山に近づいてはいけない。

村の子供たちは真っ先にそう教わる。
山に近づいてはいけないよ。神隠しにあったら戻れなくなるからね。
それを忘れていたわけではないけれど、山菜に気を取られていたほたるが顔を上げると、ずいぶん奥まで来てしまっていた。

「どうしよう…」

日が暮れるのはまだ先だけど、鬱蒼と茂る木々で辺りは薄暗く、鳥の鳴き声も気味が悪い。

いつもは他の子供たちと一緒に、山の麓近くにある、天狗の腰掛石と呼ばれている大きな岩の手前で引き返すのだ。
他の子供と比べてひときわ小さいほたるは長く歩けないし、持てるものも少ない。
それをからかわれるのも恒例行事だが、つい今日は売り言葉に買い言葉で、一人で残ってしまった。

もう十歳なのだから、と途方に暮れそうになるのをこらえ、眉をしかめる。
とりあえず下へいけばいいだろうと下ってみても、見慣れない木々に化かされ、さ迷うばかり。獣道に入ったのか、足跡も多い。
村に猟師はいないから、どれくらい大きくて、どんな獣なのかわからず、何を見ても不安ばかりがあおられた。

気が急いて駆け出すと、小石につまずいて草履の鼻緒がぶちっと切れた。

「きゃあっ」

ただでさえ足元の不安定な斜面なのに、そこは場所が悪かった。
転がった小さな体が、切り立った崖に向かって滑り落ちる。

(やだ、だれか、母さん、たすけて、こわい)

崖の下は、赤ん坊の握りこぶしより大きな石ばかり転がった河原だ。
土煙の中で近くにある草や蔓をつかむも、子供 の手に自分の体を留める力はなく、ずるずると落ち、あっというまに宙に放り出される。

「!」

回転する空と地面。
見開いた目に、矢のように飛んでくるものが映った。
その正体を見定める間もなく、伸ばした腕にがくんと衝撃が走る。
視界が激しく揺れ、体重のかかった肩がひどく痛んだ。

「おっも…!」

頭上から低い声が聞こえ、ゆっくりと景色が下っていくのを見て、ほたるは自分が宙吊りになっているらしいとようやく気づいた。
足の下には川、少し離れたところに岩肌。自分を吊るしている謎のなにか。

「…な、なに?何これ?」
「動くな落ちる!」

ぱっと顔を上げると、人影が一人ほたるを引っ張っていた。

「いやあ、なに、だれ?離して!」
「離したら死ぬだろ!」

人影が小さな体を抱えようとするも、恐慌状態のほたるには何もかもがひどく恐ろしく、じたばたと暴れ、二人は宙を大きく揺れ動く。
ほたるが暴れたのが悪かったのか、単に人影の腕力が足りなかったのかはわからない。が、当然の結果として二人は川に落ちた。
派手な水しぶきが上がり、近くで水を飲んでいた鹿が驚いて山へ逃げ込む。

程なくして謎の人影の方が先に顔を出し、気を失ったほたるを岸辺に引きあげた。
墜落した時には高度が低くなっていたのと、川が蛇行して深くなる場所に落ちたのが幸いしたようだった。

「おい、しっかりしろ」

頬を叩かれ、ほたるは目を覚ました。
霞む目に遠い空と見知らぬ人が映る。
日暮れ間近の濃い影で、顔形はよくわからないけれど 、鼻が高く、よく日に焼けた浅黒い肌の少年だ。
年は、十五、六くらいだろうか。鷹のような鋭い瞳がほたるを見下ろしていた。

がばりと跳ね起きる。
極楽ではない。見覚えのある河原だった。
頭から爪先まで見事にびしょ濡れで、草履もどこかへ行ってしまったが、大きな怪我はしていない。
事態の飲み込めないほたるをよそに、少年は「気がついたか」と安堵の声をもらした。

「どこか痛むところは」
「な、ない」
「ならいい」

そう言って少年は立ち上がり、雫の滴る着物と髪を無造作に搾り出した。

無事を尋ねられたから反射的に答えてしまったが、この辺りでは見ない顔だ。
よく見れば着ているものも風変わりだし、頭は髷を結うどころか、ざんばらで長さもない。
しかも 、さっき起こった事は一体。
青ざめたほたるに、少年は構わず叱責した。

「なんでこんなところにいる。村の者に、大岩からこちらに入ってはいけないと教わらなかったのか」

大岩とは天狗の腰掛石のことだろうか。なら、彼は天狗なのか。

「あの大岩を境に、外のものが我らの館に辿り着けぬよう術がかけてある。今回はたまたま俺が見つけたからよかったが、そうでなければ獣に食われて死んでいたぞ」

ぞっとして後ずさる。
大きな獣と遭遇した事はないが、獣より得体の知れない相手にそう言われると、やけに真に迫って聞こえた。
ぽた、ぽた、と絞りきれなかった水滴が少年の足元の石を濡らす。その色が二種類あるのに気づいて、はっとした。
わらじと脛当、仕立のよさそうな常盤 色の山袴、袖の短い着物に手甲。その隙間を薄い赤が汚していた。
ほたるの視線をたどった少年が己の流血に気づく。川底には尖った石も多いから、そのせいだろう。

