。
「情報量が多過ぎるな」
しかし意外な関係性を知る事が出来たのも確かである。加えてこのシーンを見る限り組織の人間という線は僅かに薄くなった。俺はそっと彼女の写真を盗み撮り、風見宛のメールに添付し件名に[対象]という文字だけ入力して送信した。

「ご馳走様でした」
送信完了の文字を見届けた後直ぐ、図ったかのようなタイミングで安室の元へ女が伝票を渡しにやって来た。写真を撮ったことがバレただろうかとも思ったが死角から撮影したから大丈夫だろう。冷静を装い笑顔で伝票を受け取る。

「コナン君とはお知り合いなんですか?」
直接言葉を交わす良い機会だ、と安室はゆるりと口角を上げた。僕も実は彼とは仲良しでね、とレジで商品を打ちながら、女の目をしっかり射抜く。急な問いにも黒目がちな瞳の中の瞳孔は揺れることなく、此方も至って冷静だ。

「いえ、実は江戸川君とは初対面なんです」
「へえ」
思ったよりも高いソプラノの声が静かな店の中に響き渡った。

そして何より初対面であることは事実のようだ。
仮にあの余所余所しい2人の挨拶を見させておいて私達仲良しなんですと言われる方が戸惑うが、と安室は目を細める。

「私、東都大学院の院生なんですけど、同じ学部の知人が小さな名探偵の友人がいると言うので紹介して貰おうと思って。ね?」
「うん。それで今日この喫茶店で待ち合わせをしようってなったんだよね。お姉さんと僕のお友達は未だ研究室で課題を片付けてるから先に合流しようかって」
女はコナンの頭に優しく手を置くと、コナンも嬉しそうに微笑んだ。


「私、ミステリー小説とか推理小説が大好きで。ずっと探偵という職業に憧れてたんです」
それで江戸川君の話を友人に聞いた時、思わず紹介してって無理言ってしまって、と女は少し照れた様子で頬を紅く染めながら、先程まで読んでいた小さな文庫本を安室に見せる。

「江戸川乱歩のD坂の殺人事件、ですか」
日本探偵小説の大家、江戸川乱歩の本格推理短編だ。トリックの斬新さが名高い作品で安室も過去に一度読んだことのある作品だった。

「そうそう、これも面白くって。あとこれも」
そう言って興奮気味に小さめのカバンの中から何冊も推理小説を取り出す彼女のその様は某異次元ポケットを彷彿させ、思わず肩を震わせた。

鮎川哲也の『リラ荘事件』や横溝正史の『獄門島』、城平京の『名探偵の薔薇』等全て異なる作者の小説を所有している所を見ると、1人の作者のファンというよりは推理小説そのものに魅力を感じているようだ。

いや、今はそんな事どうだっていい。

東都大学院に在学し、江戸川コナンを紹介出来るような人物がこの女の知人にいるという事。
もしかすると、もしかするかもしれない。
少し嫌な汗が背中を駆け抜けていく。


「失礼ですが、大学院の学部は?」
「工学部です」

間違いない、安室は自らの予想が的中した事に酔いしれながらも事の重大さに波風を立てるような事態に困惑した。

「工学部にいる沖矢昴、って知ってます?」
「知ってますよ。江戸川君を紹介してくれた本人ですから」
ほんの少し、何かを悟ったのかコナンが顔を顰める。それとは反対に安室はにやりと右側だけの口角を上げた。



「いや驚いたな。僕、沖矢昴とも江戸川コナン君とも友人なんですよ。共通の知り合いが出来たのも何かのご縁ですかね」
僕は普段私立探偵をしながら此処でアルバイトをしている安室透です、と手を差し出せば、彼女もそうなんですか、とまた大きく目を見開き驚いた様子を見せながらもそっと安室の手を握る。白い肌と黒い肌のコントラストがやけに安室のコンプレックスを引き立たせているようで内心舌打ちをした。

「苗字名前です。それにしても凄い偶然」
苗字名前。やはり名前にも聞き覚えがあるような気がする。先程から無理に記憶を呼び戻そうとしているせいか微かな頭痛に悩まされるも堪える。


「名前さん、そろそろ沖矢さんと合流する時間だよ?」
「あっ本当だ」
痺れを切らしたのか、ずっと冷や冷やしながら目の前の男女の会話を聞いていたコナンが苗字の服の裾を掴んで店の外へ出ようと促す。
その様子を安室が逃す訳も無かった。
まるでこの女と安室を早く引き剥がさなくてはならないといったコナンの行動に益々疑いが掛かる。

「素敵な名前ですね、名前さん。また是非ポアロにお茶しに来てください」
サービスしますんで、と今日一番の笑顔で苗字にお釣りを渡せば、一瞬能面のような、冷めた顔をし
た苗字が急いで口角を上げる。


「沖矢君にも宜しくお伝え下さい」
敢えて沖矢昴、いや赤井秀一に自分自身の存在を突き詰める意図と単純な嫌味の2つを込め、2人の後ろ姿に向かってそう呟けば、苗字がそろりと振り返った。

「分かりました、伝えておきますね。沖矢君に」

血を塗りこめたような不気味な夕焼けの赤に照らされた彼女の顔はやはり笑っては居らず不気味な程に感情の無い能面で安室は唯ならぬ恐ろしさを正面から感じた。




謎の既視感、江戸川コナン、赤井秀一との関係性。
どこをとっても一抹の不安を覚えるような存在の苗字名前。何故初対面の彼女等がこの喫茶店ポアロで待ち合わせをしたのだろうか。


そもそもあの女は探偵という職業に何ら興味を持っていないだろう。

私立探偵をやっている、と安室が述べた時一切反応を見せなかったからだ。
自分の友人に小さな探偵を紹介してもらうように頼む程、本当に探偵業に関心を寄せるのならば直ぐに食いつくような場面であったはずだ。

では何故彼女が探偵業に惹起されると嘘を付いてまで江戸川コナンと接点を持つ必要があるのか。

風見から空メールを受信した。了解、という意味だろう。兎に角今は苗字という女を徹底的に洗い出してやろうじゃないか。安室透の仮面を被った公安警察降谷零はまた不気味な笑みを浮かべた。



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