「手首を傷めたの?」
HRが終わり、参考書をしまおうと右手でテニスバッグを持ち上げた俺に、誰かが不機嫌そうな口調で話しかけてきた。
「ハァ?」
横に立つその人物を見上げた。同じクラスの名字名前だった。
確かに昨日の部活で右手首を少し捻った。とはいえ大した痛みではないしそのうち治るだろうと特に深刻に考えなかった。だから部活の先輩にも親にも、誰にも言っていない。それなのに、クラスメイトだが今日初めて話したばかりの、名字が手首の微かな痛みを指摘してきた。自分だけが知っているはずのことなのに、なぜこの女がそのことを知っているのだろうか。俺は眉を顰めて名字を見た。
「だめよ。早く病院に行って。早く治して。困るわ、もうすぐ中間試験なのに」
「・・・何を言ってる?お前、俺のストーカーか何かか?」
名字の顔を見ると、名字はムッとしたような表情をして言い返してきた。
「何言ってるはそっちよ。私、すごく迷惑してるんだからね」
名字は白く細い右手首を押さえながら言った。俺は状況を飲み込めずに名字を見つめたままそこに立ち尽くしていた。しかし、俺を困惑させている当の本人はそう言い終わるとすばやく身支度を済まし、俺の前を横切って教室を出て行った。
「絶対に病院に行ってね。すごく痛いんだから」
去り際に、右手首を庇うように胸元に添えて、強い口調で名字は言った。
仕方なく同級生に自主練は休むと伝え、その足ですぐに病院に向かった。骨折とまでは行かないが、放っておいたら危ないところだった。医者にそう告げられ、俺ははぁと気のない生返事をした。さっきの変な女、名字名前のことを考えていた。



朝、教室に入るとすでに名字は自分の席に座っていた。誰と話すでもなく、課題をやるでもなく読書をするでもなく、ただ静かに窓の外を見つめていた。休み時間も同じようにそうしていた。
昼休み。学食から帰って来ると、名字は相変わらずの姿勢でいた。昼食は済ませたのだろうか。談話したりする友達はいないのだろうか。本当に変な奴だ。その時、無意識に名字のことを考えている自分に気付いて少しいら立った。俺は痺れを切らしたように、廊下側前の自分の席から立った。窓側の後ろから二番目の、名字の席に向かう。
「昨日、病院に行った」
挨拶もなしに口早にそう告げた。昼休みの人の少ない教室に俺の声だけが大きく聞こえたような気がした。左手で頬杖をついていた名字は話しかけられて初めて俺の存在に気付いたようで、はっとして顔を上げた。とはいえあまり表情は変わらない。細く精密な眉と人形のような長い睫が微かに動いただけだった。
「でも、まだ痛いわ」
不服そうに言うと名字はそっぽを向いた。改めて見てみても、相変わらず名字の白い手首は何の外傷も見当たらなかった。
「・・・病院に行ったからってそんなにすぐに治るもんじゃないだろ。というかお前・・・」
昨日のあれは、というよりこれは、一体なんの冗談なんだ。そう言おうとしたが名字が言葉を遮ったので口にすることができなかった。
「早く治してよ、お願いだから。私、大きな怪我をしたことないの・・・鼻血を出したこともないし、風邪もあんまり引かないわ。だからすごく不便だし憂鬱。大体何でそんな怪我をしたの?転んだの?あなたって落ち着いてるように見えるけど実はすごくドジだったりするの?」
名字の意味の分からない話に俺は若干イライラしていた。ドジ呼ばわりされたことも少し癇に障った。しかし今はそのことにいちいち怒ったり怒鳴ったりしている暇もなければそんな余裕もない。何故、怪我のことを知っていたのだろうか。今はその答えだけもらえれば何でもいい。
「おいお前、何で俺が怪我をしたか・・・」
「知る訳ないじゃない。私、あなたと昨日初めて話したんだから」
何言ってるの、と言いたげな表情に腹が立つ。そんな事俺だって分かってる。 早く怪我を治せと懇願する名字は俺がテニス部だということも、テニスで腕を負傷したということも知らないようだった。それに名字は、俺の腕を心配しているというよりも、自分の腕の痛みを訴えているようなのだ。意味が分からない。俺は小さく舌打ちをして、片手で頭を押さえた。軽く眩暈がした。
するとその時。
「立ち眩み?・・・やめてよ」
名字は突然机に突っ伏して辛そうな声でそう呟いた。俺はそんな名字に絶句するしかなかった。しばらく俺達の間を沈黙が流れた。
「・・・どういうことだ?」
何がどうなっている?やっと口を開いた時には昼休み終了のチャイムが校内に鳴り響いていた。俺は完全に混乱していた。手の平が汗でじっとりと湿っている。名字はまだ顔を上げない。俺はしばらく机に突っ伏したままの名字を見ていたが、いつまでもそうしてる訳にはいかないので後ろ髪引かれる思いで名字の席を離れた。席に戻る頃には、教室にいつもの喧騒が戻ってきていた―。