「気にするな」

何でもない事のように少年が隠すから、ほたるは大きくかぶりを振った。
相手が何であれ、怪我をして赤い血を流すのだ。そして、ほたるを助けて心配してくれた。それは、ほたるにとって静かな衝撃だった。
立ち上がって辺りを見回す。

(蓬が見当たらない)

その代わり、いいものを見つけてほたるは駆け寄った。
紅の大ぶりな花。それを根元から摘む。

「何をしている」

怪訝な声で問いかけてきた少年に、ほたるは駆け寄った。

「これ、傷薬になるって、隣村のばあさまが言ってたから」

そう言って花を差し出したほたるに、少年はしばしぽかんとしていた。
さっきまで自分に怯えていたのに、血を見るなり、にらむような顔で手当てをしろと促す。こんな年端もいかない子供が。

「っふ、はは」

突然笑い出した少年に、ほたるは色々な言葉が頭から吹っ飛ぶほど仰天した。

「どうしたの?どこかぶつけたの?」
「いや、大丈夫だ。ありがとうな、ちび」

わしゃわしゃと頭を撫でられ、目を回しながら、気が抜けたほたるは叫んだ。

「ちびって言うなー!」

疲れて足元の覚束ない子供を麓まで送り届け、怪我の手当てをし、水干に着替えた少年が自室でくつろいでいると、にわかに館が騒がしくなった。
開け放った窓から活気に満ちたいくつもの声が届 く。

(帰ってきたのか)

一族は鞍馬の大天狗の系譜に連なる。その本元である僧正坊がどこぞに喧嘩を吹っかけ、父を筆頭に男衆が応援に行ったのは一月前。

時は夕刻。旅の埃を落とすより先に、夜を徹した酒宴となるだろう。
宴が始まる前に顔を出すべきなのだろうが、気が進まなかった。戦嫌いの彼は血気盛んな男衆によく思われていない。
どうしたものかと悩んでいると、軽やかな足音が近づいてきて、勢いよく部屋の襖を開けた。

「伊吹、いるの?」

現れたのは、小袖に緋袴を纏い、豊かな髪を朱鷺色の組紐で高く結い上げた若い娘。

「姉上、お戻りで」

脇息から身を起こし、姿勢を正す。

音羽と呼ばれる異母姉は、くっきりした目鼻立ちが優美な佳人だが、中身は巴御前もかく やといわんばかりの女武者だ。
男勝りな音羽は、大人しい総領息子に代わって父と行動を共にする事が多く、今も鎧こそつけていないが、袖や裾は擦り切れ、いくつも鉤裂きができている。身を清めるより先に様子を見に来たらしい。
その姉は、気楽な格好で自室にこもっていた弟に柳眉をひそめた。

「総領息子がこんな所で何をしているの」
「…私が行けば、皆の気持ちに水を差すでしょうから」
「例えそうだとしても、皆と共に出ないのなら、せめて帰ってきた者を労うくらいすべきではないの。疎まれている事は、役目を果たさない理由にならないでしょう。」

返す言葉もなかった。
音羽の言うことは正しい。疎まれているなら、いっそう皆に親しむべく働きかけねばならない。姉がわざわざ伊吹の部屋まで来て小言を言うのも、ひとえに総領息子の立場を慮っての事。

ただ、音羽が気づかうほど、父や姉、皆との埋められない相違が身の内で際立つようで、気持ちが沈む。

「あら伊吹、これどうしたの」

動かない弟から視線を外した姉が、部屋の隅に転がしていた芍薬に目を留めた。あの子供の寄越した物だ。
芍薬が薬になるのは確かだが、そのままで使える訳ではないし、館には薬がある。そのため処置に困って転がしていたのだ。

「貴方にしては珍しいものを」

芍薬を拾い上げた音羽の目元が、ふっと娘らしくほころぶ。

「綺麗ね。水にさせばしばらくもつでしょう」
「お気に召したなら差し上げますよ。此度の祝いの代わりに」
「いいの?なら、遠慮なく」

人にもらったものをろくに愛でもせず別の相手に渡すなど、普段はしない事だが、今は姉の気をそらす方が重要だった。
思わぬ贈り物に機嫌のよくなった音羽だが、去り際に釘を刺すことは忘れなかった。

「いい事、伊吹。ちゃんと皆のところに顔を出すのよ」

念を押して、たん、と襖を閉める。
どうあっても宴を免れる事はできなさそうだった。



翌日、ほたるは落ち込んでいた。

(根っこを乾かさなきゃいけなかったなんて…)

芍薬の話である。
昨日、家に帰ってたっぷり怒られた後、さりげなく母に尋ねて、ほたるは過ちを知った。

(切り刻んで飲むんじゃなかったのか)

道理で笑われたはずだと思ったが、年端もいかない子供の知識など、そんなものである。
が、そうなると、花一輪とはいえ、自分のせいで怪我をさせた上に役に立たないものを自慢げに押し付けてしまった訳で、悩んだ末、ほたるは再び山を登っていた。

