欺く従花


夜更けの庁舎4階は朽廃したお寺のような感じだ。

というのも合同浴場がやたら古めかしい造りをしているからである。

小洒落た人口池と小さな獅子脅しのすぐ後ろに赤と青の暖簾がぶら下がり男女入る場所を色分けしている。
一見、旅館の温泉のような佇まいであるが、これが夜遅くとなればやたら不気味なのだ。

オカルト系は苦手では無い苗字であったが、実際に人影の無い薄暗い浴場を前に思わず足を止めた。

苗字の部屋には備え付けの小さな風呂もあるのだが、この女はどうしても多めの湯に浸かりたかった。昼間に起きた喫茶店ポアロでの出来事を払拭する為には熱めのお湯にゆっくり浸かりリフレッシュする事が第一だ、と考えた苗字は不自然に暗い廊下を見ないようにする為に後ろを一切振り返らず暖簾に手を掛ける。


「あれ、苗字?」
「えっ」

聞き慣れた低い声に名前を呼ばれ思わず後ろを振り返る。

「降谷さん何してるんですか」
「風呂入りにきたんだよ。苗字こそ男湯の暖簾に手を掛けて何してるの?」
「え?」






踏んだり蹴ったりだ、と苗字は頭を抱えた。




今一番会いたくない人物ランキング首席の降谷零が、着替え一式を抱え後ろで立ち尽くしている。
その状況でさえ最悪な展開であるのにも関わらず、苗字は間違えて男湯に堂々と入ろうとしていたのだ。
考え事をしていたからとは言え男湯に入るなんて事は許されない、当たり前である。謝って済むなら警察は要らない、という原理はこれだ。

兎にも角にも、仮に降谷に止められていなかったら苗字は庁舎にて犯罪を犯す所であったのだ。
正に現行犯逮捕である。


「笑えない...」
「お前疲れてるんだよ」

昼間も何かしおらしかったもんな、と降谷は苗字を女湯の前までそっと背中を押した。

しかし昼間のあれは疲労とかそういうものじゃない気がする、と苗字はまた考え込む。今度は女湯の前で床を一心に見つめ何か考え事をする部下をみていよいよ降谷は鳥肌を立てた。

「苗字、もしかして何かに取り憑かれてる?」
「いやいやいやいや、まさか」

ふと我に返った苗字があからさまに目をかっ開いて大きく笑うと、降谷は小さく溜息をつく。

「何?悩みでもあるの?」
「え」

観念したかのように浴場前のソファに座った降谷が隣の空いたスペースを手のひらで叩く。
座れ、という事だろうと判断した苗字は居た堪れない気持ちを抑え大人しく腰をかける。

「自分でもよく分からないんですけど」
「ああ」
「もしかしたら更年期来たかもしれないです」

は?と思いっきり顔を顰めた降谷が隣の女をまじまじと見つめればその女の顔は至って本気で、もしかしてこの女は変なところでポンコツなのかもしれないとまた小さく溜息をついた。

「その歳で更年期は無いだろ。何、苛々するの?」
「はい。でも月経前とかじゃないんですよ」

普段自分の気持ちをコントロールする事なんて容易かったのに今日の昼間の不快な気持ちだけは抑えることが出来なかった、素直にその心境を苗字は降谷に話す。
そんな話を聞いて降谷は、いよいよ口角をゆるりと上げた。


「お前それ本気で言ってるの?」
「いやだって、どう考えても客の前で店員同士がいちゃいちゃし始めたら腹立つでしょ!」

喫茶店ポアロのアピアランスはどうなってるんですか、と声を荒らげる苗字に降谷は今度こそ声を上げて笑った。


「もしかして苗字、俺のこと好きなの?」
「は?ぶっ殺していいですか?」
「いやいや、真面目に考えてよ」

目に涙を浮かべて愉快そうに腹を抱える上司に、苗字はまた腹を立てて胡座をかいた。
自惚れにも程があるだろう、と頬を膨らませるが「真面目に考えて」と言われ、一応思考を働かせてみる。

