第2話 昼休みの悪魔

「おはよう。俺のことが嫌いな名字さん」
幸村くんはさわやかに言った。寝たふりをして幸村くんを無視していたら、幸村くんは机に伏せていた私に顔をぐいぐいと近づけてもう一度「お・は・よ・う」と威圧感のある口調で言った。朝から勘弁してくれ…。やっぱり昨日のことは根に持たれていたようだ。
「おはよう、幸村くん…。別に嫌いじゃないよ…」
信じてもらえないだろうと思いつつ、作り笑いを浮かべ挑んでみる。すると幸村くんは「じゃあ昨日のあれは何だったって言うのかな?」とにこにこと微笑みかけてきた。そりゃもうにっこにこと。ほらね、やっぱり!信じてもらえるなんて思ってなかった!アハハ!
向こうの方で同じクラスだがまだあまり話したことのない女子が「何?あの二人仲良いの…?やだー!」とかなんとか言っている。いやなのはこっちだ…今すぐにでも変わってやりたいくらいだよ!しかしそんなこと出来るはずもなく、私に出来ることと言ったら、ただ元凶となった昨日の減らず口な自分を呪うことぐらいだった。
「ちょ、ちょっと苦手かなって思ってただけ…」
苦し紛れにそう言うと幸村くんはにっこりと笑って、「そっか。ごめん悪かった。言い直すね。…おはよう、俺のことが苦手な名字さん」と言った。どうやらこの王子様はねちねちと人をいたぶるのがお好きならしい。しかも笑顔で。もうどうにでもしてくれ…。



こんな日に限って移動教室や選択授業がなかった。6時間たっぷり幸村くんの嫌がらせを受けれるということだ。案の定、幸村くんは一時間目の初っ端から、何度も後ろを向いてはその度に話しかけてくる。

一時間目、情報社会。
「この授業ってちょっと、退屈だよね」
「う、うん…」
「一時間目からこの教科と決めた人を呪いたい気分だよね」
「う…うん…」
良いから黙って前向いてろよ…!もちろんこれは私の心の中だけの声である。幸村くんは更に情報社会の担当教師のえらそうな態度が気に入らないと小声で文句を言っていた。私は幸村くんの方が十分えらそうだと思うけど…と思っていると、幸村くんが「何?名字さん俺が何だって?」と目を見開いて聞いてくるのでこわくなった。本当にエスパーなんじゃないだろうか、幸村くんは。

二時間目、英語。
「俺、英語は得意なんだ。名字さん、見てる感じじゃあまり得意じゃなさそうだね。俺で良かったら教えてあげる」
「え。別に、いいよ」
確かに英語は得意じゃない。しかしなんて失礼な奴だ。別にいいと断っていると言うのに、幸村くんはすばやくこちらを向いて、私の教科書の例文だけが丸写しにされてあるノートにシャーペンを走らせた。
「そんな、遠慮しなくていいよ。俺と名字さんの仲じゃないか。あ、この例文のstupdityって、名字さんのことだね」
「……」
俺と名字さんの仲って…。いつそんな仲になったのかぜひ教えていただきたいところだ。冷めた目で幸村くんを見つめる私をよそに幸村くんは嬉々とした顔で「あ、この先週のところ。名字さん寝てたでしょ、字がミミズみたいになってるよ」とかなんとか言っている。人の欠点をあざとく見つけ出して攻撃するのがすきなのだろう。イヤな奴。
「それと他に名字さんを連想させる単語と言えば、fool、idiot、silly、なんてのがあるよ」
「ちょっと!foolって…ひどい!バカだなんて!」
「foolしか分からなかったんだね。フフ…」
「……」
相変わらずどこをどうとっても失礼な奴だ。でも私は幸村くんが言った通り、辞書をひかないと単語の意味が分からなかった。そうこうしてる間に幸村くんは例文の訳し方を私に分かりやすく説明してくれた。やっぱり頭は良いようである。悔しい。

三時間目、現国。
「へぇ、名字さんって字が上手なんだね。すごくきれい」
「そ、そんなことないけど…アリガトウ…」
素直に褒められたことに動揺してしまい、ありがとうがカタコトになってしまった。幸村くんがそんな私を見てまたフフ…と笑みを漏らしながら「俺だって人を褒めることくらいあるよ、女の子相手ならなおさらね」と言った。何のアピールなのか知らないけどそんなのは他でやってくれ、他で。と、私は思っていた。