天狗の腰掛石のところまで来て、足を止める。
この先は人の領域ではない。一歩進めば戻れない。
昨日はたまたま見つけたと彼は言っていた。つまり、踏み込んだからといって会えるとは限らない。
通りかからないかと背伸びをしたり、腰掛石によじ登ったりしてみたが、小半刻もすれば甘い期待だとわかる。
じっとしていても仕方がないと、ほたるは足を踏み出した。

腰掛石を一歩、二歩と越え、振り返る。さわ、と気持ちのよい初夏の風が吹いた。
太陽は明るく、土と木々の健やかな匂いがする。何も変わったように感じない。
けれどここは異郷なのだと強く思った。
前を向き、鬱蒼とした木々を見据え、ほたるはすうっと息を吸って、大声で叫んだ。

「助けてー、落ちるーっ」

間抜けな悲鳴が辺りに響く。
十を十回数えても何の反応もない。葉っぱすら落ちてこない。

(やっぱり無理か)

無謀だとわかってはいたが、山のどこに棲んでいるのか知らず、他に方法も思いつかず、ほたるは肩を落とした。今日は諦めるしかなさそうだ。

「仕方ない、毎日通うか」

そう意気込み直していると、低い声が頭上から降ってきた。

「何をやっているんだお前は」

見上げれば、そこには昨日の少年が腕組みして浮いていた。
あきれた風ではあるが、目に嫌悪はないのを見てとって、ほたるはにっこりと笑った。

「何て呼べばいいかわからなくて」

悪びれないほたるに、少年は一つため息をついて地面に降り立つ。

少年は白い着物に藍色の山袴と簡素な出で立ちに、今日は髪をうなじで無造作に束ねていた。そうすると薄い頬が露になり、雰囲気がきりりと引き締まる。
昨日は体格差もあいまって恐ろしく見えたが、こうして明るい時に見ると、涼しい目元の印象的な若者だ。

「もう来るなと言ったはずだが」

昨日送り届けた時、確かに彼はほたるに言い含めた。あれから丸一日と経っていない。
顔をしかめる伊吹に、ほたるは「言い忘れた事があったから」と弁解する。

「言い忘れた事?」
「うん。昨日は助けてくれてありがとう。」

虚をつかれたように少年が目を丸くした。

「あと、ごめんなさい。怪我させたのと、あの花、役に立たなかったでしょう。代わりに蓬を細かくしたやつ持ってきたんだけど。」

大真面目に見上げてくるほたるに、伊吹はしばし悩んで、正直に断った。

「もう塞がったから必要ない。花は役に立った」

嘘は言っていない。あの後、姉は上機嫌で、早くに宴から解放してもらえた。

「それより、一人でここまで来たのか」
「うん。見られちゃいけないと思って」

思ったより頭は悪くない、と伊吹はひそかに評価を改める。

「そういえば名前聞いてなかったな」
「ほたるだよ」
「大層な名前だな」
「そっちは何ていうの?」
「伊吹だ」
「そっちこそ変な名前。ねえ、伊吹は人ではないの?」

まっすぐに切り込んだほたるの目を、伊吹はじっと見つめた。
素性の知れない相手への畏怖はない。媚びもない。
答はするりと口から出た。

「そうだな。人ではない、天狗だ」
「てんぐ」

静かに繰り返したほたるに、伊吹は微妙な気持ちを味わった。飛翔しているところを散々見られたのだ。騒がれても今更だが、反応が薄いのもつまらない。

「驚かないのか」
「あんまり。天狗って人とあまり変わらないのね」
「見た目はな」
「空飛べるのよね」
「法力でな。翼を持つ者もいるが。寿命も長いぞ。」
「どれくらい?」
「三百年くらいか」
「三百…」

想像もつかない数字に、ほたるは困り顔になった。村の人は四十を迎えるのが精々だ。
一方の伊吹は飄々とした様子で風に吹かれている 。

「伊吹は、いくつなの?」
「五十と少し。人より時の流れが遅いからな」

それでこの見た目という事は、天狗の中では若輩かと見当をつける。だったらきっと、ほたるなど赤子同然だろう。
胸が痛んで、ほんの少し言葉が途切れる。
ほたるは日の高さを確かめ、時を計った。もっと一緒にいたいが、戻らなくてはならない。

「ねえ、また来てもいい?」
「もう来るな」

つれない返事だったが、昨日より語調はやわらかく、ほたるは小さく笑った。



それから二日後、ほたるは三度、境界を越えた。

「伊吹ーっ」

昼下がりの空にむかって叫ぶと、三十を数えたくらいで伊吹は現れた。

「大声で呼ぶな!」

あっという間に降りてきた伊吹は、顔をしかめていた。

「前もそうしたのに」
「あれはいいんだ。皆、宴で潰れていたから」

宴って何だろうと思ったが、前とは事情が変わったのだろうと、ほたるは納得した。

「昨日は来なかったから安心していたのに、今日は一体何なんだ」
「昨日は雨が降ったし、母さんも具合悪かったから」

ほたるの父親は戦で死に、母が近所の畑を手伝う事で暮らしている。はっきり言えば村の厄介者だ。
だからほたるも、他の子供たちと遊ぶより、家の手伝いをする方が多い。
だが、体が弱い母は時折寝付く。そんな時、ほたるは隣家の小母さんの手を借りて食事を作ったり、母の世話をするのが常だった。

