【1】


暑い日だった。だけど、それに不釣合いな涼しい風がよく吹く日だった。シャツの袖を肩までたくし上げて、名字は額につたった汗を拭うと、「暑いね」と言って笑った。名字の束ねた髪の毛先が揺れた。「ああ、そうだな」と返事をして、名字の差し出したドリンクを受け取った。名字は風に乱れた髪を耳にかけると、もう一度「ほんとに、暑い」と小さな声で呟いた。名字は、俺を通り越した先の、向こうの方を眺めていた。笑っていたはずの名字の目に、憂いが含まれていた事に、俺はしっかりと気付いていた。

「まだ七月の始めなのにね。こんなに暑いと、本番が心配だね」
「ああ、八月は猛暑になるだろうな」
「はー…日焼け対策、強化しなくちゃ…」

いきなり神妙な面持ちになった名字がおかしくて、俺は「日焼けより大会の心配だろ」とからかうように言った。すると名字が「そ、それもそうなんだけど」とばつの悪そうな顔で答えた。

「女の子には色々とやらなきゃいけない事があるのだよ、日吉くん」
「ハッ、ご苦労な事だな」

どこぞの教授だか博士だかのような口ぶりで、名字はやけに自慢げに言った。それに対して鼻で笑ってやると、名字は眉間にしわをよせて俺をにらんだ。と、言ってもまさに今から喧嘩がはじまる、とかそういった感じのにらみ方じゃない。どちらかと言うと小動物が不安げに飼い主を見つめている、みたいな、そんな感じだ。

「もう、分かってくれてないでしょ、その顔は!日吉はいいよね、何もしなくても肌白いし」
「ああ、分からないな。それに俺はそんな事言われても何も嬉しいと思わない」

大体、女子は気にしすぎなんだよ。言うと、名字は更にむきになって「日吉には一生、乙女心が分からないよ」とふてくされたように言って、子供みたいに唇をとがらせた。ちょうどその時、一年がランニングから帰ってきて、名字が慌てて「あ、行かなきゃ!またね」と言って、ドリンクの入ったかごを手に、急いで走り出した。かごの中で、ペットボトルがごろごろと窮屈そうに転がっていた。しばらく、走っていった名字の後姿をぼんやり眺めていた。あいつなら名字にあんな表情をさせたりしないんだろうな、なんて思いながら。もっと女子が喜びそうな台詞をたくさん持っていて、そしてそれを照れる事なく言えてしまうんだろう、なんて―。

乙女心が分からない、か。それでも全然構わないと思った。それなら、名字が誰を見てるかなんて事にも気付かずに済んだだろうし、名字が誰の事を気にして日焼けに悩んだりするかもぴんと来たりもしなかったはずだ。もっと、こういう所だけは勘が鈍ければよかった。あいつみたいにへらへら笑っていられればよかった。考えれば考えるだけ、頭の中の糸は、絡まってぐちゃぐちゃになってしまう。そして、俺はその糸をひとつひとつ、ほどいてやれる術を知らない。


名字がいつから鳳を好きだったのかも、俺がいつから名字のその思いに気付いてしまったのかも、今ではもう思い出せない。



退屈な6時間目の現国では、将来の夢についての小論文を書かされた。実にありきたりすぎる。俺は迷うことなくペンを進めると、早々に結論まで書き上げた。授業の残り時間はあと十分程度だった。俺はその間、名字の事を考えていた。

授業終了の合図、チャイムが鳴るとクラスは一斉に騒々しくなる。担任が席に座れなどと言いながら教室に入ってくるまでこの騒ぎが止まない事を知っているから、別に何とも思わない。もう慣れた。窓の外を見上げると、今日も昨日と同じくらい暑くなりそうなくらい、ぎらぎらと日が射していた。また今日も名字は日焼けの事を気にするのだろうか。無意識にすぐ名字を連想してしまっている自分に気付いて、ここまで来ると俺ももう末期かな、と自分を嘲笑した。

「日吉ー!」

できれば今は、この声を聞きたくなかった、と思った。教室のドアの前で、鳳が俺に手を振っていた。はあ、と溜息をついて、何も知らずににこにこしている鳳の所に向かった。もちろん、鳳は何も悪くないって事くらい、分かってる。俺ひとり、くよくよと悩んでいる事の方が実に馬鹿らしい訳なのだけど。

「なんだよ」

普段通りの無愛想な答え方をすると、鳳は「これ、借りてた辞書、ありがとう」と辞書を差し出した。ああ、と思い出したように答えると、鳳は「助かったよ、ほんとにありがとう」と言って笑った。目じりを下げて、鳳は優しそうに笑う。きっと名字はこいつのこういう所が好きなんだろうな、と思った。鳳が「そういえば」と言ったので、歩き出そうとしていた足を止めた。振り返ると、鳳は「今日、先輩達、皆来られないみたいなんだ」と、寂しそうに言った。

「放課後、進路についての事で色々あるんだって。詳しくは分からないんだけど…」
「そうか、じゃあ後でスケジュール確認しておく」
「うん、ありがとう。あの、さ…」
「何だ?」

見ると、鳳は悲しそうな顔をしていた。「…どうした」と、声を潜めて問うと、鳳は慌てていつもの顔で笑った。「いや、なんかさ、はは」と、空元気極まりない声で笑って。

「俺達だけでやれるのかなって。来年とか…先輩達、もう引退だね」

ぽつりぽつりと呟く声は、教室の騒々しさの中にかき消されていった。鳳が寂しそうに目を伏せて、俺は、そんな鳳を凝視していた。まるで俺達の間だけ、時間が止まってしまったように、長い沈黙がそこにはあった。もうすぐ、俺達が部を引っ張っていかなくちゃいけなくなる。今の環境は、移り変わろうとしてる。俺はそんな事、まるで知らなかったかのように全く忘れてしまっていた。名字の片思いを見守りながら、先輩達の背中を追い続ける、それでいい。それでいいと、思い込んでいたのだ。現実はそうは行かなかった。きっと俺は、何かしら決断を下さなければいけないんだと思う。鳳が、「日吉?」と心配そうに俺の顔を覗きこんだ。

「ああ、悪い…」

鳳は「いや、」と苦しそうに笑った。こんな時まで、こいつは笑おうとするのか、と思った。張り詰めた雰囲気を変えなくてはいけない、と思って、俺は今にも泣き出してしまいそうな鳳を安心させるために、声を大きめにして言った。

「大丈夫だ、やれるさ。俺達だけでも」

同時に、自分にも言い聞かすように。しっかりと胸に刻み込んで。ずっと先輩達を見てきた。だから分かる。きっと俺達も、あの人達と同じように、いや、きっとそれよりもいいチームを作れる。だから、俺はしっかりしなくちゃいけない。鳳や、名字や、その他の奴をひっぱっていくのは、俺なんだ。こんな所でくよくよと悩んでいる訳にはいかない。

鳳は、驚いたような顔をしてから、しばらくしていつものように笑った。名字を一瞬にして喜ばせてしまうんだろうな、と、俺はやっぱりまた名字の事を考えていた。
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