四時間目、数学―の前の10分休み。
「俺、数学も得意なんだ。良かったら教えてあげる」
「いや、まじほんと…大丈夫だから…ありがとう…」
頭が良いのは認めるけど、教えてくれている時にいちいち私を小ばかにするような話を盛り込んでくるのでとても疲れる。今度はきっぱりお断りすることにした私は、気が引けながらもきちんとそのことを告げると、幸村くんは「そっか、残念だな。まあ俺で良かったらいつでも聞いてよ」と微笑んだ。あれ、意外とはっきり言った方がいいのかもしれない…。昨日のダークな雰囲気も感じられないし。私が、やったー!これで50分は平穏な時間を過ごせる!と心の中でガッツポーズしているところに悲報が…。
「今日は数学の先生が休みなので、自習になりました!」
学級委員が黒板に大きく“自習”と書いている。呆然としたままその光景を見ていた私に、「フフ…自習だってね。俺とおしゃべりしようか、名字さん」と幸村くんがいかにも何か企んでいそうな顔でにこにこ微笑みながら言った。
「名字さん、好きな食べ物は何?」
「え…や、焼肉…」
「へぇ、名字さんって野性的なんだね」
「は、はぁ…」
「じゃあ好きな本とか、映画とかは何かな?」
「ほ、本…?ドラえもんかな…映画も…」
「はは、そうなんだ。いつになっても子供の心を忘れないのはいいことだよね」
「はぁ…」
「じゃあ好きなタイプは?」
「…好きなタイプ?」
「異性の好みだよ」
「あ、あぁ…うーん、優しくて気遣いができる人かな」
「へぇ、まるで俺のことを言ってるみたいだね」
「は、はぁ?!」
とんだ勘違いだよ…私は幸村くんとは程遠い人のことを言ったのに!さっきから自習とは言え、話しかけてくるペースが全然落ちない。周りも騒がしいから、他と比べて非常にうるさいとかそういう訳ではなかったけど、自習用に配られたプリントが全然できない私にとっては幸村くんのどうでもいい質問攻めは邪魔くさくてしょうがない。机に俯くようにプリントをやっている私を幸村くんが楽しそうに見下ろしている。数学が得意と言っていただけあって、幸村くんのプリントはすでに全部うめられているようだった。プリントをちらちらと覗き見ていたのがバレたらしく、幸村くんが「俺のプリント、見せてあげようか?」と言ってきた。
「いいの…?」
おそるおそる聞いてみると幸村くんはにっこり笑って「いいよ」と言った。続けて、「もちろんタダでは見せないけどね」と意地悪く微笑んだ。
「じゃあいいです…」
やっぱりな、と思いながらあっさりと引き下がると、幸村くんは「やだな、そんな難しいことじゃないよ。ただちょっと答えてくれればいいだけ。要は俺の質問にあといくつか付き合ってほしいってことだよ」と言った。「質問?」と問うと、「そう、質問」と笑顔で返された。どうしようかと悩んでいると、目の前で美しいほどにびっちりと回答が並んだプリントをひらひらと見せ付けてきた。
「い、いいよ…!」
「本当?じゃあ交渉成立だね」
嬉しそうにそう言うと幸村くんは、プリントを私に渡してくれた。私はせっかくだからがっつり写してやろう!と躍起になった。
「じゃあ聞いてくけど…」
「はいはいどうぞどうぞ」
プリントさえ手に入ればこっちのもんだぜ!どうせ今までに一番恥ずかしかったことは?とか何歳までおねしょしてた?とかそんなことを聞くつもりだろう。そして笑うつもりだ…私はそう思っていた。しかし、実際は少し違った。
「名字さん、彼氏はいるの?」
「は…?彼氏…?い、いないよ」
いやに色っぽい質問である。高校生らしいといっちゃ高校生らしいその質問に私は驚いてシャーペンを止める。すると幸村くんが「ああ、答えるだけでいいから、書いてていいよ」と私に続きを写すことを促す。ああ、うん…まあ…言われなくても写すけども。
「そっか。じゃあ好きな人は?」
「え…。い、いない…」
「じゃあ、作る気は?彼氏でも、好きな人でも」