「それで、精のつくもの何かないかなって探しに来て」

ほたるのような子供が手に入れられるものなど、たかが知れているのだが、つきっきりというのも落ち着かないのだ。

「ついでに来ちゃった」

不安を見せないよう、沈みがちな自分を奮い立たせるように、あえて軽く言い切ると、伊吹は半眼でほたるを睥睨した。

「お前、俺が何だかわかっているのか」
「天狗でしょう?」

ほたるがけろりとしていると、伊吹は頭を抱えて「わかってるんだかわかってないんだか…」とぼやいた。

「あのな、ちび、お前を神隠しに遭わせてもいいんだぞ?」
「神隠しって神さまがしてるんじゃないの?」
「天狗の境界に入ってきて、迷って帰れなくなったのを、村の奴らが勝手に神隠しって言ってるんだ」
「じゃあ大丈夫」

ほたるはにっこり笑った。一昨日は少し困ったけど、今はもう怖くもなんともない。

「伊吹は優しくてお人よしだもの」

じゃなければ、ほたるを叱ったりしないし、三回も顔を見せたりしない。
伊吹はほたるを怖い目になんて遭わせない。

毒気を抜かれた表情で伊吹はしばし天を仰いでいたが、道中で摘んできた山桑の実をほたるが「食べる?」と差し出すと、力なく受け取った。

「桑の実、好き?」
「嫌いじゃないが、柿の方が好きだな」
「柿なんか高いとこに生るととれないじゃない」
「…お前、本当は俺が天狗だってわかってないだろう」

手のひら二杯分の実はすぐになくなり、ほたるはうんと伸びをした。帰らねば。
名残惜しい気持ちでいると、不意に伊吹が頭上に飛び上がった。
「ちょっと待ってろ」と言い残して山頂の方へ飛んで行った伊吹は、 ほたるが待つのに飽き始めた頃になって帰ってきた。
手を出せと促され、素直に出すと、伊吹は小さな巾着を落とした。

「何?」

軽い。耳元で振れば、何か小さいものがたくさん入っている音がした。

「松の実だ。滋養がある」

ぱちりと目を瞬かせる。これは母親にということだろうか。
そっと見上げると、伊吹は「母親が寝込んでるなら早く帰れ」とそっぽを向いた。
桑の実とこれでは釣り合わない。こっちがもらったものの方が大きすぎる。

ふと笑みがこぼれた。

「…やっぱり、伊吹はお人よしだね」

こんな高価そうなもの、ほいほいと他人にくれてやってしまえるなんて、本当にお人よし。母親に何と言い訳するか、ほたるが頭を悩ませるなんて、思いつきもしないくらい当たり前のように。

鼻がつんとする。
嬉しかった。
母が寝込むと村の人は嫌な顔をする。こんな事してくれたのは伊吹が初めてだ。
不安な気持ちが、すうっととけていくようだった。

「ありがとう」

まっすぐに見上げてお礼を言うと、伊吹はうっとうしそうに手を振った。

「早く帰れ。親が心配するだろ」





それからも、ほたるは数日おきに山に通った。

伊吹はいい顔をしなかったが、次第に諦め、印字打ちに付き合ったり、珍しい茸や薬草を教えたりするようになった。
山に通うようになって十回を数えた頃、大声で名を呼ばれてはかなわないと、伊吹が小さな笛をくれた。鳥の鳴き声のような、澄んだ音を出す笛だった。

伊吹がほたるに慣れてからは、天狗の館から持ってきた美しい絵巻物を見せ、遠くの湖の見える山頂にほたるを連れ出したりもした。
人に化けて里に下りた時は、市で櫛を買ってもらった。そのお礼に、河原で見つけて大事にしていた綺麗な石を、とろりとした艶が出るまで丁寧に磨いて贈った。伊吹はそれに穴を空け、組紐を通して守り石にした。
二人で過ごす時間はさほど長くはなかったが、ほたるには見るもの全てがあざやかで、伊吹にとっても心安らぐものだった。

二人共、逢瀬とも言えないような密会を、決して口外しなかった。
ほたるの母は、時たま姿を消しては色々持ち帰る娘に不安げにしていたが、明るいうちに必ず帰ってくるのを見て、結局咎めなかった。
音羽は表情の明るくなった弟に手放しで喜んだ。それまでの伊吹は、父や姉に従順ではあるものの、どこか鬱屈としたものを漂わせていたのが、肩の力が抜けた。
周囲の思惑をよそに、二人が惹かれあっていくのは、自然な流れだった。