「それ、俺から言わせてもらえば嫉妬にしか聞こえないよ」
「...、嫉妬」

聞き馴染みの無い単語を反復した苗字は、もう1度自分が経験した不快な思いを呼び起こす。
そして今正に苗字が降谷に語った内容と嫉妬という定義を当てはめてみると、いよいよ苗字は顔を真っ赤にして立ち上がった。



「そんな!私が嫉妬するなんて」
「おー、認めた?」
「認めませんよ!私は」

苗字はもしかして目の前の底意地悪い上司に好意を抱いてしまったのか、と必死に考える。

そんな筈ない、そんな筈無いのにやっぱり降谷との会話は凄く楽しいし悔しいけど落ち着く。
そう言えば庁内を歩けば知らない間に彼を探してしまった事もあるし、降谷が私に見せたことの無いような完璧な笑顔で榎本と会話をしたいる姿を見てから私は更年期的症状が現れた。

意識すれば意識するほど心臓が高鳴っていくことが分かり、苗字は顔を手のひらで覆った。

丸で先輩に告白をする前の女子高生みたいな絵面になってしまったことに戸惑いが隠せない苗字は必死に話題を変えようと辺りを見渡し会話の材料を見つける。


「この床の木目調、綺麗ですよね」
「分かりやすく話題変えんなよ」

お前にも可愛い所あるんだな、とまた大きく笑う降谷を見て、悔しくなった苗字は歯軋りをしながら再びスカートの裾を皺になる位ぎゅっと握った。

「折角この前、俺がお前の彼氏になってあげようか?って聞いてやったのに」
「いや本当に自惚れないで下さい」

絶対異性としての好きとかじゃないんで、と突然冷静な顔で全否定してくる部下に、降谷はとんだじゃじゃ馬だなと眉を下げる。


「確かに上司としては信頼してますし尊敬もしてます。でも異性として?貴方を?いや、無い無い無い」
「藪から棒に何だよ。腹立つな」


まあ違うなら違うで別に良いや、と興味無さそうな顔をしてソファから立ち上がった降谷を見て苗字はまたチクリ、と心臓が痛むのを抑えた。

対する降谷も、実際に苗字に対して好意を丸出しにしていた分全否定された時の打撃は大きかった。
初めの戸惑いを見たら、もう一押しでいけると思っていたが甘かったようだ。
流石そこら辺の女とは違うな、と降谷はニヒルに笑う。


「まあ、俺は名前の事結構好きだけどね」
「え、今名前で」

あくまでプライベートの時だけだよ、と降谷は男湯の暖簾に手を掛け風呂場へ行ってしまった。


"仕事に私事は持ち込まないんで"

前に喫煙所で言っていた降谷の言葉を思い出し、苗字は力無くソファへ沈む。


「名前で呼ぶのは狡い」

完全に落としにかかってきている顔の良い上司の思惑に乗らぬよう必死に無の境地へ悟りを開こうと苗字は目を瞑った。













湯はさらりとして熱かった。
家で沸かすお湯とは違い、お湯に硬さがある。
身体の凝りが解れてきて揉みしだかれたように背中の筋肉が緩んでいつもよりのびのびと広がった。

苗字は昔から熱いお湯に浸かるのが大好きだった。ゆっくりと熱い湯にその真っ白な身体を沈めることで不思議と無駄な感情や悩みも全て吹っ飛からだ。
特に感情を押し殺して任務にあたる業務も多いこの仕事を始めてからは、逸る気持ちや捨て去るべき思いというものを払拭する為によくお湯に浸かっていた。
便利な身体だな、と言われることもあるが普段自由な時間も取れず緊迫した場面に身を置き、リラックス出来ない人間が、リフレッシュするとその効果も倍増なのだ。


「はあ〜至高」

苗字はお気に入りのシャンプーの香りに包まれながら、タオルで優しく髪の毛の水分を拭き取る。持ってきていたオーガニックのヘアオイルを満遍なく手に取り、毛先に付けると洗面台一面に柑橘系の香りが広がった。
ドライヤーで丁寧に髪を乾かし終えると、絹のような真っ黒の髪を1つ束ね、桃色のレースをあしらった下着の上に着慣れた真っ黒のスウェット着込む。



すっかり降谷に対する感情もどこかへ仕舞いこんでしまった彼女は上機嫌で女湯を後にした。




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