放課後、俺は手首に気をつけて左手で鞄を持ち上げた。窓際の名字を見やりながら。なぜ自分が気を使わなくてはいけないのかと不服に思いながらも、そうせずにはいられなかった。このままではやらなければいけないことをやるどころか、何にも集中できる気がしなかった。そして俺は立ち上がった名字の元に向かった。鞄を持つ左手を取った。「待てよ」と言うと名字は目を見開いただけで何も言わなかった。

俺もあまり喋らないし、名字も同じだったので人のいなくなった夕暮れ時の公園は静かで物寂しかった。名字に説明してくれと頼むと、黙ってばかりいた名字が少しずつ話してくれた。しかしここまでくるのに俺は貴重な時間を2時間も費やした。言うまでもなく、部活は無断欠席なので明日部長にこっぴどく叱られるだろう。
他人の、痛みなどの感覚が乗り移ることがたまにあるらしい。それは小さい頃からごくたまに起こることで、今までに家族や親類、ごく親しい友人などのそれを共有した経験があるのだという。
小さい頃はそれが当たり前だと思っていたが、成長するにつれそれが普通でないということに気付いた名字は、今までそのことを隠していた。誰に話しても信用してもらえないからだ。親に言えば病院に連れて行かれ、教師に言えば異端児扱いされ、友達には気味悪がられた。そして名字はいつからか人を避けるようになり一人でいることが多くなったのだと言う。もし俺が名字の立場だったら同じようにそうしていただろう。今でさえ自分のことで精一杯だというのに、他人の感覚をわかってしまうなんて、面倒という以外何ということはない。
それに誰だって傷つくのは怖い。だけど一人でいることはもっと怖いんじゃないかとも思う。しかし、名字にはそうするしか方法はなかったのだろう。治る方法はおろか、そもそも何が原因でこんな面倒なことが起こっているのか、それすらも分からないのだから。
「あなたも私を気味が悪いって思うでしょ?」
俺が黙っていると名字は俺のその態度を肯定と取ったらしく寂しそうにうつむいた。俺は慌てて言う。
「いや、そんな事ない・・・」
ないが、何故なのかが気になる。俺はこういうオカルトな話が好きだ。だから知ってしまったら調べてみたくなる。名字は怒るだろうか。興味本位でそんなことを言い出したなら。
名字は俺の言葉を聞いても尚うつむいていた。そして気を使わなくていいと小さな声で言って、自分の肩を抱くように縮こまった。

俺は名字に悪いことをしてしまった、と思った。少し反省した。言い方が無愛想なのがいけない。
次の日の昼休み、俺は名字を誘い図書室へ向かった。
「なに?」
「お前のその変な力のこと、調べにいくぞ」
俺たちは昼休みに、図書室に通うことにした。山のように本を抱えてきては読む。積み上げては返し、そしてまた持ってくる。というのを一ヶ月間も繰り返し、ありとあらゆるジャンルの関係のありそうな書籍に目を通した。
一ヶ月の間に、季節は変わり、冬になった。5時を過ぎると外はもう真っ暗だ。
探せども探せども、これといってピンとくるものがなかった。ん?と思ったものもよくよく読めばどれも空想上の話や信憑性の低いものだった。市の図書館並に膨大な書籍を揃える図書室だが、俺たちの求めているものは少しも見つからなかった。
俺が見つけたのは全く関係のない別のものだった。名字の首のラインにあるホクロとか、不思議な瞳とか、利口そうに結ばれた唇とか。ブラウスは必ず第一ボタンまで閉めている。控えめに見えて実は意外とはっきりとした口調で、少し古風な言い回しをすること。テニス部の取り巻きの奴らとは少し違うなと思っていた。決定的な違いではなく、ぼんやりとだが、どこかが違う。そんな不思議な存在感があるように思った。
「双子とかにはそういうのがあるらしいが・・・」
本の字列を追う目を止めて、前に座る名字を見る。名字は俺の言葉に何も言わなかった。その目は俺と同じように本から離れて俺を見た。
「なあ、単純に考えて・・・感受性が強いとか、そういうことじゃないか」
あまりに長い間口を開かなかったので喉が渇いていた。あまりにまっすぐに見つめてくるせいで何だか照れくさかったが、名字はそんなこと気付くはずもなく黙って俺を見ていた。
「それで、ああ、いや。勘違いするなよ、一応聞くだけだ。・・・俺に好意を寄せてるってことはないか?」
俺は何を言ってるんだと思った。自分で言ったくせに。名字は同様してる俺を余所に相変わらずの無表情。見透かしたような瞳。やっと口を開いたと思ったら、「さあ・・・」とだけ言うとすぐに本に目線を戻した。可愛くない女だ、と思った。