四年の月日が経った。

ほたるは十四になった。
その頃には、ほたるの評判は近隣の村に広まっていた。
黒々とした髪と桜の花びらのような頬。首がほっそりして、鄙には珍しい器量よし。病がちの母親をよく助ける働き者。
村の若衆の誰がほたるを嫁に出来るか賭けになっているというが、その当人は至ってのんきだった。

「えっ、おえんちゃん嫁にいくの?」

素っ頓狂な声が隣家の梁まで響く。
苦笑いで答えたのは、一緒に繕い物をしていた隣の家の幼友達だ。

「そんなに驚かなくても。あたし、もう十六よ?」

女子は普通、月のものがくればすぐ嫁にいく。えんが未婚なのは相手方の事情あっての事だ。
ほたるだって話くらいあるでしょうと、えんが首をかしげる。

「まだ早いよ」
「早くはないと思うけど」

えんが太い眉をひそめるが、ほたるはそれを笑い飛ばした。
誰にも言わないが、ほたるはずっとこのままでいるつもりだった。
母を置いていきたくないし、伊吹に嫁ぐ訳にもいかない。かと言って、同じ村の人なんて考えたくもない。

「だったら、どんな人ならいいの?」
「やだ、もう」

娘達の笑い声が初夏の風に忍びまぎれる。

と、そこへ村長が汗を拭き拭きやってきた。

「ああ、ほたる。ここにいたか」

探したぞ、と妙に明るい顔の老爺に、ほたるとえんはきょとんと顔を見合わせた。

「ほたる、お前にいい話だ」
「いい話ですか?」

普段接することの少ない村長が、ほたるを探しに来てまで知らせようとする話など、そうそうあるものではない。
手を止め、二人は言葉を待った。

「小西様が城へ上がるようにと仰せだ」
「城へ?」

小西という名は聞き覚えがあった。この一帯を預かっている領主が確かそんな名前だ。昨年家督を継ぎ、若く聡明だと聞く。

「そうだ。先月近くを通りかかった時に、代官様からお前の評判を聞いたらしい。側に侍るようにと」

ぽかんと口を開けたほたるに、顔を真っ赤にしたえんが飛びついた。

「それって見初められたって事?すごいわ、ほたる」
「もし男子を産めば次の領主も夢ではないぞ」

思わぬ事に興奮する周りの声を聞きながら、ほたるはただただ呆然としていた。
当人の与り知らぬところで、なにかが大きく動こうとしていた。



ほたるが召される話は、その日のうちに近隣の村に広まった。
えんのように自分のことのようにはしゃぐ女もいれば、泥臭い百姓の娘が城でうまくやれる訳がないと陰口をたたく者も、激励に来る者もいた。

「いいか、ほたる。お前はもう小西様のものなのだから、男に近寄ってはならん。特に若い男はだめだ。万に一つでもお前の身に何かあって小西様の不興を買っては、えらい事になる。わかるな?」
「…」

大真面目な顔で向かい合う村長の言いつけは、ぼんやりと眼前の騒ぎを眺めるほたるの耳にほとんど入らなかった。

「領主様の奥方が出るとは村の誉れだあ」
「ああ、こんな事なら去年の祭で誘っとくんだった」
「何言ってんの。あんたなんか、はなっから相手にされてないわよ」

どっと笑いが起こる。

ほたると母親の二人が暮らす小さな家は、野良仕事を終えた村人が続々と集まり、夕刻には外にあふれて勝手に宴会が始まっていた。
母は布団から起き上がり、料理を作り出した女達と話している。貧しさに耐え、女手一つで育て上げた娘に領主との縁談が持ち上がるとは、思いもしなかっただろう。この騒ぎで体調を崩すことなく、興奮でいつもより血色がいいのが幸いと言えた。

「迎えが来るのは五日後
。それまでに準備をせねばならん。もう畑に行かんでいい。鶏の世話もだ。これから忙しいぞ。毎日ワシの屋敷で挨拶と、勉強と。…お前ら、少しは静かにせんか!」

村長が一喝するも、背後の騒ぎは静まらない。憮然とした村長は今後の予定について声を張り上げる。

ほたるが口を挟む隙もなく、すさまじい勢いで全てが流れていく。悪い夢でも見ているかのようだった。
身分の低い美しい女が権力者の目に留まり、のし上がる。女の栄華ここにあり、と大抵の人が思うだろう。
たかが小娘が断れる話ではない。誰一人、母でさえ、まさかほたるが拒むとは思っていない。顔色が悪いのは緊張から、口をきかないのは物慣れなくて戸惑っているからで、気持ちが落ち着けば喜ぶはずだと信じきっている。

拒めばどうなるのか、ほたるにはわからない。
村の人にはひどく責められるだろう。迎えまでどこかに閉じ込められて、無理矢理連れて行かれるだろうか。そっとしておいてもらえても、偉い人に逆らった村と悪評が立つ。母も針のむしろで辛い思いをする。

( 伊吹…)

低い声。力強い腕。かすかに笑う口元。一瞬で目の前に広がって消える。
袂に大事にしまっている櫛を意識して、膝の上で固く拳を握る。

会いたい、と強く思った。



ほたるが山に来なくなった。

空いた時間を見つけては山に来ていたのに、もう三日も顔を見ていない。
何かあったのかと案じる気持ちの裏側で、別れの時だと理性がささやく。ほたるが離れていこうとしているのだと。