何?何なの?新手のいじめ?私は幸村くんの真意がつかめずに困った。
「はぁ…?え、いや、なくはないけど…」
そう答えると幸村くんはいきなり嬉しそうにニカッと笑い「そうなんだ!」と少し大きめの声で言った。
え…本当に何…?不気味なんだけど…。そう思っていると幸村くんが「不気味は失礼だよ、名字さん」と冷たい声で言ってきたのでやばい、こいつエスパーなんだった…と思い出し、我に返った。
「フフ、そうなんだ。あ、ちなみに、俺も彼女募集中だよ」
幸村くんが両手で頬杖をつき、微笑みながら言った。だから何だよ…机の面積減るから向こう行けよ…と私は思っていた。そうこうしてる間に授業終了のチャイムがなり、数学の時間は終わった。プリントも写させてもらったのでばっちりだろう。しかしさっき私の字を上手だとかなんだとか言ったわりに幸村くんの書く字は驚くほどきれいだったので、やっぱりあれはからかわれていたんだなと気付いた。時間差いやがらせか今度は…。

昼休み。
やっと開放された!そう喜んでいた私に幸村くんが話しかけてきた。
「名字さん、お昼一緒に食べようよ」
意味が、わからない。昼休みは、勉強嫌いな私が学校で唯一好きな時間。友達と過ごすささやかな楽しい時間である。それをなぜ今まさに私を一番悩ませているこいつ…この男と一緒に食べなければならないのだ!向こうの方で朝と同じ女子が「えーやっぱりあの二人ああいう仲なの?キャー!」とかなんとか言っている。しばくぞ!私は関係ないにも関わらずその女子をキッと睨みつける。
「え…は、はは…ご冗談を…」
「冗談なんかじゃないよ、名字さんは面白いこと言うなあ。フフ…」
「いや、いやいやいや…幸村くんいつも帽子かぶったこわい人が迎えに来るじゃない。あの人達と食べるんでしょ、私は遠慮しておくよ…」
「弦一郎のことかな?大丈夫だよ、気にしないでも。きっと快く迎え入れてくれるだろうし」
ありえない。というかそもそも幸村くん達と楽しくお弁当を食べる私っていうのがありえない。あの帽子の人が私を快く迎え入れてくれるという図も想像が付かない。
「何?何か問題でもあるの?」
「えっ!い、いや…」
言葉を詰まらせていると幸村くんがほら、ほら言いなよと言わんばかりに顔を近づけてくる。それも私の苦手な笑顔で。
「と、友達…!友達と約束してるから!」
慌てて返事をすると幸村くんは「昨日の二人?」と尋ねてきた。「そ、そう…」と答える私。さすがにここまで言ったら遠慮するだろうと思ってほっとしていた私に幸村くんは驚くべきことを言う。
「大丈夫だよ。じゃあ俺の友達と、名字さんの友達と、みんなで食べよう。食堂は空いてるかな?」
「!!!!!」
ちょうどその時、驚きのあまり声すら出ない私の携帯電話の着信音が鳴った。
「名字さん、電話だよ」
「あ、ああ…うん…」
着信音1に設定されていて良かった。ついこないだまで私の携帯電話の着信音は小島よしおのそんなの関係ねえ!がえんえんと流れるという最悪の着信音だったからだ。そんなのを幸村くんに聞かれた日にはいじり倒され、仕舞には自殺にまで追い込まれていたことだろう…。電話の相手はエミコだった。
「も、もしもし…!エミコ…!ちょっと今…」
助けて!と言おうとして、私が電話をしているのをじっと見ている幸村くんに気付いた。それも微笑みながら。俺のことは気にしないでいいから続けて、と言わんばかりの笑顔だった。口が裂けてもそんなこと言えない…言ったらまさにそれこそ助からない状況になる。私は察した。
『名前?今どこにいるの?うちらいつもの所にいるんだけどなかなか来ないから心配してたんだよー』
いつもの所というのは、私達三人がお弁当を食べる場所と決めている中庭のベンチのことだ。私だって行けることならすぐにでもそこに行きたい…!泣きたいのを堪えてエミコとの会話を続ける。
「えっと…あの、ゴメン。ていうか、そのことなんだけど…」
ちら、と幸村くんを横目で伺うと、「さあ誘いなよ、ほら、早く」と言いたげな目をして私を見つめていた。言わなきゃ命が危ない!!