昇降口で、俺は当たり前のように名字を待つ。もう何日もそうしていたから今更だ。冬は部活が終わるのが早いし、そのことについて調べる時間をもっと多く必要としていた俺たちは、放課後も図書室に通う毎日を過ごしていた。
「ごめんなさい、日誌を出し忘れてて」
そう言いながら下駄箱に現れた名字。かかとからつま先までどこもかしこも艶々の、俺のそれとは違ってコンパクトなサイズのローファーを履く。
「寒いぞ」
名字の白い顔が更に青白く見える。俺は巻いていたマフラーを名字に差し出す。名字は「ううん」と言って首を振ったが、俺はそれでも名字に無理やり渡した。名字は黙ってマフラーを巻いた。数歩先に歩いていると、あったかい、と呟く声が聞こえた。俺はその声に頬を緩める。名字に見えないように前を向いたまま。今までこんなことに興味はなかったけど、こういうのもいいかもしれないとどこかで思い始めてた。
「日吉くんに優しくされる度に・・・」
ふいに名字が小さな声で言った。小さな、本当に小さな声で。蒸気になって消えていってしまいそうな儚さで。立ち止まり振り返ると、名字も同じように止まっていた。長い丈のスカートから見える膝小僧が寒々しく目の端に映る。
「何だか私、もうすぐ死んでしまうのかもしれないって、そんな風に思うの」
名字は微笑するでもなく、悲しそうに眉を歪めることもなく、真顔で縁起の悪いことを言う。
それはお前だけの感覚なのか、それとも。俺は聞かなかった。いや、聞けなかった。名字は黙ったままの俺をじっと見てた。心臓がやけに早く鼓動していた。名字もそうなのだろうか。
「このところ何だかやけに耳鳴りが多いの」
吸い込まれそうなほど深い闇がふたつ。俺だけを見ている。俺だけしか見えていないかのように。
「ぼやけてる。気付かない程小さい音が遠くの方で鳴ってて、決してそばには寄ってこようとしないの。きっと何かを伝えようとしてるんだわ。ねえ、日吉くん。あなたはどう思う?あなたにも聞こえるでしょう?」
そう言って名字は近づいてくる。二ヶ月前に痛みを訴えてきた右手で俺の胸元を触る。心臓に。名字の不健康な白い細い手が心臓の上に重なった時、少し呼吸が苦しくなった。何もできない自分への不甲斐なさが、じりじりと焼きつくような焦燥感を煽った。きっと名字には簡単に説明できない何かがある。俺に触れてはいけないような何かが。そして触れることができない俺も。
どう思うも、何も、ない。俺は名字を睨んだ。いや、睨むように見た。そうしたのはきっと照れ隠しだ。初めに抱いた感情をまだ覚えてる。名字のことをひどく面倒に感じた時のことを。今はそんな風には思えなかった。まるで世界には二人しかいないかのように。どこかが麻痺してるのかもしれない。
名字は俺を見つめ続けていた。そこには宇宙が宿っている。深い闇に。
苦しい。切ない。俺はきっと今、この細い腕を掴んで、名字を抱きしめたいんだろう。名字を助けてやりたい。でも―。
居た堪れない気持ちになり、視線を下げた。その闇に踏み込む勇気が、俺には、ない。伸びた前髪のせいで、もう名字の表情は見えなかった。名字がどんな顔をしてたのか、どんな気持ちだったのかは俺にはわからない。冷たい冬の気配だけを、俺は感じていた。音のない風が吹いて、冷たい空気が耳の裏を撫ぜた。

(091201)
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