不安に騒ぐ胸に、自然ななりゆきなのだと何度も言い聞かせる。
この四年、ほたるはみるみるうちに美しくなった。やわらかな頬はそのままに、手足が伸び、髪が伸びた。最近はむき出しの白い脛がまぶしく、視線をそらしてしまうほど。
けれど、伊吹は変わらない。腕の太さも、顔かたちも、身の丈も、何も。
寿命が違う。住まいも、習慣も、何もかも。慕われている自覚はあったが、ためらいもまた大きかった。

人と、人ならざるものの交流は、昔からたまに聞く話だ。最初は物珍しさも手伝って深い情を交わすが、いくつものすれ違いが互いを傷つけ、疲れ果て、やがて寿命の短い人の方から離れていく。人ならざるものは、その後、悲しみを引きずりながら長い生を過ごすのだ。
まさか、自分がそうなるとは思いもしなかったが。

五日目も、ほたるは山に来なかった。

その間、伊吹は自室で転がって色々な事を考えた。
病か怪我か、他に来られない事情があるのか。あるとすれば何なのか。
もう来ないつもりか。また山に来るようになったとして、それはほたるにとってよい事なのか。
自分はほたるをどうしたいのか。一緒になるにはどうすればいいのか。山へ迎えるのか。故郷を捨てるのか。ほたるに母親を捨てさせるのか。捨ててどこへ行けばよいのか。
ほたるに先立たれたら、その後どうするのか。

迷いながら、最後にたどりついたのは一つ。

(ほたるが俺から離れたがったら、手放せるのか?)

例えば、村の男と夫婦になるつもりだとして、祝えるのか。それから自分はどうするのか。大人しく父の跡を継いで山を守るのか。ほたるの暮らす村の側で、二度と言葉を交わす事もなく。

しがらみも何も考えずにすむのなら、答は単純だ。
ほたるが欲しい。彼女の短い時間をむさぼりつくしてしまいたい。
けれど、この先どうなりたいという話を、伊吹もほたるもした事がなかった。どちらからともなく避けていた。

だからこうなったのだろうか。
ほたるが今、何を思っているのか、わからない。次に山に来れば聞けるだろうか。

(待ってばかりだな 、俺は)

焦りをこらえ、伊吹は長い息を吐いた。
ほたるの訪れを待ち、言葉を待ち。いい年した男の体たらくではない。
会いたい、と今までになく強く念じるも、叶うはずもない。
ほたるを引き留めたいなら、自分から行かなければ。そう思った時だった。

「伊吹?」

襖が開いて、心配そうな姉が顔を出した。

「最近ふさぎこんでいるようだけど、どうしたの。父上も心配してらっしゃるわ」

座った音羽を前に、だらしなく転がっている訳にもいかず、伊吹は起き上がって胡坐をかいた。

「…どうもしません」
「嘘おっしゃい。そんな情けない顔をして」

音羽の眼差しがきつくなる。

「この数年、貴方はいきいきとしていたわ。その理由が何であれ、いい事だと思っていたの。でも 、最近の貴方は口を利かず、部屋から出てきもしない。様子を見に来てみれば、昼間から寝てばかり…」

四半刻にわたる説教を伊吹は黙って聞いた。が、内容は耳を素通りしていた。

ほたるは今どこで何をしているだろうか。母親に代わって畑の手伝いをしているのか、それとも村の男と一緒にいるのか。
焦れる気持ちが態度に出たのか、音羽がこれみよがしな溜息をつく。

「私が話しているというのに、貴方の心は一体どこにあるのかしらね」
「すみません」

さすがに気がとがめて、伊吹は背を伸ばした。
と、音羽が何かに気づいたように、目を一度瞬かせる。

「…珍しいものを持っているのね」

姉の視線をたどって、守り石の事だと気づく。

色はわずかに青みを帯びた白。それに浅葱 の組紐を合わせ、手首にはめられるようにしてある。が、やはり石は石。常時つけているには少々重いので、館では外していた。
見慣れない形状のそれを拾い上げ、音羽はとっくりと眺めた。

「瑠璃でも水晶でもない。組紐もいい品ではないわね。糸が弱っているし、少し色が褪めている。でも、よく磨かれてるわ。形も綺麗」

しまった、と伊吹は天を仰ぎたくなった。
高直な品に囲まれて育った音羽の目は確かで、伊吹が宝玉や装飾品に興味がないのもよく知っている。こんな物どうしたのだと聞かれて、姉を納得させられるような答はない。じわりと緊張が生まれる。