『うん、何?』
「あの…幸村くんにお昼一緒にって誘われて…エミコ達も良かったら一緒に…」
『え?!!』
「ど、どうかなって…」
『えぇ〜…どういう展開?…いや、私達は遠慮しておくよ…名前行ってきなよ、私達のことは気にしないで!ね!』
「な、なんで!?エミコ達幸村くんと話したいって言ってたじゃん!!」
『バカ…!それは昨日までの話!放課後あんな話してるのを聞かれてのこのこ出て行けるほどアホじゃないって私らも!』
「やだやだやだ!来てよー!ねえお願い!私を助けると思って!私がどうなってもいいの!?」
『どうなってもいい訳じゃないけど…ていうかアンタこの電話幸村くんに聞かれてるんじゃないの?そんなこと言ってていいの?』
「!!!!!」
ハッと我に返り、ゆっくり振り返ってみる。幸村くんが魔王を彷彿とさせるダークな笑顔を浮かべている。
「どうしたの?名字さん、お友達は何だって?」
「あ、あ、あの…」
口ごもる私にエミコは電話越しに「じゃ、じゃあ!ごゆっくりね!何だったら帰りもご一緒してもらいなよ!またね!」と言うと、すぐに電話を切った。ひ、ひどい…!友達なら助けに来るでしょ普通…!と絶望していると幸村くんが「残念だったね。じゃあ俺達と食べよう」と微笑みかけてきた。アンタのせいで尊い友情の絆が切り裂かれようとしてるっつーの!
「い、や…」
私は涙を飲んで最後の抵抗に励む。
「何?まだ何かあるの名字さん」
不服そうにピクリと眉を動かして幸村くんは言った。
「あの…その、私…」
「何だい?遠慮しないで言ってみなよ」
「幸村くんのお友達の…あの黒い帽子の人が苦手で!」
真っ赤な嘘だ。本当は話したこともなければ、接点すらないので見かけることだってそうそうない。それなのにそんな相手をいきなり苦手と言えるはずがない。…まあ昨日の幸村くんの件は別として。とにかく帽子の彼を、幸村くんの強引な誘いを断るために少し利用させてもらおうという訳だ。いくら幸村くんでも自分の友達を苦手と言われたら「じゃあもういいよ」と引き下がるだろう。私はそう踏んだのだった。
そこにちょうど例の帽子の人が現れて、教室のドアの外から「精市!」と幸村くんを呼んだ。幸村くんはパッと振り返るとその帽子の人に話しかけた。
「弦一郎!」
そうそう、その調子その調子。私のことなんかほっておいてその人とお昼を食べにいきなよ…。私は幸村くんの背中を見ながら、うっすらと笑みを浮かべる。今度こそ、本当に開放される!と、思っていたのが間違いだった。
「名字さんが弦一郎のことを怖がっているじゃないか!もういいから、早く教室に戻りなよ!俺、もう弦一郎とは昼食を一緒に食べない!金輪際、俺が名字さんといるときは話しかけないでくれるかな!俺が良いって言ったときだけにしてくれ!さあ、早く帰りなよ!」
幸村くんがものすごい剣幕と激しい口調でそうまくし立てた。
「ええ……!?」
思わず困惑の声音をあげる私。さっきの幸村くんの怒声を聞いていたクラスメイト達もざわざわと騒ぎ始める。弦一郎、と呼ばれた帽子の人も驚き、戸惑っている。そりゃそうだ。私は思ってもいなかった展開に慌てずにいられなかった。
「せ、精市!?しかし…!」
「うるさいなあ!しつこいんだよ、弦一郎は!早く帰れってば!」
反論しようとする弦一郎くんの言葉をぴしゃりと却下する幸村くん。さ、さすが元部長…テニス部の鬼…。その迫力にたじたじなのは私だけじゃないようだった。
「せ、精市…すまなかった。では、俺は帰ろう…」
弦一郎くんはしょんぼりと肩を落しながら、言われるがままに廊下へと帰っていった。彼が立ち去った教室の扉から、彼と同じくらい背の大きなすらっとした人が現れて、幸村くんに「精市、俺は?」と尋ねた。幸村くんはさっきの鬼のような表情をいっぺん、いつもの笑顔に戻し私に向けた。
「ああ、蓮二。蓮二はどうだい、名字さん」
「え!?あああ、ええ、いやもちろん!全然いいです!」
いきなり話を振られ驚きつつも、弦一郎くんのことを思い出して、私は了解の返事をする。私のせいでこの人まで傷つけるのはよくない!というか、私のせいではない気もするけど…。
私がそう言うと、幸村くんはその人に「蓮二はいいよ」と言った。蓮二と呼ばれた人は「そうか」とほっとしたように呟き、それから私に向かって「ありがとう、名字さん」と微笑んだ。
「えぇ…あぁ…いいえ…」
何と言っていいのかわからず適当に返事をした。お礼を言われる筋合いはない…むしろ弦一郎くんに謝りたいくらいだ…。ごめんなさい、弦一郎くん。今頃教室で一人寂しくお弁当を食べているのだろうか。他人ではあるけど同情したい気分だ。私のせいで本当にごめん…いやどっちかっていうと、というか全面的に幸村くんのせいだけど。



私は幸村くんの手によって強制的に食堂へと送還された。昼食は私の隣に幸村くん、そして幸村くんの前の席に彼のお友達の蓮二くん、という不思議な組み合わせの三人で食べることになってしまった。弦一郎くんへの申し訳なさが時を追うごとに増してきて、罪悪感に苛まれる私をよそに、幸村くんが始終ニコニコと嬉しそうに焼き魚定食をつついている。そんなに焼き魚が好きなのかな…。
「名字さん、お弁当は手作り?」
「ううん、お母さん」
「そっか。でもたまに自分でやったりはしないの?」
「え…しないけど、何…?」
「そうなのか、残念だな。いや、ちょっとね。俺は毎日学食だから作ってきてくれないかな〜なんて思ってたんだよ、フフ」
「は?な、何で…」
「女の子から手作りのお弁当をもらうのなんて男のロマンじゃないか。な、蓮二」
「まあ、97パーセントの確率で大体の男はそう思っているだろうな」
「は、はぁ…」
やけに依頼心の強い男だ。頼むんならそのへんで「幸村くんがいる…きゃーこっち向いた!」とか騒いでる女の子に頼めばいいのに。自慢じゃないけど私は家庭科万年2の家事できない女の代表のような人物だ。私に手作りのお弁当を頼むなんて、エベレストの高さからのヒモなしバンジージャンプに挑戦するようなものだ。命を粗末にするな。