けれど、音羽は訝しむ様子を見せず小首を傾げた。

「ねえ伊吹。これ、私がもらってもいいかしら」
「姉上」

いつもなら 、あっさり譲るところだ。音羽はむやみに人のものをほしがる性質ではなく、しかも日頃から伊吹をかばってくれている。

けれど、ほたるの寄越したものだ。姉が相手でも、そうやすやすと譲る訳にはいかない。
固い顔で拒む弟に、音羽は口をとがらせた。

「駄目なの?」
「すみません、それだけは」

謝ると、音羽は「そう」と言って、素直にそれを伊吹に返した。
ほっと安堵し、人目につかぬよう仕舞っておこうと立ち上がった伊吹を見つめて、音羽はゆっくりと口を開いた。

「ねえ、伊吹」
「何ですか」
「あの娘、かわいい子ね」

驚愕で息が止まる。
ゆっくりと、心の臓が凍りつく心地がした。

「安心なさい。貴方が人の娘と会っている事、父上には言ってないし、手も出していないわ。知っているのも、多分私だけ」

何か言わなければいけないのに、頭の中が真っ白で、何を言えばいいのかわからない。
あからさまな反応を見せた弟に、音羽は哀れむような気持ちで言葉を重ねた。

「私の言いたいこと、わかっているでしょう」
「………」
「天狗と人、まして貴方は次の頭領よ」

天狗と比べて、人は弱くて、すぐに死んでしまう。

音羽がどれほど優れていても、次の頭領は男子の伊吹だ。だから音羽もずっと伊吹を立ててきて、伊吹もそれに甘えていた。

「あの娘の幸せを願うなら、このまま人の世へ戻してあげなさい」

内心の苦さのにじむ声音だった。本当に弟と、おそらくは遠目に見ただけのほたるを案じての諫言なのだと知れる。

わかっている。
母親を支えながら人の中で暮らす方が、ほたるは心安らかに過ごせるだろう。

(それでも、ほたるだけは)

「伊吹」
「すみません、姉上」

気丈で、きれいで、本当はとても弱いほたる。
いずれ手放さなければいけないとしても、あと少し、もう少しとずるずる引き延ばして、自覚してしまえば、もう。

思いつめた顔の弟に、音羽がふと声をひそめた。

「縁談があるそうよ」

声が出そうになるのを、伊吹はどうにかこらえた。誰のことかなど問わずともわかった。
覚悟はあったが、それでも衝撃で体が震えた。

「お相手は小西の若殿。側室だけど、いわゆる玉の輿。昨日見てきたら村はお祭り騒ぎだったわ」
「ほたるは、そういう縁談を喜ぶ娘ではありません」

母親思いのあの娘が、遠く離れるのを快く了承するはずがない。それは、これまで踏み切れなかった最大の原因でもあったし、そうであってほしいという伊吹の願望でもあった。

「悪あがきはやめなさい、伊吹。わかっているでしょう」

そう、わかっている。
領主に逆らえば、あんな小さな村は簡単になくなる。ましてほたるには母親という弱みがある。だが、それは人の事情であり、天狗には関わりのない事。

ほたるが何の合図もよこさず消えようとしている理由が、少しだけわかった気がした。
でも、受け入れてやる事はできない。
手の中の守り石を握り締める。

「すみません、姉上」
「伊吹!」
「後を頼みます」

血相を変えた音羽が立ち上がるより早く、伊吹は窓から飛び立っていた。



月明かりの差し込む部屋で、ほたるはぼんやりとうずくまっていた。

昼に小西と面会した。きっちり結った髷と山吹色の着物が似合う、朗らかな青年だった。落ち着いた声を聞きながら、ずるいと思った。いやらしい顔をしていたら気兼ねなく怨めたのに。

夕刻に軽い食事が与えられ、湯を使わされ、真っ白な単を着せられ、その時ほたるはようやくこれから起きる事を悟った。
連れてこられて数日は猶予があるものと、何の根拠もなく信じていたため焦ったが、どのみち数日内にこうなるはずだったと、どうにか自分をなだめた。

板敷きの間の中央に青々とした畳が鎮座している。灯りの代わりか、外へつながる障子が開けられ、夜風が植木の葉を揺らす。
どうしようもなく居心地が悪かった。
肌触りのいい着物も、い草の匂いも、真っ白な障子紙も、馴染みのない調度品全てがほたるを追い詰める。

小西は終始穏やかな態度だった。震えて上手く声の出ないほたるにも、辛抱強かった。初々しいところがお気に召したのだろうと、湯を使わされた時、古くから仕えているらしい女が笑った。

気づけば膝の上で手が震えていた。

(逃げたい)

一人でいるのが心細くて、明日が恐ろしくてたまらなかった。
でも、逃げようにも、どこから逃げればいいのかわからない。城の廊下は侵入者を防ぐために複雑な造りで、この部屋はその奥まったところにあり、近くには人が控えている。どこをどう通ってきたか、もはやわからない。

嫌だと一言口に出せばよかった。
例え行き着く先は同じだとしても、大人しく受け入れたりするのではなかった。
ろくに知らない男など嫌だと、喜び勇んで来たのではないのだと、せめて一回でも示せばよかった。