「ねえ名字さん、その玉子焼きちょうだいよ」
「え、玉子焼き?…あとひとつしかないからやだ」
「別にいいじゃないか。毎日食べてるんだろ?」
玉子焼きの攻防戦。隣の席からいちいち箸を出してくるので手で阻止した。絶対にやるもんか。
なんだかだんだん幸村くんに反抗できるようになってきたようだ。あれだけちょっかい出されればさすがに免疫ができるのかもしれない。少し強気になり、「やだってば、大切に残してるんだから。玉子焼きならほら、蓮二くんのお弁当にも入ってるじゃん」と言ってみる。すると微笑んでいた幸村くんの顔が一瞬にして真顔になり、静かになった。
「な、何?どうしたの…?」
怒らせたのだろうか。何が何なんだか訳がわからなかった。幸村くん以上に扱いにくい人間はこの地球上どこ探したっていないだろうと思った。何が原因なの。何なの。逆に私がイライラしてきた。すると幸村くんは恐ろしいほどの無表情のまま、やっと口を開いた。
「………蓮二、くん?」
普段より声が小さく、低い。あきらかに怒ってるような言い方だった。
「え、何?」
聞くと、「名字さん君、今、蓮二くんって言ったね…」と逆に聞き返された。「え…うん、言った…」と答えると幸村くんはものすごい勢いで私の方を見た。
「ひっ!」
こわ…!と言いそうになって慌てて口を噤む。いくら幸村くんに慣れてきたとは言え、やはり怒っているらしい相手に更に怒らせるようなことを言うような勇気は私にはなかった。
「…なんで蓮二くんなんて呼んでるのか…俺に説明してくれるかな」
幸村くんが明らかに怒りの篭もった声で言った。蓮二くん、と名前を呼ぶことに了解を取らなかった私に怒っているのだろうか…。そう思い、「ごめん、さっき幸村くんがそう呼んでたし、苗字知らなかったから…い、いいかな?」と謝罪し、許しを請う。すると蓮二くんは「別に構わない」とさらりと答えてくれた。よ、よかった…!これで問題は解決。と、思ったら甘かったようだ。
「いいや!!構うね!おかしいだろ、会った初日に名前で呼ぶなんて!名字さんはそんな人じゃないはずだよ、俺だってクラスメイトになってから一ヶ月は経ったけどまだ幸村くんどまりなのに!」
幸村くんは机をバンッと叩いて立ち上がった。幸村くんの座っていた椅子がガタンと音を立てて倒れた。周りがシーンとなっている。
「精市、どうした。少し落ち着け…」
幸村くんはなだめようとした蓮二くんをキッと睨みつけると、「名前で呼ばれてるからって上から目線か!いいよな!俺だって精市くんって呼ばれたいよ!」と怒鳴り散らした。え…何言ってんのコイツ…。
「それは違う、精市…」
「いい気になるなよ、蓮二!横取りとは趣味が悪いな!」
蓮二くんの声を遮って幸村くんが吠える。なぜこんなに彼は機嫌が悪いのだろう。というより、なぜこんなに性格が悪いのだろう。私はあ然として何も言えずにいた。いつもだったら騒がしさにごった返しているはずの食堂も、今では幸村くんのせいで静まり返っている。これが部長の尊厳?はたまた魔王の迫力?