後悔ばかりがあふれる。
会いたい。低い声が聞きたい。優しい手に触れたい。あの人がいい。

「伊吹…」

手で顔をおおった、その時だった。

大枝が揺れて葉のこすれる音がして、室内に吹き込んだ風がふわりと髪を揺らした。

「ほたる」

荒い息使いと、かすかな夏草の匂いがして、ほたるは目を見開いた。
そんなはずはない。ここは遠く離れた城で、彼の声など聞こえるはずがない。聞こえてはいけない。

「ほたる、ここにいた」

なのに、安堵したように言うから、ほたるは恐る恐る顔を上げた。

「…伊吹?」

そっと問いかけると、切れ長の瞳がやわらかく細められた。
息せき切って翔けてきたのか、肌が火照って、額に汗がにじんでいる。夢でも幻でもない、本物がそこにいた。

「どうして」

伊吹は何も知らない。一度も会えないまま来たのに。

「馬鹿だな、お前は」

手が伸びてきて、梳られた髪を優しく撫でた。

「三日とあけずに来ていたのに、急に顔を見せなくなったら、何かあったのだとわかる」

後は噂話をたどってきた、と伊吹があっさり種明かしした。

嗚咽をこらえようとして、喉がひきつる。
髪を、背を撫でる手が、あたたかくて、気持ちよくて、顔が歪むのをこらえきれなくて、もう無理だった。

ぽた、ぽたと涙がこぼれる。

「遅くなってすまなかった」

ほたるが何も言わずとも、状況から伊吹は大よその事情を悟ったようだった。それが嬉しくて、申し訳なくて、また熱い雫が頬を伝う。

固い胸元にすがりつけば、背中に回された腕に優しく力がこもった。
いつか、ほたるを救ってくれた腕だ。

「さらってもいいか」

せっぱつまった声が耳元でささやく。

「化け物がさらった事にすれば、村も、母親も、咎められない」

伊吹の言葉に、はっとして見上げれば、頷きが返る。胸の奥が熱くなった。
昔から、どうしてこんなに。彼だけが。

「さらって」

どこか遠いところへ。誰の手も届かないところへ。

頼りない単姿のほたるの肩に自分の小袖をかけ、伊吹が抱き上げたところで、遠くから物々しい音が近づいてきて、襖が乱暴に開け放たれた。

「動くな!」

矢をつがえた弓兵が、ぐるりと半円状に並んでいる。その中央で、刀に手をかけた家臣を従え、険しい顔の小西が伊吹をにらんでいた。

「化生か」

苦々しい声音でつぶやいた小西は、村の娘たちに騒がれそうな容姿だが、二十歳そこそこで領主をやっているだけあって、威厳はそれなりだ。
だが、内外に女傑と評される音羽を振り切ってきた伊吹に、もう恐いものなどなかった。

「この娘、天狗が貰い受ける!」

後で思い返せば恥ずかしくなりそうな大音声をはりあげて、伊吹は欄干の下に身をひるがえした。



「―――――それが、私の知ってる全て」

疲れたように重い息を吐き、伯母が白湯を一口ふくむ。

話し始めたのは夕餉の前で、今はもう夜半に近くなっていた。灯りが隙間風に吹かれて、ちらちらと揺れている。

早くに両親を亡くしたため、骨が浮き、少しかさついた彼女の手で、多聞は育てられた。二百歳を越えた今も若々しく、ろうたけた物腰や着物の着こなしの上手さから、かつての美貌が偲ばれる。

「後はお前も知っての通り、二人は東へ逃げた。仲睦まじく暮らしていたけど、伊吹は城から逃げる時に負った矢傷がもとで死んで、ほたるも子供を産む時に儚くなって。若殿も山狩りに精を出した事もあったけど、結界のせいで戻れない者が続出して断念した。可哀相なほたるの母親は、色々あって、代官が引き取って世話をしたんだけどね。いつかこうなる気がしてたと洩らしたそうだよ」

天狗が泣いて嫌がる娘をさらったなんて恐ろしげな伝説になっているけど、実際はこんなものさ。

そう締めて、伯母は煙管に手を伸ばした。旨そうに煙を吸い、細く吐く。

「だから多聞。お前が誰と添い遂げるつもりでも、よく考えた結果なら、私は止めないよ。」
「いいのか」
「自分の弟だって止められなかったんだ。お前を止めるなんて無駄な事はしない」

煙をくゆらせながら、音羽は甥を眺めた。
艶のある黒髪も、優しげな面構えも、母親そっくりだ。ただ、目は父親に似ている。てらいのない物言いも。

「惚れた女がいる」
「そうかい」
「人間だけど、いいんだな」
「好きにおし」

音羽がそう言うのを待ち構えていたかのように、多聞は勢いよく立ち上がり、山間の隠れ家を飛び出していった。

風のようだと音羽は思う。
伊吹も、多聞も、つむじ風のように翔けていく。親子二代で人に惹かれるなど、どんな因果か。切ない気持ちで苦笑をこぼす。

下草を踏み分けて外に出てみれば、十六夜月が出ていた。伊吹が一番好きだった月だ。
近くの沢ではきっと蛍が舞っているだろう。
懐かしさと愛おしさを大事に抱え、涼しい風の中、音羽はいつまでも月を眺めていた。


――風待月に虫の舞う



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