幸村くんは「やってられないよ!」とか言いながら食器を返却口に運ぼうとしていた。その場にいた人達が次々と道を開けていく。ちょっとでも触れようものなら傷つけられ兼ねない、というのを誰もが感じれるほど凄まじい迫力だったのだろう。まるでハリケーンの渦中にいるような気分だった。実際そんな目にあったことがないから詳しくは分からないけど、表すならばそんな感じだ。とにかく、とにかくすごい。半端じゃない。何もできない私はただその勢いが収まるのをじっと耐え、待つことだけだ。長年の親友だという蓮二くんに、彼のこの不機嫌をどうすることもできないというのだったら、私はもちろん、他の誰だったとしてもそれは無理なことだろう。ちらりと蓮二くんの方を見る。すると幸村くんを目で追っていた蓮二くんがこちらに向きなおし、口を開いた。
「名字、悪いんだが…」
向こうの方でガッシャーン!と大きな音がした。幸村くんが乱暴に食器を置いたのだろう。
「精市を収めるためにはお前の協力が必要だ」
「えっ?」
「俺の名は柳 蓮二と言う。俺のことは名前じゃなく苗字で呼んでくれ。それから、精市のことを名前で呼んでやってくれないか」
「え…?な、なんで…」
幸村くんがドスドスと足音を立てながらこっちに向かって歩いて来る。
「理由は後だ、ほらもう戻ってくる。お願いだ、この場を収めるためにはそれしかない」
「えっ!で、でも…」
「いいから…!精市、だ」
私は柳くんに腕を引っ張られ、バランスを失い幸村くんのいる方に前のめり、よろけてしまった。顔をあげるとちょうど幸村くんも私を見ていた。背中に柳くんと、それから周りの人の視線を感じ、私は「あ、あの…」と口を開く。
「ごめんね…せ、精市くん」
…言った。幸村くんは驚いた顔をして、それから「名字さん…今、なんて?」と聞いてきたので、私は恥ずかしさを堪え、もう一度「せ…精市くん」と言った。聞き返してきたから答えてやったというのに幸村くんはしばらく口をぽかんと開けたまま何も言わずにいた。ちょっと柳くん!作戦失敗じゃないのコレ!ふざけんなよ!言おうとして振り返ろうと思ったら、いきなり肩をガッとつかまれた。誰にって、それはもちろん、幸村くんにだ。
「ううん、全然!俺の方こそ、悪かったよ。ごめんね名前!」
えっ…?名前?聞き返したかったけど、その前に幸村くんがニコニコして私を見つめていたので言えなかった。いつもの王子様スマイルが健在している…それも輝きが三割り増してるような笑顔が。さっきまで荒れ狂っていた人物とは大違いだった。幸村くんはテーブルの向こう側に座っていた柳くんに向かって、「蓮二、すまなかった。俺としたことが少し取り乱してしまった」と申し訳なさそうに呟いた。
少し!?あれが少しなの!?振り返り、目を見開いて柳くんを見ると、柳くんは「それは禁句だ」と言いたげな顔をしてから、幸村くんに「いや、大丈夫だ、精市」と返事をしていた。
とにかく事は収まったようだった。幸村くんは一変、ご機嫌になってしまい、やたらと私を見つめては、目が合うと微笑みかけてくる。
「あんまり見ないでくれる…」
「いやだね」
「な、なんで…」
「俺の自由じゃないか」
そう言うと幸村くんは頬杖をつき、体をテーブルに乗り出して私が食事を取るのを見つめていた。本当に…やりにくいなあ、もう…。幸村くんのいやがらせに耐えていると、食堂にいた生徒がぞろぞろと出口に並ぶ。昼休み終了まであと5分だった。
何だか色々ありすぎてあんまり食べられなかった…。私は最後に残しておいた玉子焼きを一口で食べて、片付けを始めた。ふと横を見ると、相変わらず幸村くんが私を見つめてくるので「な、何か…?」と聞くと、幸村くんは「いや、おいしそうに食べるなと思って」と言ってフフ…と笑った。
「おいしく食事を取るのは良いことだよ。俺も名前に見習わなくちゃ、だ」
そしてニコッと笑いかけてきた。こうして笑っているだけだと本当にかっこいいのに、もったいない。私は心の中で思った。弁当箱を手提げバッグに仕舞い、席を立とうとした時、幸村くんに「何がもったいないんだい?」と耳元で囁くように聞かれてドキッとした。嫌な意味でも、良い意味でもある、驚きだった。
「じゃあ、教室に戻ろうか」
そう言って横を歩く幸村くんの顔を見上げる。安らかな横顔は、さっきまであんなに荒れていた人と同一人物とは思えない。幸村くんは本当に不思議な人だと思った。そんなことを考えながら歩いていたため、少し遅れを取ってしまった私に「どうかした?大丈夫?」と声をかけてくれる幸村くん。冷たい人って訳でもないんだよなあ。
私は、苦手な人だったはずの幸村くんがどういう人なのか、知りたくなってしまったようだった。

(080525)
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